第2話 名前

 座敷童子は一呼吸おいて続けた。


「そう呼ばれることもあります。あなた、お名前は?」

「健太郎……倉橋健太郎だ」

「倉橋、倉橋ですか……また面倒な名字なあざなね」と、座敷童子は呆れ声で言った。

 俺にはその真意が理解できなかった。


「まずは供物を用意しなさい。そうすれば、あなたの願いをかなえるわ」

「くもつ、供物か。でも、願いなんてないぞ?」

「何かひとつくらいはあるでしょ?」


 死ぬまで遊んで暮らせるくらいの金はある。金で買えるものは自分で買えばいい。

 では金で買えないもので、今欲しいと思っているもの……。


「残念だが、ない」

「本当にないのっ!?」


 垢抜けないが、端正な顔立ちが俺の目と鼻の先にまで近づいた。

 赤黒い瞳孔に、赤い宝石のような光彩がジッと俺の心の奥底を覗き込むように見つめていた。


 仕事ばかりで女性に接する機会がないというのは、子どもと接する機会がないということでもある。まだ十歳くらいの女児にしか見えないこの座敷童子への接し方が俺にはわからなった。


「嘘は、ついてないようね。じゃあ、『願いができるまで待つ』という仮の願いを聞くことにしましょうか」

「へ、なんだそれ?」

あるじが私にかなえて欲しいと思う願いを見つけるまでは毎日供物を提供してね、ということよ」

「供物って何だ?」

「食事ですね」

「居候じゃねえか!」


 供物と言われると立派な祭壇に並べて出すように感じたのだが、実際は俺が願い事を見つけるまでは三食昼寝付の生活環境を提供しろってことだ。


「三十余年も何も食わずにいたの。少しぐらい余計に食べさせてくれても良いでしょう?」

「それは俺が決めることじゃないのか?」

「……ぐむぅ」


 内見に来たときはまだ契約が済んでいない状態なので見えなかったのは理解できる。

 三十余年ものあいだ誰も住んでいない古民家が異様に小奇麗だったのは、この座敷童子のおかげだろう。


「その、三十余年もこの家を守ってきたのか?」

「え、ええ、そうよ。それが前の家主の願いでしたから」

「なるほど、そういうことか」


 この座敷童子が定期的に空気を入れ替え、水道を使って給排水管の水を流していたのだろう。雨漏りなどがあれば、何らかの方法を用いて修繕していたのかも知れない。だとしたら、この家をずっと維持してきてくれたことには感謝の意を示すべきだと思う。

 それに、座敷童子は家や蔵に住みつくあやかしで、住み着いた屋敷の住人に富をもたらすという話や、見た人に幸福をもたらすなんて話がある。そのため、福の神のように扱う家では毎日のように食事を供える。


「でもなあ、何もないんだわ」


 俺もこの座敷童子に食事をお供えしたいところだが、今日引っ越したばかりでは食べるものが何もない。このあと車で街にでて食べようと思っていたところだった。


「なんですって?」

「引っ越したばかりで、食材が一切ないんだよ」

「……そ、そうなのね」


 座敷童子は肩を落とし、蚊の鳴くような声で呟いた。

 なんだか申し訳なくなってきた。

 だが、コンビニに行くにも、外食を済ませるにも車で一時間くらい走らないといけない。

 一緒に外に食べに行くか、とたずねたいと思ったが何と呼べばいいか俺にはわからなかった。


「えっと、なんだ。名前、とかあるのか?」

「名前は主がつけてよ」

「そんなものなのか?」

「そんなものよ」


 座敷童子はリビングの窓から遠くに見える景色を眺め、急に黙り込んだ。

 俺にはその姿が何か思い出に耽っているように見えた。

 代々、自分が暮らした家で呼ばれていた名前を思い出しているのだろうか。例えば、三十余年前にここで暮らしていた人に呼ばれていた名前だとか。


 濡羽色をした座敷童子の髪はとても艶やかで、光が当たると茄子やよく熟したアケビの皮のような色に変わった。

 透き通るような白い肌、赤い瞳に、頬が赤いところがとてもアケビの実を思わせる。


「名前、アケビ、なんてどうだ?」

「……き、季節外れね。でも悪くないわ」

「じゃあ、今からおまえはアケビだ。いいか?」

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