トロンプルイユ

硝水

第1話

「映画観に行こう」

 スマホをいじりながら投げかけられた北原の誘いを二つ返事で承諾したのは、今日が特別安い日だということを知っていたからだ。毎月一日はチケットが一枚千二百円(二〇二一年現在)になる。そして今日、十二月一日は千円になるのだ。

「何を観たいの」

「今調べてる」

 北原もただ単に映画の日だから僕を誘ったらしい。向けられる小さい画面を覗き込む。上映スケジュールがずらりと並んでいる。

「『トロンプルイユ』、もう始まってるんだ」

 先月の一日に(これまた北原と)観た映画の枠に予告が入っていたやつだ。映画館の予告はちゃんと本編と似たテイストの作品が選ばれている。

「それにする?」

「北原がいいなら」

「いいよ。俺も予告で気になってたし」

 趣味が合うのか、合わせてくれているのか、僕が知らずと合わせているのかはわからないが、北原とはよく同じ映画を観ていた。大学生というものは映画にハマるものらしい。高校生よりは高いけど一般よりは安い割引料金設定があって、時間に自由が利く。

 今から出ればすぐの回に間に合うので、四限をサボることを決めて北原とキャンパスを出た。スカスカの地下鉄に乗って映画館へ向かう。

「吊革に頭が入ったらいいと思わん?」

 少し訛った呑気な声で、北原はそんなことを言う。

「思わないけど」

 こいつ、人を殺したことがあるんじゃないかな。と、何度か思ったことがある。本当に殺してるとは思わないし訊いてみたことはないけど。椅子が空いているのに吊革に両手を通して揺れている。

「ポップコーン割り勘な」

「うん」

 目当ての駅でゆっくりと車体が止まる。僕はドア横の席に座っていたからすぐに降りたが、北原は大きな手が吊革に引っかかって危うく乗り過ごすところだった。

 北原にポップコーンを任せて僕はチケット販売機の列へ並ぶ。映画館には結構人がいた。座席はどのあたりがいいか訊くのを忘れたが、そんなにこだわりがあるタイプではなかった気がするから僕の好みで一番後ろの真ん中を選択する。千円札二枚が呑み込まれ、チケットが二枚吐き出される。

 ポップコーンバケツを抱えた北原と合流して、ちょうど入場開始のアナウンスを聞いた。客足はまばらだ。ロビーにいるのは他の映画目当ての人間なのだろう。

 席についてポップコーンをつまみながら、予告映像を眺めて次はこれを観よう、と記憶に留める。黙っているが北原もこれを観ると思う。いや、北原と、か?

 照明が落ちる。ポップコーンを口に運ぶ手を止める。


「面白かったな」

「うん」

「ブルーレイ出たら買う」

「買ったら貸して」

「うるせえ」

 死体を騙し絵のように歪める殺人鬼アーティストの話だった。僕らは人体が複雑に折り畳まれたりするような、そういう映像が好きだった。


 それから二年の月日が経って、僕は『トロンプルイユ』のブルーレイ・ディスクを手に入れた。北原の遺品として。

 あの後お互いに卒論で忙しくなり、そのまま就職して疎遠になっていた。北原が地元に戻って映画館に勤めていたことも僕は知らなかった。邦題のダサいロゴが踊るパッケージを開く。

 北原は電車の吊革に頭を引っ掛けた状態で亡くなっているのが、始発の車掌によって発見された。首が切断された形跡はなく、直接の死因は窒息であることが検死の結果わかっていて、つまり北原は生きたまま吊革に頭を通したことになる。北原は、あの映画みたいな、死体、になった。なる方法を知っていた。実行する勇気があった。

 どうして何も言ってくれなかったんだろう。何か手伝えたかもしれないのに。いや、僕があの日『思わない』と答えて、それで、だからだ。ドライブにディスクを嵌め込む。ぶーん、と回る。そういえば、赤子の頭蓋骨は五つに別れていて、産道を通る時に少しずつ重なって小さくなるんだっけ。北原の頭頂部にあった打撲痕と、八枚に割れた頭蓋骨のレントゲン写真を思い出す。画面の中では人間も犬も鳥も複雑に折り畳まれている。北原は人を殺したことがあったのか、あの予告の映画は観たのか、このブルーレイは返さなくていいのか、結局訊けなかった。

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トロンプルイユ 硝水 @yata3desu

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