23. 大公夫妻と秘密の話し合い
朝食の席を後にすると、廊下で見慣れた灰色の短髪が目に入った。騎士服をまとった長身の男はシャーリィに気づくと、その場で頭を下げた。
「フランツ、おはよう」
「おはようございます。公女殿下、大公夫妻から伝言を預かっております」
フランツがキリリとした表情で言い、つられて背筋を伸ばす。
「まあ、何かしら?」
「本日の十一時、緊急の打ち合わせがしたいとの仰せです。執務室においでくださいますようお願いいたします」
「わかったわ。伝えてくれてありがとう」
「いえ、これが仕事ですので」
用件を伝え終わったからだろう。フランツはくるりと足先を反転させ、すたすたと来た道を戻っていく。
急いで伝言を伝えに来てくれたことに感謝しつつ、シャーリィも職場へと向かう。
今日は久しぶりに観光課で書類作りだ。
*
腕時計を見やる。あと三十秒で、十一の部分に長い針が合わさる。
シャーリィは薄く息を吐き、執務室のドアをノックした。
「シャーリィです。入ってもよろしいでしょうか?」
「――入りなさい」
低い声の許可が聞こえ、ドアノブを傾けて室内に入る。
大きな窓の前にあるデスクには紙のタワーが築いてあり、天井につくほどの高さの本棚が左右に並べられている。
一つしかないデスクからシャーリィを見つめるのは、レファンヌ公国、第三十七代大公クレメンスだ。亜麻色の髪はふわふわとうねり、やや垂れた目元には知的な輝きがある。
「緊急と伺いましたが、何かありましたか?」
「まあ、まずはお座りなさいな。お茶を用意させるわ」
クレメンスの横にいたビアンカ大公妃が手で促し、応接用のソファーを手で示す。二人がけのソファーに腰かけ、真正面にクレメンスとビアンカが並んで座る。
「家族でこうして集まるのは久しぶりですね」
「ああ、そうだな……ここ最近は政務も滞っていて忙しかったからな」
「シャーリィが元気そうで何よりだわ」
レファンヌ公国では大公が内政を、大公妃が外交を担当している。それと平行して、観光ツアーもこなさなければならないので、家族で集まる時間もゆっくり取れない。
ビアンカが緑の瞳を細め、書記官が運んできた紅茶を飲んでいる。その横に座るクレメンスは厄介な難事件を抱えているような渋い顔で言った。
「仕事の合間を縫ってきたから、お互い時間もないだろう。これから本題に移る。心して聞いてほしい」
「……はい」
「観光業は、シャーリィの頑張りもあって盛況だ。国同士の行き来も活発で、通行料の徴収も平年通りだ。……だが、しかし。ここで一つ問題がある」
「問題、ですか」
「我が国は現在、赤字だ」
「…………」
赤字。言葉を反芻していると、ビアンカが左手に持ったソーサーにティーカップを置き、テーブルにそっと戻す。
緑の瞳を縁取る長い睫毛を伏せ、色っぽい唇が言の葉を紡ぐ。
「貿易赤字なのよ。木材や民芸品の輸出は増えないのに、生活にまつわるさまざまなもの……とりわけ食料品の輸入が増えているの。このままではマズいわ」
「問題はわかりました。ですが……私は観光ツアーと温泉宿の運営で、すでに手一杯の状態です。何かお役に立てるとは思えませんが……」
解決したいのは山々だが、有効な手段が思いつかない。せっかく相談されたものの、役に立てそうにない。心苦しく思っていると、クレメンスが遠慮がちに口を開く。
「今、別館には特別客が滞在しているだろう?」
表情を変えずに見つめられ、シャーリィは身を硬くした。
「別館……ひょっとして、アークロイド様のことですか?」
「そうだ。彼は次期皇帝ではないが、第六皇子だ。特別客室の宿泊代を半年分、快く前払いされた、海の大国の皇族だ。我が国はトルヴァータ帝国からの輸入が多い」
話の流れがわかってきた。クレメンスの厳しい表情を見つめながら、シャーリィは言葉を選ぶ。
「つまり……皇子に泣きつけと?」
「簡単に言えば、そういうことだ。これはシャーリィにしか頼めない」
「そうはおっしゃいますが、皇子は療養に来ただけですよ。国際問題に首を突っ込む真似、向こうも好き好んでしたがらないと思いますが……」
実の兄にさえ、手紙ひとつ認められない。皇位継承権の争いという過酷な状況から逃げてきた彼に頼る真似はとてもできない。
首を横に振ると、クレメンスが膝に置いていた手を握りしめる。
「……野菜の報告は聞いている。シャーリィは皇子と仲がよいのだろう? だめで元々なのだ。どうか、話だけでもしてみてくれないか」
「わたくしからもお願いよ。大国相手に平常通りに振る舞える胆力があるあなたしか、頼める人がいないの」
「……え、別に怖くないですよ? ぶっきらぼうですが、根は優しい人ですし」
口調はさすが皇族だなと思うが、彼は意外と優しい。何せ、シャーリィの夢を叶えてくれたのだから。
しかし、そう思っていたのはシャーリィだけだったようで、ビアンカがくわっと目を見開いた。猛獣が脱走したような鬼気迫る顔で言い募る。
「馬鹿を言わないで。そんなの社交辞令でしょう。うちみたいな弱小国、その気になればいつでも属国にできるほどの軍事力がある国なのよ。第六皇子の怒りを買ったらと思うと、母はおそろしくて眠れやしないわ」
「そうだぞ、シャーリィ。あの国の機嫌を損ねることを考えたら、ご飯の味すらわからなくなるではないか。誰にでも公平なのはお前の長所だが、こちらは心臓バクバクなのだぞ」
夫婦揃って必死に言われ、思わず体を引いた。咳払いをして、二人の視線を真正面から受け止める。
「……わかりました。気は進みませんが、アークロイド様にご相談してみます」
「よろしく頼んだぞ」
「あまり気負わずに、でも、くれぐれも頼んだわね」
これでもかとプレッシャーをかけられて、シャーリィは執務室を後にした。
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