22. 天使は海の大国へ帰る

 食堂には通常の飲食用スペースと大勢で囲むソファー席がある。コの字型のソファーには左側にアークロイドが座ってくつろいでおり、その後ろにルースが立っていた。

 特筆したことは何もない、いつもの風景だ。


「アークロイド様、おやつにクッキーはいかがですか?」


 クッキーが盛り付けられた籠を持っていくと、アークロイドが読んでいた新聞から視線を上げる。


「シャーリィが作ったのか?」

「いいえ、オレール様と二人で作ったんです」

「……二人で?」


 訝しむような雰囲気を感じ、シャーリィは言葉足らずを自覚する。慌てて事の経緯をかいつまんで説明する。


「空いた時間があるからお菓子作りをしたいと言われまして。特別に一緒に作ったんです。オレール様は料理もよく作られるそうで、手際がいいんですよ」

「普通に作っただけですよ」


 厨房から戻ってきたオレールが苦笑いを浮かべている。


「そんなに謙遜しなくても……料理長も筋がいいって褒めていましたし。味だって申し分ないですし、やっぱり才能があるんですよ!」

「そうですか? でも、褒められると嬉しいです」


 無邪気に笑う様子を見て、シャーリィは内心拍手を送った。


(ああもう、まるで天使のような笑みだわ!)


 心が浄化されていくようだ。年上なのに、年下のようにしか見えない外見も相まって神聖化して見てしまう。

 天使はスカイブルーの瞳をきらめかせ、こてんと首を右に傾けた。


「料理が得意な男って、結婚相手としてどう思いますか?」

「とてもいいと思います! 優良物件ですよ。アークロイド様もそう思うでしょう?」

「……まぁ、な……」


 歯切れの悪い返事に首を傾げていると、オレールが前に進み出た。


「あの、アークロイド皇子殿下。先日はご挨拶できず、失礼いたしました」


 一礼したオレールは緊張した面持ちだ。一方のアークロイドは慣れた様子で、軽く手を振ってあしらっている。


「俺は静養のため、訪れている。それに非公式の訪問なので、気づかなくても無理はない」


 まさか、第六皇子が従者を一人だけ連れて、のんびり温泉に浸かりに来たとは思わないだろう。もっと警備や側近の人数がいれば彼も気づけただろうが。

 オレールはそっと息をついて、言葉を続けた。


「そう言っていただけて安心いたしました。まさか皇子がいらっしゃるとは思っていなくて……それは館内用の服ですね。すっかり馴染んでいて、うらやましいです」

「うらやましい?」

「僕はどんなに通っても客としてしか接してもらえません。ですが、シャーリィ姫は皇子には心を許しているように見えます」


 そんな風に見えただろうか。二人とも、同じように接しているつもりのシャーリィには違いがわからない。

 アークロイドはシャーリィを一瞥し、少し目線を下げる。


「……俺は逆だと思うがな。オレールのほうが距離は近いのではないか? 少なくとも、俺は一緒に料理をする仲ではない」

「それもそうですね」


 同意したオレールがくすりと笑う。


「よければ、ご一緒してもよろしいでしょうか?」

「……ああ。トルヴァータの話を聞かせてくれると助かる」


 歩み寄る二人を邪魔しないよう、シャーリィはそっと退室した。


       *


 夏空を彩るのは綿菓子のような白い雲。じりじりと照りつける日差しは容赦なく降り注ぎ、冬の女神が愛しくなる季節でもある。


(でも前世の日本と違って、ここの夏はカラッとした暑さなのよね……)


 暑いことには変わりないが、蒸したような夏ではないぶん、過ごしやすさが違う。気温上昇も酷暑というほど際立ってはおらず、充分我慢できる気温だ。


「もうお帰りだなんて、またさびしくなりますね」


 あっという間の一週間を終え、温泉宿の入り口でシャーリィは眉尻を下げた。

 馬車の前に立っていたオレールは大事な取り引きを逃したように肩を落としていたが、気を取り直したのか、すっと背中を伸ばした。


「……今回こそはと思いましたが、僕は諦めません。また来ますので、どうか忘れないでください」


 何のことだろうと思ったが、シャーリィは接客スマイルで返す。


「オレール様を忘れるなんて、あり得ないことです。またのお越しを従業員一同、お待ちしております」

「シャーリィ姫もどうぞお元気で」

「ありがとうございます。オレール様と再び会える日を楽しみにしておりますね」


 馬車が動き出し、窓からオレールが顔を見せる。シャーリィが手を振ると、名残惜しげに白い手がひらひらと手を振り返してくれる。


(ああ、私の天使……つかの間の別れね)


 馬車がどんどん小さくなっていく。とうとう見えなくなり、シャーリィは踵を返した。

 いつまでも感傷に浸ってはいられない。やるべき仕事は山積みなのだ。


       *


 オレールが帰国して数週間が経った頃、一通の手紙がシャーリィの元に届いた。

 忙しさにかまけて仕事場に持ってきてしまったそれを開封し、几帳面な文字で綴られた文面を見て、あら、と声をもらす。

 すると、同じ部屋にいたクラウスが声をかけてきた。


「シャーリィ、どうした?」

「……いえ、オレール様からお手紙をいただいたんですが、しばらくこちらに来られないそうです」


 報告すると、数秒の間を置いてクラウスが思い出したように言った。


「オレールというと、君のツアーを気に入っていた貴族か。実家で何かあったのか?」

「ええ。歳の離れた嫡男の方に不幸があったみたいで、急な相続でいろいろと大変らしいです。落ち着いてからいらっしゃると書かれています」

「……そうか。それなら、当分は無理だろうな」

「固定客がいらっしゃらないと、さびしいですよね」


 彼は、定期的に訪問してくれていたリピーター客だった。しかし、実家の事情が事情なので、こればかりは致し方ないだろう。本人も気落ちしているようで、ずいぶんと悲観的な言葉が綴られていた。


(励ましの返事を書かないと……)


 何の準備もない状態から引き継がなければならないので、今頃てんやわんやだろう。彼の気持ちが少しでも楽になるように、心をこめて書かなければならない。

 クラウスは机の書類をトントンと並べながら、ふと壁時計を見て眉をひそめた。


「そういえば、シャーリィ。そろそろ水やりに戻る時間じゃなかったか?」

「わあ、そうでした! すぐに戻ります!」


 急いで観光課を後にし、自室のバルコニーへ向かう。だが、夕方の水やりに来たシャーリィは小さく悲鳴を上げた。


「うそっ!?」


 朝は元気に咲いていたはずの薄紫の花が、土の上にぽとり転がっている。無事花がついたから今度は実がつくものと悠長に構えていたのに、これはどうしたことか。


(何がマズかったのかしら……! 水やりしすぎた? 肥料が足りない?)


 花がなくなったナスの葉は元気に生い茂っている。見たところ、何か問題があるようには見えない。厚みのある葉を見る限り、肥料が足りない様子もないし、虫に食われた様子もない。

 ひたすら首をひねるが、何が原因か、まったく思いつかない。


(ナスって……難しい……!)


 新たな難問を前にして、シャーリィは途方に暮れた。

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