18. シャーリィ、事件を目撃する
ふんわりと膨らんだ生地をスプーンで崩すと、中からクリームシチューがとろりとあふれ出てくる。続いてスプーンですくいあげると、にんじん、たまねぎ、じゃがいも、鶏肉、きのこが熱々の状態で顔を出す。
最初は普通にシチューを食べるとどう違うのかと思っていたが、これは気分が上がる。特別感が美味しさにプラスされるのだ。
「熱いですけど、美味しいですね!」
「ああ」
横にいたアークロイドが満足したように頷く。
「そういえば、疑問だったんですけど……どうしてツアー参加は初めてなのに、あんなに顧客満足度が高かったんですか?」
シャーリィがフォークを置いて尋ねると、アークロイドがちらっと横目で見てくる。
「別に特別なことはしていないぞ」
「で、でも! 私を差し置いて、マダムたちを籠絡していたじゃないですか!」
「人聞きの悪いことを言うな。……トルヴァータ帝国で領地視察に行ったときのことを思い出して、それらしく振る舞っただけだ」
種明かしをされたものの、シャーリィは釈然としない。
いくら接待に慣れているとはいえ、いきなりホスト側が務まるとは思えない。
「まだ私に何か隠していませんか? 急な代役を完璧にこなすなんて、不自然です」
「……そう言われてもな……」
珍しく困ったような顔でアークロイドがたじろぐ。けれど、何か原因に思い当たったのか、フォークを置いて顎に手をやる。
「うまくやれていたとすれば、シリル兄上のおかげかもな」
「どういうことです?」
「昔、言われたんだ。皇族たるもの、人を使うことにも慣れなければならないが、自分ならどうやって主を喜ばせられるかを意識することも大事だと」
「それって……使われる側の気持ちをくみ取れということですか?」
シャーリィが首を傾げると、アークロイドが遠くを見つめ、懐かしむような表情をした。兄との思い出を回想しているのかもしれない。
けれど、すぐに灰色の瞳はふっと光を取り戻し、シャーリィに視線を合わす。
「まあ、そういうことだ。自分の都合ばかりを押しつけるのではなく、相手の事情も考えることができれば、お互いが楽な道がおのずとわかるだろうと。そういう視点を持つことで、見えてくるものもあるのだと」
「……本当に仲がよろしいんですね」
「兄弟同士でも派閥があったが、どこにも属していない俺は異端者のような扱いだった。俺が困っていると、いつも助けてくれたのがシリル兄上だ。そのとき、言われたんだ。いつも誰かが助けてくれるとは限らない。自分の身を守るために、必要なことを身につけろと」
身の置き場がない環境で、救いの手を差し伸べてくれた存在は一人だけだったのだろうか。シャーリィが困ったときは両親もいるし、周りの皆が助けてくれると思う。
しかし、アークロイドにはそういう存在が少なかったのかもしれない。
(思えば、皇位継承権の争いを避けて公国に来たのだものね……。私が考えていたよりずっと、過酷な状況で育ったのね)
彼は皇族だが、民の気持ちがわかる人だ。それは味方となる人が少ないからこそ、育まれた感情だろう。
「私は……アークロイド様の味方ですからねっ」
「いきなり何だ?」
怪訝そうに見られても、シャーリィはめげなかった。後ろで控えていたルースだけは心情がわかったように、深く頷いていた。
*
ぱちりと目を開け、シャーリィは飛び起きた。室内用のスリッパを履き、ずんずんと窓のほうへ向かう。
オレンジだったミニトマトは一週間前、真っ赤になった。
前世の記憶から、この時期の食べ頃はそろそろだと調べはついている。さわり心地も、外の皮がほどよく軟らかくなっていたし、大丈夫だろう。
「つまりは、今日が食べ頃よ……!」
カーテンを両手で開き、カラカラと窓を開ける。愛するミニトマトの鉢に目を移したところで、シャーリィは硬直した。
見間違いかと目をこする。そして、もう一度、鉢に根を張る野菜を見つめる。
しかしながら、悪夢のような現実は消えない。
目の前には、赤い実が穴だらけになった惨状が広がっている。口から魂が抜け落ちたようにバルコニーに膝をつくと、黒い影が視界に入る。
焦点の合っていない目で瞬くと、カラスがちょんちょんと鉢のそばを歩いているのに気づく。けれど、あっと思ったときには、無事だった赤い実をくわえて空へと飛び立っていた。
(わ、私のミニトマトが……!)
残ったのは食い荒らされたミニトマトだけだ。
朝起きたときは、初めての収穫にわくわくが抑えきれなかった。しかし、現実はどこまでも残酷だ。唯一、残っていたトマトさえも守れなかった。
自分の無力さを痛感しても、傷は癒えない。むしろ、広がるばかりだった。
*
魂が口から出そうになりながら、シャーリィは呼び鈴を力なく押す。まもなくしてドアが開き、アークロイドが顔を出した。
「おはようございます……」
ドアを開けたまま、視線でシャーリィに中に入るように促される。室内に足を踏み入れると、いつもいるはずのルースがいない。
アークロイドはベッドに腰を下ろし、突っ立ったままのシャーリィを見上げた。
「一体どうした。いつになく落ち込んだ顔だが」
「アークロイド様……」
「何があった?」
慎重に尋ねる声は優しい。シャーリィは両手を覆って泣きそうになるのをこらえ、唇を引き結んだ。
「……やられました」
「何の話だ」
「ミニトマトの話です。カラスに持ち逃げされました」
朝の事件を報告すると、アークロイドは気難しい顔で腕を組んだ。
「……そうか、やはり防鳥対策は必要だったか」
「今朝、収穫しようと思ったら、無残にも穴だらけになっていたんですよ!」
目をつぶると、あのときの残像がすぐに浮かぶ。心に負ったダメージは相当なものだと思う。しばらく休業したい。そのぐらいショックだった。
(今日は待ちに待った収穫のときだったのに……っ)
まんまと空の天敵にしてやられ、悔しさは倍増だ。せっかく育ったミニトマトを守ってあげられなかった。自分は無力だ。
しょげるシャーリィに、アークロイドは窓の外を見つめながら言う。
「つつかれたのは、ムクドリのせいかもしれないな」
「唯一残っていた実をカラスがくわえて飛び去ったんです! こんなのってないです……っ」
「そ……それは無念だったな……」
まさか、赤く色づいたミニトマトをこの手で処分する日が来るとは思っていなかった。生ゴミ置き場に捨てたときの悲しみが思い出され、シャーリィはつぶやいた。
「鳥が……憎いです」
「憎悪をまき散らすな。今回は対策を何もしていなかったのが敗因だ。次は死守しろ」
そうだ。まだこれで終わりじゃない。ミニトマトはまだ生きている。つまり、これから新しい実がつく可能性は高い。
急に勇気が湧いてきて、シャーリィは足を揃えて敬礼した。
「はい師匠! 二度とここんな思いは味わいたくありません」
「……師匠ではないのだが」
「対策はどのようにすればいいか、ご教示ください!」
アークロイドは組んでいた腕をゆるめ、両手をシーツの上に置く。目をすがめ、軽くあきれ顔だ。
「清々しいほど、他人任せだな。……ふむ、とりあえず鳥が嫌なものを設置し、実は何かで覆い隠すのが無難か」
「覆い隠すってカーテンみたいに、ですか?」
「多少つつかれても大丈夫なように、頑丈なやつがいいだろう。確か、園芸用のネットがあると聞いたことがある。もしくは、いっそ室内に隠すか、だな」
そういえば、前世のホームセンターでそれらしきものを見たことがある気がする。
(ネットを使うなんて思いつかなかったけど、いいアイデアかも!)
この案なら、かの鳥たちの攻撃も防げる。
「アークロイド様、そのネットを手配してください。それで迎え撃ちます!」
「鳥避けも必要だろう」
「……鳥避けって、大きな鳥のイラストとかですか?」
「とりあえず、それでいいんじゃないのか?」
「わかりました! 早速やってみますね!」
お礼を述べて、シャーリィはフロントへと向かった。記憶が正しければ、テオは動物の絵が得意だったはずだ。さっきまで絶望しかなかったが、今はやる気がみなぎっている。
こんなところで負けていられない。前世の野望を叶えるまで、もう少しなのだ。
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