16. 何だか熱っぽい気がする
アークロイドの強い勧めもあり、大事を取って早く就寝した翌朝。
いつもよりゆっくりした動きで朝の準備を終え、宮殿の門に向かう。一昨日の蒸し暑い夜と打って変わって、昨夜は窓から吹き込む夜風が涼しかった。
もういらないだろうと片付けていた毛布をリネン室から引っ張り出して、身体を丸めて寝たおかげで身体はぽかぽかだ。
「二人とも、おはよう」
「これは公女殿下。おはようございます」
「姫様? 少しお顔が赤いようですが……」
敬礼したフランツの横でミュゼが顔を曇らす。
シャーリィは自分の首筋に手をやり、少し高めの体温を確認する。けれど、苦笑いをしてごまかした。
「あー。ちょっと風邪っぽいかしらね。でも大丈夫、私の代わりもいないし!」
「確かに姫様の代わりはいませんが、無理はしちゃだめですよ」
「はーい」
心配そうに見つめるミュゼに手を振り、宮殿を後にする。温泉宿の前に着くと、ちょうど別館からアークロイドとルースが出てくるところだった。
「あ、アークロイド様。おはようございます」
「…………」
「どうされました?」
無言で顔を覆っているアークロイドの後ろで、ルースが主人の様子を窺っている。
(……寝癖でもついていたかな……)
横髪や後ろ髪を軽く触れてみるが、変に跳ねている箇所はない。じゃあ一体、何が問題だったのだろうかと頭をひねる。
しかし、考えている間に腕を取られて、そのまま別館のロビーに連れて行かれる。
「ちょっとここに座れ」
文句は受け付けない、とばかりに睨みを利かせて言われるので、シャーリィはおとなしく従った。一人用のソファーは別館仕様なので、高級革の感触がどうも慣れない。
所在なげに肘置きに置いていた手を膝に戻すと、アークロイドが片膝をついて目線を合わす。理知的な灰色の目が近づき、居たたまれなくなって視線を泳がすと、彼の冷たい手が額に触れた。
「……やっぱり熱がある。こんな状態でどこへ行くつもりだ?」
意識しないようにしていたことを口にされ、シャーリィは一瞬、頭の中が真っ白になった。至近距離には麗しい皇子のご尊顔がある。逃げ道はない。
ピリリとした緊張感を何とかほぐそうと、無理やり営業スマイルを浮かべた。
「あ、えーと。お仕事に……」
「だめに決まっているだろう。風邪を甘く見るんじゃない。休むべきときは休め」
「……とは言っても、私の代わりがいなくてですね……。休むに休めないんです」
代役なんて、いるわけがない。観光課は常に人が出払っているのだから。
貧乏小国の事情に思い当たったのか、アークロイドが細く息を吐き出した。それから目を細めて、身体を縮めたシャーリィを見下ろす。
「今日の予定は?」
「水辺の散策ガイドなので、馬車で寝て治します」
「……昨日と同じところか」
「三日間やるんですよ。お好きな日に参加できるように。じゃあ、私は仕事があるので失礼します」
椅子から立ち上がり、そろりそろりと横歩きで出口を目指す。
ところが、少し歩いたところで、目の前にルースが立ち塞がる。仕方なく振り返ると、目が笑っていないアークロイドが腰に手を当てていた。
「シャーリィ」
「……はい」
おかしい。ただの従業員と客のはずなのに。どうして逆らえない雰囲気になっているのか。けれども、この威圧感を前に逃げ出すような度胸はない。
すべてを諦めたような心地で最後の審判を待っていると、アークロイドが口にしたことは予想したどの言葉とも違ったものだった。
「今日のガイド資料を至急手配しろ」
「……そんなものをどうするんですか?」
「俺が代わりのガイドになる。ルースにも手伝ってもらうから心配はいらない」
数秒、言われたことを脳内で繰り返し、シャーリィは耳を疑った。
「は!? いやいや、何を言っているんですか。練習もしていないのに、代役なんてこなせるわけないでしょう」
「俺は記憶力には自信がある。これでも皇族の端くれだ。社交のスキルも問題ない。足りない知識は資料で補強すれば大丈夫だ」
強気な発言にどうしたものかと言葉に詰まる。
目の前の男は、海の大国から来た上客。別館の最上階を利用する一番の賓客だ。
何度か裏方の仕事を手伝ってもらったことはあるが、今回の手伝いは今までのものとはまるで違う。どんな事情であれ、レファンヌ公国の顔として公に出すわけにはいかないだろう。
第六皇子とはいえ、彼はトルヴァータ帝国の皇子なのだから。
「で、でも……お客様にそんなことをさせるわけには……」
「その熱は、昨日俺をかばって水に濡れたせいだろう。だったら俺にも責任がある。そして俺は時間を持て余している。代役にはこれ以上ない人材だと思うが?」
「……いやいや、やっぱり無理ですって。大丈夫です、私これでも丈夫なので。少しくらい無理をしてもへっちゃらです!」
幸い、熱はそこまで高くない。多少ボーッとすることはあるかもしれないが、何とかやれないことはないはずだ。いや、うまくやってみせる。
(だって、私の代わりはいないんだし!)
自分が頑張らなくてどうするのか。そう意気込むシャーリィの心の中をのぞきこんだように、アークロイドが冷静な顔で言葉を続ける。
「だが、お前の代わりはいないのだろう? もしシャーリィが足を踏み外して頭を強打したとして、打ち所が悪かったらどうなる? 今日の代わりは目の前にいても、明日からの代わりはどうなる?」
最悪の展開を予想してみろ、と言わんばかりの声に、シャーリィは白旗を揚げた。
「…………お願いできますか?」
「パイシチューで手を打とう」
不敵に笑うアークロイドの顔は、まるで勝利を確信した魔王のようだった。
*
テオに事情を説明し、観光課までの使いっ走りを頼んだ後。
おとなしく本館ロビーの隅で座って待っていると、アークロイドとともに現れたのは予想外の組み合わせだった。
「クラウス長官……オリーヴィアさんまで」
フレームなしの眼鏡のふちを中指で押し上げて、クラウスが前に進み出る。
「話はテオから聞いた。今日はあいにく職員が全員出払っていて、大公夫妻も公務中だ。私もこれから視察で出向くことになっている」
「そうですよね……」
こちらを見つめる視線が冷たい。説教の雰囲気がビシバシと伝わってくる。
(うう……特大の雷が落ちてきそう……)
すうっと息を吸い込む音がして、思わず身体に力が入る。けれど、身構えるシャーリィにかけられた言葉は落ち着いたものだった。
「先ほど、アークロイド皇子と簡易テストを行ったのだが。結果、私はシャーリィの代役を頼むことにした」
「……え? でも彼は隣国の皇族ですよ? そんな人に頼んじゃっていいんですか!?」
「聞いたところ、彼の顔は民にそんなに知られていないそうだ。ならば、今日の代役での影響も少ないと判断した。それに、短い間に資料を隅々まで読み込む記憶力は大したものだ。隣国の皇子でなければ、スカウトしていた」
「……本気ですか?」
「ああ。彼は即戦力となる人材だ。私が保証しよう」
鬼教官と言わしめた彼から高評価を得るとは、一体、何をしたのだろう。
頭の中から疑問符が消えない。戸惑っていると、それまで後ろで控えていたオリーヴィアがシャーリィの横に腰かける。ふわりと花の香りがした。
「シャーリィ。熱があるのに、出てきちゃだめよ。私が付き添うから、今日はこのまま一緒に帰りましょう」
艶のある声で言われ、同性なのにどぎまぎとしてしまう。
「ひ、一人で大丈夫ですよ。オリーヴィアさんだって仕事があるのに」
「何を言っているの。困っているときに助け合うのが仲間でしょ? いつ倒れるかわからない同僚を一人で帰せないわ。それに、あなたはこの国の大事な公女様なんだから。このくらい、当然でしょう?」
お仕事モードの隙のない笑顔から一変、慈しむ母親のような微笑みが向けられ、今までせき止めていた思いがあふれだしそうになる。
「うう、オリーヴィアさぁん……」
「泣かないでよ。シャーリィのおかげで、娘の看病もできたのだから。そのお礼とでも思ってちょうだい」
ただ熱を出すだけでなく、こんなに周囲の人を巻き込むような結果になって、本当に自分が情けない。それなのに、迷惑をかけた人たちが誰一人、文句を言わない。
優しさの洪水におぼれそうだ。泣かないと決めていたのに、オリーヴィアの顔を見ていると、強がっていた心が解きほぐされていくのがわかる。
ふと、アークロイドと目が合う。彼は任せろとでもいうように、小さく頷いた。シャーリィは目尻にたまった涙を指で拭い、そっと頷き返した。
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