12. 期待は膨らむばかりです
バルコニーで栽培中のミニトマトはついに赤く色づいた。
もうじき、初めての収穫だ。前世では失敗したが、今世では同じ轍は踏まない。
(トマトを収穫するのは熟してから!)
心の中で前世の教訓を唱えながら、シャーリィは首をひねった。
「でも、どこで熟しているかを判断すればいいのかしら……」
ミニトマトをつつくが、当然返事があるわけではない。野菜の栽培経験なんて、一度しかない。頼みの綱は前世の友人の知恵だが、異世界ではこのSOSは届かないだろう。
今、頼れるのは自分だけだ。
(うーん。みかんやバナナは熟すと、軟らかくなるわよね。ということは)
野菜にも同じことが言えるのではないだろうか。試しにミニトマトを手でつまみ、その硬さを確かめる。
(……まだ硬い? これがもう少し軟らかくなったら、熟した証拠ってことかしら)
どのくらい軟らかくなったら食べ頃かはわからないが、毎日確かめていれば、少しは傾向がつかめるかもしれない。
夢が叶う日はもう間近だ。期待は否応なしに膨らんだ。
*
「あれ、クラウス長官がこんな時間にお越しになるなんて、珍しいですね」
時刻は夜の七時。温泉宿のスタッフ控え室に入ってきたのは、榛色の長髪の男だった。シャーリィはツアーの日報を書いていた手を止め、立ち上がった。
ドアを後ろ手で閉め、クラウスはぶ厚いファイルをテーブルに置く。
「テオに用事があったついでに寄ったまでだ」
「そうだったんですか。お茶を淹れましょうか?」
「茶ならすでに飲んできた。それより、日報はもう書けたのか?」
テーブルの上にある書類をちらりと見て、クラウスが冷ややかな視線を向ける。
「も、もうすぐ終わります」
「なら、ここで待たせてもらう。ちょうど集計したいデータもあるしな」
クラウスは手近の空いた椅子に座り、ファイルから数枚書類を抜き取った。そして横に置いた書類をめくりながら、白紙に黙々と数字を書き連ねていく。
(すごい……早いのに字が綺麗なんて反則だわ)
しかも、数字だけでなく、簡易グラフまで書いている。定規を使わずにフリーハンドでまっすぐな線が引かれ、シャーリィは思わず感嘆の吐息をもらした。
「……君はいつまで、そこで突っ立っているつもりだ?」
永久凍土を連想するような冷たい声に、びくりと肩が上下した。
「す、すみません! すぐに自分の仕事にとりかかります!」
「早くしたまえ」
「はいぃ!」
素早い動きで着席すると、椅子はすでに温もりを失っていた。日報の空いた欄を無心で埋め終わると、先ほどまでカリカリと続いていた速筆の音が不意にやんだ。
顔を上げると、集計が終わったらしいクラウスが書類を片付けているところだった。そして、無言で手を差し出される。
「終わったのなら、私が持って帰る」
「……お願いいたします」
日報を両手で渡すと、クラウスの口元が少しだけ緩んだ。
「君は早く帰って、しっかり休むように。若いからと自分を過信すると、そのうち限界が来る。休めるときは休みなさい」
「……はい」
言外に休日出勤のことを咎められている気がして、シャーリィは身がすくむ思いをした。
一方のクラウスは席を立つと、言うことは言ったとばかりに、さっさとドアの向こうに去っていった。
(休日出勤もほどほどにしないとね……)
緊張の糸が切れたように、シャーリィは力なく椅子に座り込んだ。
*
料理長のところで、ひたすら芋の皮むきを手伝った後。
絨毯が敷き詰められた廊下を歩いていると、銀髪の美女がお膳を運んでいるのが見えた。隙のない身のこなしに、計算し尽くされた化粧が施された横顔は遠目からも目立つ。
「オリーヴィアさん。お疲れさまです」
「……まあ、シャーリィ。今日もどこかのお手伝い?」
「料理長のお手伝いをしてきた帰りです」
オリーヴィアの横に並ぶと、彼女の手にあるお皿はすべて空になっており、片付けの途中だったらしい。
「ところで、オリーヴィアさん。何かあったんですか?」
「……あらやだ、私、顔に出ていた?」
「いえ、いつも通りの隙のない美貌ですが、少しだけ元気がないように見えました」
指摘すると、オリーヴィアは瞼を伏せた。青い瞳が長い睫毛で隠される。けれど、それは数秒のことで、すぐに両目が開かれる。
彼女はふっと肩の力を抜き、仕方がないというように口を開く。
「シャーリィには隠し事はできないようね」
「何か悩みですか?」
従業員の悩みを聞くのも、珍しいことではない。自分で抱えきれない悩みは、誰かに話すことで楽になることもある。もちろん、聞かれたくない悩みもあるだろう。
オリーヴィアは逡巡するように視線をさまよわせていたが、心を決めたのか、シャーリィに視線を戻す。
「……実は娘が昨夜から高熱を出していて。私の母が看病してくれているんだけど、やっぱり不安で……」
「なるほど、それは心配ですね」
「解熱剤で熱は一時的に下がるのだけど、四時間経ったらまた熱が出るのよ。母からは子どもはよく熱が出るから大丈夫と言われたの。でも、初めての子どもだし、つらそうにしているのを見ているとこっちも気が気でなくて……」
子どもは熱が出やすい。そういうものだと思っていても、親としては心配だろう。
「もしかして、夜もほとんど寝ていないんじゃないですか?」
「そうなのよ。娘の様子が気になって、頻繁に目が覚めるの。別にそれはいいんだけど、娘の熱がどこまで上がるかと思うと心臓が縮みそうだったわ」
「……早く熱が下がるといいですね」
オリーヴィアの夫は他界しているはずだ。今は彼女の母と娘の三人で暮らしていたように思う。いくら親と同居しているとはいえ、父親のぶんも母親として役割を背負っているなら、その負荷は想像以上だろう。
シャーリィは腕時計で時間を確認し、関係各所の調整を頭の中で割り振る。
(……うん。この人数なら宿泊客はさばけるはず。大丈夫)
幸い、今は急ぎの仕事はない。彼女の代わりを完璧にやるのは不可能だが、皆の手を借りればある程度まではなんとか回るはずだ。
「オリーヴィアさん。今日はもう上がってください。残りの仕事は皆でやりますから」
「え……でも、そんなの悪いわ」
「何を言っているんです。困っているときに助け合うのが仲間ってもんですよ。娘さんが待っているのはお母さんでしょう。お母さんの代わりは誰にもできません。早く帰って、娘さんを安心させてあげてください」
真面目な顔で答えると、オリーヴィアは驚いたように固まったが、すぐに困ったように笑った。
「わかったわ。じゃあ、シャーリィはこれをお願いできる? 私は皆に引き継ぎをしてから帰るから」
「ええ。もちろん。どんと頼ってください」
「……頼もしいわ。ありがとうね」
「いえいえ」
細長い盆を受け取ったシャーリィは厨房へ、オリーヴィアはテオがいるフロントへ足を向けた。きっと皆に遠慮していたのだろう。去り際の彼女は優しそうな母親の顔をしていた。
「さーて。忙しくなるわよ。オリーヴィアさんの抜けた穴は三人分だものね。いっちょ気合いを入れますか!」
シャーリィは並々なる決意を胸に、廊下を早足で戻っていった。
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