13. 寝不足を見破られました

(うう。思っていたより、クラウス長官の手伝いは過酷だわ……。まだ数字が目の裏に焼き付いて離れない……)


 たまには疲れた上司を労おうと、手伝いを申し出たのが間違いだったのかもしれない。彼が手に抱えていた仕事はシャーリィの手に余るほどだった。

 細かい数字の集計作業が明け方まで続いたせいで、気を抜くと、あくびが出てしまいそうだ。


(でも一応、頼まれた仕事は終わらせたし……あとは自分の仕事のみ)


 自室のミニトマトの水やりを終え、バインダーに挟んだ用紙を手に温泉宿へ向かう。ミュゼにも心配されてしまったし、気を引き締めなければならない。

 なぜなら、自分の代わりはいないのだから。

 いつもよりゆっくりとした足並みで坂道をくだっていると、前方に藍色と赤髪の二人組が見えた。異国の服をまとった装いは遠目からでも目を引く。


「おはようございます。朝のお散歩ですか?」


 シャーリィが声をかけると、話し込んでいた二人の視線がこちらを向く。


「……シャーリィか。おはよう」


 アークロイドはまぶしいのか、灰色の目を細める。ルースはいつもの無表情で、主人の後ろに静かに控えた。


「あ、そうだ。アークロイド様、聞いてください。もう少しで収穫できそうなんですよ!」

「……順調そうで何よりだ。そのときが楽しみだな」

「ええ、それはもう! 美味しくできていたら、おすそわけしますね!」

「ああ」


 ふっと口元を緩ます様子にシャーリィはつかの間、視線を奪われた。


(見た目が整っているだけに、何気ない素振りでも、うっかりときめきそうになる……これは危険だわ)


 従業員の中で「アークロイド皇子の笑った顔を見た日はいいことがある」と噂されるようになったのもわかる気がする。これは確かに拝みたくなる。

 だけど、自分は一国の公女。皆と同じようにはしゃいではいられない。ふるふると首を横に振っていると、たしなめるように低い声がした。


「……おい」

「は、はい! どうかされました?」

「ところで、その顔はどうした」

「顔……ですか? 何かついてます?……あっ」


 するりと左脇に抱えていたバインダーが地面に落下した。

 だがシャーリィがのろのろと手を伸ばすより先に、アークロイドがそれを手に取る。ぱんぱんと砂を払い、無言で差し出される。


「す、すみません。ありがとうございます」


 バインダーを両手で受け取り、シャーリィは頭を下げた。対するアークロイドは怪訝な表情でこちらを見ている。


「足元もふらふらだし、その目つきの悪さ。さては、寝不足だな?」

「あう……」

「仕事熱心なのは結構なことだが、倒れるまで我慢するつもりか? 自分の健康に気を配ることは、プロなら当然だと思っていたが?」

「……返す言葉もございません」


 体調管理も仕事のうちだ。まっとうな正論にシャーリィはうつむいた。


「それにしても、ひどい顔だ。仮眠ぐらいしてこい」

「で、でも、これからツアーの仕事がありまして……」

「ツアーなら、代わりの者に頼めばいい」

「いえ、万年人手不足なので、代わりの者はいません……」


 眉を下げて言い募ると、アークロイドは口を閉じた。顎に手を当て、何かを考えるような素振りを見せる。


「今日のツアーは予約がいるやつか?」

「当日参加型なので、予約は不要です。これから受付を始めます」


 受付は温泉宿で行っている。番頭のテオがツアーの申し込み客をさばく手筈になっている。シャーリィは受付名簿を引き継ぎ、そのままツアーへ出発するという流れだ。

 難しい顔で両腕を組んでいたアークロイドは腕をほどき、何かを決意したようにシャーリィを見据えた。


「……なら、俺が参加する。貸し切りにしろ」

「え?」

「なんだ。聞こえなかったのか」


 呆れたように腰に手を当てたアークロイドを見つめ、シャーリィは目を瞠る。


(アークロイド様がツアーに……?)


 悠悠自適に過ごしていた彼が、どういう風の吹き回しだろう。にわかに信じたがたい申し出におずおずと確認を取る。


「本当に……参加されるのですか?」

「そうだ。俺とルースの二人だ。貸し切りはできないか?」

「もちろんできますが、その、貸し切りだと特別料金がかかりますが……」

「俺を誰だと思っている」

「失礼いたしました。ツアーへの申し込み、誠にありがとうございます」


 彼は海の大国から来た上客だ。資金力の差を見せつけられて凹みそうになるが、持ち前の営業スマイルで気持ちに蓋をした。

 そんなシャーリィの心中に気づいた様子はなく、アークロイドはふと声をひそめた。


「ところで、今日は何のツアーだ」

「……水辺の散策でございます。馬車で一時間かけて北上し、湖の遊歩道を散歩するコースになります。ランチは森のロッジで、湖を見ながら食べることができます」

「ほう、それは期待できそうだ」

「湖が近くなので、涼しくて過ごしやすいと思いますよ。……では、わたくしはツアーの手配をしてきます。九時に温泉宿の入り口でお待ちしております」

「ああ、わかった」


 まずはテオに事情を説明し、馬車の台数も変更しなければならない。

 予定変更を告げるべく、シャーリィは関係各所へ急ぎ足で向かった。


       *


 ツアー出発時刻の五分前。

 馬車の前で待っていると、別館からアークロイドとルースが姿を現した。


「お待ちしておりました。これから山道になりますが、馬車酔いは大丈夫でしょうか?」

「俺は大丈夫だ」

「私も問題ない」

「では、行きましょうか」


 上空にある太陽は燦々と輝き、今日も暑くなりそうだ。

 アークロイドを先頭に四輪の無蓋馬車へ乗り込み、馭者のラウルに目線で出発の合図をする。ゆっくりと車輪が回り、馬車が動き出す。


「水辺の散策にご参加くださり、ありがとうございます。わたくし、シャーリィが本日のご案内役を務めさせていただきます」

「なあ、少しいいか?」


 アークロイドのすぐ横に座っているルースもこちらを見る。二人分の視線を受け、シャーリィは営業スマイルで答える。


「はい。何でしょう」

「案内はついてからでいい。……今なら他の客もいない。シャーリィは寝ろ」

「え、ですが……今は勤務中で……」

「客の要望だ。頼むから寝てくれ。俺は外の風景を静かに見ていたい」


 ちらりと手綱をつかむラウルに視線を向けると、目尻の皺を深くして笑みを向けてくる。


(本来なら職務怠慢だけど、それがお客様の要望なのよね……)


 ぶっきらぼうに言っているが、シャーリィの身を案じてくれているのは明らかだ。

 貸し切りにしたことで、他のお客様の目もない。今ここで仮眠を取っても、全員が見ないふりをしてくれるだろう。


「…………わかりました」


 ふっと体から力を抜いたことで、どっと眠気が押し寄せてくる。


(……すごく、ねむい……)


 身体に馴染んだ振動が心地よい眠りに誘い、自然と瞼が下がってくる。

 連日の睡眠不足で、理性の防波堤は決壊寸前だ。眠りたいという欲求に抗う余力はなく、そのまま意識を手放した。

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