何も言えない

マルヤ六世

何も言えない


 閑静といえば聞こえはいい、人気の少ない町にMさんは住んでいました。

 Mさんの暮らす町は都市部にアクセスするには車で四十分ほど、交通機関を利用すると一時間に二本しか走らないバスを使って一時間半ほどかかる、所謂不便な町です。しかしそれにさえ目を瞑れば、自然が多く景色の綺麗な気持ちのいい所でした。Mさんの会社は都内の駅ビルに隣接していたので、バスと電車の時間さえ間違わなければ出社には問題はなく、快適に暮らしていたそうです。


 彼女が──言い忘れていましたがMさんは女性です──その田舎町の一軒家での一人暮らしを決めたのは、なんと言っても土地や物価の安さでした。彼女の住む家は風呂トイレ別で六畳のリビングと四畳の寝室があって、それで月に家賃が三万円というのだから、Mさんは事前に事故や事件がなかったかどうか念入りに調べました。古くからこの地域に暮らす大家さんによれば、とにかく若者が離れて行ってしまって、ここまで値段を下げても入居者がいなかったのだそうです。

 敷金と礼金で、最初に六万円だけは本当にごめんなさいね、だなんて大家さんは言っていたとMさんは笑って話してくれました。大家さんの言う通り、彼女の家の周りは空家ばかりで、時折虫が鳴く以外はとても静かでした。




 ある日のことです。その日、Mさんは遅くまで友人のTさんと電話で話していたそうです。Tさんとは高校時代から家族ぐるみの友人で、趣味や応援しているアイドルが同じこともあってか、引っ越してからも交流がありました。

 しばらく話しこんだ、深夜二時頃だったでしょうか。電話の最中に友人の声に紛れて、ザー、ザー、と雑音が入ってきました。電波の調子が悪いことくらいは今までも何度かあったそうです。相手の言葉が途切れて聞こえたり、通話から落とされてしまったり……。

 しかしその日は、何度もTさんの話す仕事の愚痴に混ざって、ザー、ザー、と音が入ってきました。イヤホンの調子が悪いんじゃないかとMさんが話しかけても、Tさんは返事をしなかったそうです。

 それどころか、雑音に混ざってTさんの声でこう聞こえたのです。


「死んじゃえばいいのに」


 その声だけは妙に明瞭で、電話越しだというのに耳元で囁かれたように、吐息すら感じそうなほどでした。

 不気味に思ったMさんは、接続の調子が悪いことを理由に通話を切り、チャットでそのことを伝えました。それに対するTさんの返答はいつも通りにかわいらしいキャラクターのスタンプによるもので、Mさんも聞き間違いだったのかと、その日はそのまますぐに布団に入ったそうです。




 翌日、Mさんは喉が痛くていつもよりも早く目が覚めました。この辺りは空家ばかりで注意をされることもありませんから、連日夜遅くまで友人と話し込んでいることも多かったようです。それで風邪でもひいたのかもしれないと、彼女はその日の仕事を休みました。なにせ、その時Mさんはまったくと言っていいほどに声が出なくなっていたらしく、欠勤の報告もメールで送るほどだったそうです。

 次の日も、その次の日もMさんは咳き込むばかりで声が出ず、病院にいって風邪薬をもらってもちっともよくなりませんでした。Tさんにチャットを送ると、どうやら彼女もここのところ喉の調子が良くないらしく、お互いにしばらく何も言えないね、電話はできないね、と励まし合って数日が経ちました。

 この頃になると、朝目覚めたMさんには喉の痛みに加えて全身のだるさが襲ってくるようになりました。眠っていただけなのに、一日中走ってきたかのような疲労感と、肩こりや顎の痛みまで増えていました。


 ちょうど一週間が過ぎようという時になって、会社からも半分退社扱いになってしまった彼女は、再度病院に行ってみたそうです。けれど原因はわからず、その上バス停まで歩く体力すらなく、タクシーを利用する程でした。

 ようやく家に着いたMさんが効き目はないとわかっていながらも風邪薬を飲み終えた時、玄関からノックの音がしました。


「Mさん。今ちょっと大丈夫?」


 大家さんの心配そうな声に、ほとんど這いずるようにMさんはドアを開けたそうです。彼女のやつれぶりを見た大家さんは何か納得した様子で、Mさんが話せないことを携帯電話の画面に打ち込んで見せるとゆっくりと頷きました。


「やっぱり、ストレスでしょ。最近、変な人がうろついているって言うから」


 大家さんの話では、八軒ほど先の家から不審者が夜中に歩き回っているという電話があったというのです。それを皮切りに、この辺りに建つ──もちろん空家は除いてですが──全ての家に住む住民が、その不審者の存在を感じているといいます。

 不審者は夜中の一時頃になると決まって、暴言を喚き散らしながらどの家の側にも訪れたそうです。


「死んじゃえ、死んじゃえって……喉を切って殺してやるって。ちょうど一週間前からよ。怖いでしょう」


 Mさんは途端にぞっと寒気が這いあがってくるのを感じました。夜中の一時というと決まってTさんと電話をし始める時間ですし、その言葉にも聞き覚えがありました。


「警察に相談しようって話になってね。みんな、証拠を集めようって話になったの。防犯カメラをつけたおうちもあるし、Mさんも気を付けてね」


 一度そう思ってしまうと、もう自分やTさんの不調はその不審者のせいに違いない、とMさんの中でふつふつと怒りのようなものが湧いてきました。自分もまた証拠をとってやろうと、録音アプリを立ち上げて布団にもぐり込みました。


 ふと、夜中にMさんが物音に目を覚ましたのは、


「死んじゃえ!」


 という大きな声が辺りに響き渡っていたからでした。


 Mさんがゆっくりと上体を起こすと、周囲はしんと静まり返っていて、虫の鳴き声すら聞こえません。不審者も彼女の起床を察知したかのようにぴたりと話すのを止めてしまいました。それでも誰かが家の近くにいるかもしれない恐怖でじっとりと汗を掻きながら、Mさんは息を潜めてその時を待ち続けました。


「ぅ、うう……」


 小さくうめき声が聞こえて来て、Mさんは身体を跳ねさせました。その声は耳元で囁くような近さから、頭を揺さぶるように届いてくるのです。

 動物が歯を剥きだしにして唸るような、怖ろしい声でした。


「どうして、お前らが死ね! 死んでしまえ!! 殺してやる!!!!」


 Mさんは恐怖から、必死に口を押さえてやりすごそうとしました。けれど、地響きのような声が止まることはなくMさんを揺さぶり続けます。


「ああ、あ……! あああ、ああ……あ……!」


 くぐもった声にようやくMさんは理解が追い付きました。

 その酷い暴言は、“彼女自身の口から”発せられていたのです。


 茫然としたMさんが、口元を押さえていた腕を地面に向かって降ろせば、すぐさままた絶叫が途切れることなく辺りにこだましました。自分自身でも、こんなに大きな声は聞いたことはありません。止めたいと思ったところで、口に手を当てたり毛布を押し付けたりすれば、まるでそれを責めたてるように喉の痛みは増していくのです。


「Sも、Wも、Kも、みんなぁ、みんなぁ! 二度と! ぞんな口聞けないようにじてや、る!!!」


 誰も、Mさんにとっては馴染みのない名前でした。一言発する度に喉の奥がちりちりと焼けるように痛み──切れているのでしょうか。口の中に鉄の味が広がっていきます。


「お前ら全員殺して、ころじ、でぇ!! や、やややるぅ……!!!」

「もう、もう、いやあ!!!たづ、けでぇほじがっだ!!!」

「ごろ、じて! ごろ! じてこ、ろ! しんで! しんでよぉ!!!」


 だんだんと呂律が回らなくなってきて、甲高い声をあげ続けたMさんは耐えきれなくなり、手近にあったポーチからカミソリを抜き取りました。

 そして、とうとう自らの首元に刃を宛がい、喉の痛みを取り払う為に、切れ目を入れたのです。

 ごぽごぽと自分の喉から溢れる血液に溺れていく中、それでも恨み言は止まりません。もう、なにもかもが嫌になってしまったMさんは、何も聞きたくなくなって、耳の中にカミソリを押し込みました。


 そうして、はたと気づきました。


 耳の中を刃物が切り進んでいく音が、Tさんとの電話で聞いた、あの、ザー、ザー、という雑音によく似ていたことを……。




 ──それからのことです。

 大家さんが駆けつけたことにより一命を取り留めたMさんは、しばらく意識を失ったままでした。ようやく回復したのはそれからさらに一週間後だったそうです。眠っている間にお見舞いに来たTさんのお母さまが置いていった手紙により、彼女は事の顛末を知りました。

 Tさんは仕事先でのいじめを苦に、二週間ほど前の深夜1時頃、自室で自ら命を絶ってしまったのだそうです。それはちょうど問題の通話をした時間と重なっていました。

 Mさんは、それは酷くショックを受けました。愚痴は何度か聞いたことがありましたが、そこまで追い詰められているとは全く気づきませんでした。それが不甲斐ないような、寂しいような気持でした。

 そして、どうして自分がこんなことになったのかを、独りきりの病室でMさんはずっと考えていたそうです。もしかすると、Tさんは誰かの口を借りてでも言いたい不満を溜めこんでいたのかもしれません。助けてあげることはできなかったけれど、代わりに言ってあげることは出来たのだろうか。

 もう、恨み言を聞くことも出来ず、代わりに愚痴をこぼしてあげることもできなくなったMさんは、巻き込まれた怒りや恐怖などよりも、亡くなった友人への弔いの気持ちの方が不思議と込み上げてくるようだったと言います。

 そして、どうしても彼女の恨みを全部聞いてやりたい、あわよくば彼女を苦しめた存在を突き止めてやりたいという思いで、自分の携帯電話を取り出しました。

 彼女の耳はもう聞こえませんでしたから、音声を文字に変換するアプリを利用して、内容を把握しようとしたそうです。


 Mさんから許可を得て、その全文を以下に転載しようと思います。




 しんじゃえばいいのにしんじゃえばいいのに

 一生懸命頑張って、仕事だって覚えたのにどうして

 しんじゃえばいい

 何をしたっていうの酷い酷い酷い誰もわかってくれなかったんだ

 誰にも言えなくて一人で

 私が喉を切って殺してやるお前らが死ねばよかった

 しんじゃえ

 ぅううどうしてお前らが死ね死んでしまえ殺してやる

 SもWもKもみんなぁみんなぁ二度とぞんな口が聞けないようにじてやる

 お前ら全員殺してころじでぇややややるぅ

 もうもういやあたづけでぇほじがっだ

 ごろじてごろじて殺しんで死んでよぉ

 

 どうじてあのごの話を聞いてくれなかったの

 おんなじめにあわせてやる

 みにいくからねちゃんとみにいぐがらね




 Mさんはこの文面を見て思わず携帯電話を取り落したそうです。そこに書いてあった言葉は、とてもTさんの遺言とは思えませんでした。自分が眠っている間にTさんの母親が来たのだと思うと恐ろしくなり、しばらくは誰も病室に入れないようにしてもらったそうです。

 Tさんは元の生活にこそ戻れませんでしたがなんとか回復し、事件から二カ月後には退院することができました。そして、Tさんのお母さまのことを恐ろしく思いながらも少し調べてみたようです。

 すると、Tさんが会社で肩身の狭い思いをしていたのは、お母さまのせいだったと突き止めることができました。Tさんもそんなつもりはなかったのでしょうが、仕事でミスをした際に責められた人の名前をぽろっと口に出してしまい、それを聞いていたお母さまが職場に何度も嫌がらせの電話をかけていたというのです。Tさんがお母さまについて職場で何度も謝罪していたことを、何人もの方が覚えていたそうです。

 それから、Tさんのお母さまがほどなく気を病んでしまった知らせがMさんの耳に入りました。自ら刃物で首を切ったTさんのお母さまが入院なさったということもわかり、Mさんも今は怯えることなく元気に暮らしているそうです。

 不思議なことに、喉の痛みを感じる話をした際にTさんから送られてきたはずのチャットは一つを覗いて全て消え去ってしまっていたと言います。もしかすると、あのほとんどの文面は自分を追いつめようとTさんの振りをしてお母さまが送っていたのではないか、とMさんは添えていました。

 残っていたチャットの文面は一つだけ。


「私も何も言えないんだ」


 Tさんが言いたかった言葉はなんだったのでしょうか。そして、誰に話を聞いて欲しかったのでしょうか。

 今となっては、知るすべもありません──。

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