第3話「わかんない」
恋佐和さんに手を引かれるがまま進む。
走り続けてたどり着いたそこは、家庭科室だった。四限目にお菓子でも作ったのだろうか、少し甘い匂いと、洗ってそれほど時間の経っていないらしい道具がある。
その上、外はまだ暑いというのに室内は驚くほど涼しかった。
「ここなら誰も来ないはず」
パタン、と教室の扉を閉じてから、恋佐和さんは「ふう」と一息ついて言う。
「ごめんなさい。別に追われてるわけでもないのに手を……あっ!?」
言ってから、恋佐和さんはまだ繋いだままだった僕の手を慌てて離す。その慌てようは、さっきまで僕らの手を引いたときの勇敢さとは一転していた。
普段の恋佐和さんからは想像もできない雰囲気に、なにかイケナイもの見ているような気がよぎる。
「あ、錬太郎くん見てみて! 恋佐和ちゃん、なんか顔赤くなってる!」
「なっ……!」
興奮気味に小雪に指摘された恋佐和さんは、さっと顔を下に向けて隠す。
「ほんと?」
少し覗き込んでみようとすると、またさらに顔をそらして表情を見せてくれない。
「ちょ、ちょっと……やめて」
何度かそれを繰り返すと、恋佐和さんが小さく言った。赤髪からちらりと覗くことのできた耳は、ほんの少し紅い。
少し調子に乗ってしまったが、普段は半端じゃなく怖い恋佐和さんだ。怒らせてしまったらどうなるのかわからない。
諦めて僕は小雪に話を振ることにする。
「あのな、小雪」
恋佐和さんの目の前でこの話をするか悩んだが、下手に言葉を選ばない限り、小雪が錬成された彼女であるなんて思ってもみないだろうと思い、話しかける。
「なにー?」
話しかけられた小雪はきょとん、と不思議そうに後ろに手を組み上目遣いで小首をかしげる。上目遣いが上手な彼女、と教え込んだせいもあってか、その仕草は妙にぐっと来た。
「なんであんなことをしたんだ?」
「あんなことって?」
まだピンと来ていない様子の小雪に、若干の違和感を覚える。おかしい、僕はたしかに「僕の彼女の理想像」と「常識」を教えたはず。その「常識」の中に「彼女であることを転校そうそう公言しない」というものは……教えていなかったかもしれない。というか普通そんなことをわざわざ教えないような気もする。
「転校初日から『錬太郎くんの彼女です』なんて言ったんだってことだよ」
僕はどうしようもないと諦めて、小雪に聞いた。
「あー、それはね――」
「そう!それ!」
小雪の言葉を遮り、僕らの会話にさきほどまでうつむいて口を閉じていた恋佐和さんが、いきなり前のめりになって聞いてくる。
「本当に、こゆ……彼方さんって、錬太郎……くんの彼女なの?」
途中途中、僕らの呼び方が定まっていないからなのかつまりながら聞いてくる。よくよく考えたら、さっきは勢いからか「小雪」とか「錬太郎」とか呼んでいた気がする。
「えーっと、それは……」
思いがけない質問に、僕は詰まってしまう。自分自身、なぜすぐに「そうだ」と答えることができなかったのかわからない。
「なんでそこにつまるのっ!? 錬太郎くんの彼女であるのは、私の生まれてきた意味でもあるじゃんっ!」
小雪は「もーっ!」と声を上げて怒る。これも確か僕が教えたことだ。小雪は確かに僕の「理想の彼女」として行動している。
「ちょ、小雪、だまっ……」
「そんなになの?」
僕の言葉を遮り発言した恋佐和さんの雰囲気は、ただならないものだった。やっぱり怖い人だった。少しでも怖くないとか油断した僕のバカ。
「へっ?」
「そんなにまで彼方さんは錬太郎くんのことを愛しているというの……?」
恋佐和さんの声は少し震えていて、彼女の中の確かな怒りがありありと伝わってくる。
「それは……」
先程までマイペースだった小雪の勢いが、いきなりなくなる。何か引っかかるものでもあるのだろうか。
少しばかり間をおいてから、彼女は口を開いた。
「わかんない」
小雪は至って真面目にそう答えた。そこにはさっきまでのふざけた雰囲気はない。恋佐和さんの「怒り」を確かに感じて、ちゃんと考えて答えを出したことが僕にはわかった。
「は……?」
小雪の返事に不満があったらしい恋佐和さんは眉間にシワを寄せて小首をかしげる。その仕草だけで相当苛立っているのが見て取れた。
ほんのりと甘い匂いのする広い教室を、重い沈黙が支配する。
向かい合う二人を前に、僕はただ呆然と見ていることしかできない。
「――……もういいわ。じゃあね」
彼女はそう言い残し、教室を後にする。開け放たれたドアから、先程まで残っていた甘い香りが抜けていく。
「……」
「……」
残された僕と小雪はいまだ言葉を紡げず、ドアを閉じることも、教室から出ることもせず、時間だけが経過していく。甘い匂いの抜けたドアから熱い風が入り込み、入った頃は涼しかったここは今ではぬるい風が吹く。その温度は次第に上昇していき、やがて外と大差のないほどのものとなった。
じんわりと汗が出てくる嫌な温度に、たまらず僕は口を開いた。
「教室、もどろうか」
僕はそう言って教室を出ようとする。いきなり口を開いた僕に小雪は少し驚いた様子を示したが、すぐに同意して僕の後ろをついてきた。
気になった僕は後ろを振り返って小雪の表情を確認しようとする。明るかった小雪は一変してうつむいていて、表情を見ることができなかった。
小雪は、僕のことをどう思っているのだろうか。
小雪は、僕の「彼女が欲しい」という願望のままに生み出され、僕の彼女として理想像をすべて教えこまれた。そこに「好意」や「愛」なんてものはないだろう。だからこそ、「わからない」という返答。他の誰が見たってそれは明らかだ。
まして、自分の願望を叶えるために人体錬成を行うなんてどうかしている。
父親に言われた「女の子を大事に扱え」という教えも破ってしまった。
きっと僕は、小雪を創り出したことの、人体錬成という禁忌を犯したことの清算をいつの日かすることになるのだろう。
「あぁ、そうか」
恋佐和さんの質問に対して言葉に詰まってしまった理由がほんの少し見えたような気がした僕は、汗一つかいていない小雪の手を握って歩き出した。
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