見切り品2 「(ドリップを)いっぱい出したね♡マグロの刺身」

 とある夜更けのアパートの一室。薄暗いリビングには年の離れた二人の男女。年端もゆかぬ少女はソファーに腰掛け、妖艶な笑みを浮かべながら目下で正座させられている成人男性に囁く。


「あはっ、すっごい♡こんなにビチャビチャ♡」

「くっ、もういいだろそのことは…!」


 こんな子供に詰られて言い返せないとはなんと情けない大人だろうか、と思うことだろう。しかし男には黙らざるを得ない理由が、引け目があった。その弱みを知ってか、少女は子供特有の残酷さで男を更に責める。何かしらかの袋の底に溜まった液を指で掬い取り、男の鼻先に近付けた。


「ほら、すっごい臭い。おじさんも嗅いでごらん♡」

「うっ、くっ…!」


 鼻につく確かな異臭。男は思わず顔を背ける。しかしその抵抗も、少女の嗜虐心を刺激するだけであった。


「わかってるよね?おじさんが悪いんだよ?」

「おじさんがもっと物わかりが良ければ、こんなにビチャビチャに濡らさないでも済んだのに。」

「本当に…何をどうしたらこんなにビチャビチャにできるのかなー♡」


 少女はいよいよ畳みかけるように男を詰る。そして再び袋に手を突っ込み、何かを取り出す。ぽたぽたと水滴を垂らす、深紅の肉めいた塊―――




「―――いやホント、いくら半額品だからってこんなドリップまみれのマグロふつう買う?」




 思わせぶりな茶番はここまでにして、事の経緯を話そう。




(そういえば最近、刺身食ってねえなぁ…)


 今日も今日とて夜のスーパーにたむろする仕事帰りのサラリーマン、俺こと陶山健二はふと、最近の食事の偏りのことが頭によぎった。このところ晩飯と言えば加熱調理済みのお惣菜品。どうにもフレッシュさとは縁遠い食生活が続いていたことに気が付いた俺は、適当にサラダを籠に突っ込んだあと生鮮食品売り場へと足を伸ばす。


 幸運なことに、今夜は鮮魚が余りがちだったようで半額シールを貼られた刺身盛り合わせなどが多数、まだ棚に並んでいた。よりどりみどりでさてどれを買おうか迷ってしまう。


 そういえば今日はまた姪の美来里が泊まりに来ている日か。あまり安物ばかり漁ってたらアイツにまた小馬鹿にされてしまうだろう。そう思うと少しは見栄を張りたい気分になる。ふと目に付いたのは良さげな色をしたマグロの。半額でも600円ほどといつもの半額総菜に比べるとやや値の張る感はあるが、逆に言えばこのぐらいならアイツも文句は言うまい。俺は意を決してレジへと持っていった。




「あ、おじさんおかえりー☆今日もさびしく半額のお惣菜そーざい?」

「へっ、今日だけはそんな舐めた口叩かせねえぞ。これを見ろ!」


 (半額品だが)上等なマグロを見せつけるべくエコバッグに手を突っ込む。しかし次の瞬間、指先に奇妙な感触が走る。冷たい、というかなんか濡れている。怪訝に思い袋の中を覗き込むと―――マグロから出た謎の水分がラップの下から染み出しエコバッグの底にまで溜まっているという惨状であった。


「うわああああああああああ!!!???」


 俺は慌ててキッチンペーパーを手に取り水気を拭う。美来里はその慌てようにゲラゲラ爆笑している。なんとか拭き取れたものの、手とエコバッグに染みついた魚臭さはしばらく取れそうにない。


 しかも美来里が言うには、このマグロから出た水気は「ドリップ」なるものらしい。冷凍・解凍などによって細胞の膜が壊れその中身が流れ出た液。つまりはコレが出ているということは、そのぶん瑞々しさや旨味が流出しているということだそうだ。相変わらず小学生のくせに無駄に料理の事に詳しいなというツッコミはさておき、ここで俺はひとつの確認を取る。


「つまりこんだけ大量に『ドリップ』が出てるってことは…?」

「んー…半額品だとしてもその価値があるかどうかってくらいかナー。」


 かくして、数ある半額品の中からいっとうボンクラなマグロを選んでしまったらしい俺は、姪っ子にその見る目の無さを思いっきり煽られ倒した、というわけである。




「はぁ…まあいいや。いつまでもこんなことやってないで飯にするぞ。」


 謎のプレイじみた茶番を切り上げ、俺はサラダを食卓に並べる。エコバッグの底でドリップを浴びていたようで、やや魚臭いのが気にかかるが今日はこれぐらいしか食うものが無いので仕方がない。


「あれ?おじさんお刺身はいいの?」

「いいよ。色んな意味でショックデカいからもう捨てる…」

「ええー!?勿体ないジャン食べようよー!」

「いや、半額の価値も無いないって言ったのお前だし。ンなもん食いたくねーだろ。」


「でもー、みきりに任せてくれたらこのざこマグロ、前みたいに美味しく調理リメイクしてあげられるかもしれないよ?」




 台所に立った美来里は、まずマグロを水にさらしドリップを洗い落とす。そしてキッチンペーパーで余計な水分を拭ったのち、拍子木切りにしていく。俺はまた小学女児に晩飯を任せてしまっていた。情けない話かもしれないが、先日の穴子天丼の出来を考えたらこれが最良の選択だという自負はある。


「フツーなら醤油でヅケにするのがアンパイだけど、ちょっと臭いがキツすぎるからなー」


 小さく切られマグロを前にして、美来里が腕組み考えあぐねる。ドリップが流出するということは旨味を失うだけでなく、臭みが強まるということでもあるらしい。確かに先程嗅がされた時、夏場の魚屋のような独特の臭いがした。成程これをどうにかしない限り食えたものではないということか。


 ふと、何かが閃いたらしく美来里が駆け出す。そしてカバンの中から何やら茶色いとろみのある液の入った小さなボトルを取り出した。一見中濃ソースか何かかと思ったが、そのぐらいの調味料ならウチにもある。わざわざ用意したということは、何やら特別なものなのだろうか。


「これ?名古屋名物・味噌カツ用のミソ。」


 ちょっと待て。なぜお前はそんなものを持ち歩いているのか。この前のひつまぶしといいやたら名古屋推しなのは何だ。そういえばお前の母親はあちらの出身だったけかと思い出したが、それで説明のつく話でもないだろう。


 そんな俺の疑問をよそに、美来里はボウルに味噌カツダレを開ける。そこに合わせるのは半量程度のコチュジャン、おろしニンニク、ごま油。そして和えダレにしては固すぎるそれを醤油で伸ばしていく。とろりとした程よい粘度になったら、切ったマグロを加えよく揉み込み、全体に行き渡ったらラップで封をした。


「んじゃ、このままご飯が炊けるまでの一時間しっかり漬けとくねー。」

「結構待たされるのな。」

「何、おじさん大人なのに一時間も我慢できないの?下の学年の子みたいでかわいーね♡」


 人を辛抱できない子供みたいに言うな。ちょっと腹が減ってたから気になっただけた。こちとら我慢が仕事のサラリーマン、二時間でも三時間でも待ってやれるわい。


「じゃあさ、半日くらい漬けておくとムチッとした食感になって面白いんだけど、そこまで言うならそれまで待つ?」


 ………すいません、一時間でお願いします。




 かくして待望の一時間が経過した。炊きたてご飯をどんぶりによそい、上からもみ海苔を敷き詰めたらいよいよ主役の出番。味噌漬けマグロをたっぷり盛り、いりゴマと小ネギを散らし、最後に卵黄をど真ん中に据えれば完成だ。



「とゆーわけで、『おもらしマグロの味噌ユッケ丼』かんせーい☆」 



 美来里が満面の笑みで差し出したどんぶりを手に取ると、まず鼻に入ってきたのはにんにくとごま油の香り。驚くことに先程のような魚の生臭みはまるで漂ってこない。それどころか韓国風の食欲をそそる香りに抗えず、俺は思わずどんぶりをかっ込んだ。


「………美味え!当然の如く美味え!」


 口の中で旨味が弾ける。味噌カツだれとコチュジャン、二種類の濃い甘辛味噌が混ざり合ったパンチのある味わい。そしてごま油とにんにくの芳香。それらが混じり合った味は海鮮丼のタレというよりは焼肉のタレに近い。普通の白身の刺身ならこのタレの味一色に塗りつぶされてしまうところだろうがそこは腐ってもマグロの赤身、獣肉にも似て血の香りを纏った身は濃い目のタレにも全く負けていないのだ。


 懸念された生臭みについても、特製タレの辛味と香りが包み込みまるで気にさせない。いや、厳密に言えば臭いを完全に消しきっているわけではないのだが、軽減された臭いはむしろクセのある味に転化し逆に白飯によく合っているのだ。うん、これは酒のツマにするよりも断然白いご飯に合わせるヤツだ。途中で黄身を潰して絡めれば、最早箸を止める術はない。



「あ~あおじさんってば、ま~た小学生の作った料理にそんながっついちゃって~♡」


 どんぶり飯一杯の完食まで正味三分足らず、夢中でかっ込んでしまった俺を、例によって美来里はにやけ顔でイジってくる。しかし食後の余韻に浸る俺は強がって反論する気力もなく生返事を返していた。


「ん…おお、まあな。実際美味かったし。」

「あ、あれ?随分と素直ジャン。もっとこー大人のプライドってーか、『まだ負けてないんだが?』みたいなこと言い返さないの?」


 俺の気の無いリアクションに拍子抜けしたのか、逆に美来里の顔に困惑の色が見える。しかし二度目ともなればコイツの腕も確かなものだとわかるし、屈する屈しないで気を揉むつもりもなかった。仮にそれをメスガキ敗北と言うのなら、俺はもう負けでいい、そう思えるくらいには満足していた。


「しかしアレだな、気の早い話だがこれだけ料理の上手いとなると、お前と結婚する相手はきっと幸せだろうな。」


 そんな叔父としての忌憚のない意見も思わず口をついて飛び出てしまう。


 …が、これがどうやら美来里の逆鱗に触れたようだ。



「なななななななっ…何言ってんのおじさん!!?」

「『結婚』とか『相手が幸せ』とかこんな小学生相手に本気になっちゃってさぁ!」

「そんな…そんなこと言われたらみきりもさぁ///つーかキモッ!キモッ!!」



 今まで聞いたことのないド直球の罵倒。見れば顔を真っ赤にしている。どうやら余程気に障ったようだ。まあ確かに多少セクハラ臭い物言いになっちゃったとは思うし、三十路前の独身男に将来の結婚を心配される筋合いも無いわなとは思う。猛省し姪っ子に平謝りしながらその日の夜は更けていくのだった。

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