第7話
「はぁ………」
秋も深まり庭の草木も色づいてきた頃、アミシアは自室で深くため息を吐いた。赤々とした木々の色づきとは反対に、彼女の心は薄青く陰りを差している。
理由は勿論、ラインのことだ。
例の件から半年が経った。
それ程の時間が経って尚、彼女の中のラインへの恐怖が消えることはなかった。そのせいか、この頃は勉強にも手が付かず、何をやっていても心に引っ掛かりがある。先月あった自分の誕生会でさえも、心の底から喜ぶことすらできない程だ。
自分のせいで両親や使用人たちに心配を掛けていることは、彼女も分かっている。しかし、如何せん彼女は未だ六歳と幼い少女だ。自身の心に踏ん切りをつける方法を、彼女はまだ知らなかった。
本来ならば、大人であるラインが歩みよってやるべきなのだろうが、彼はこの関係の捻じれを問題とすら思っていない。そのため彼からアプローチを掛けることは一切なかった。
彼の他に最も身近な大人であるオリーブは、そもそもとしてアミシアとラインが親しくすることを嫌っていたため、二人の距離が離れることを良しとしていた。アミシアの元気が落ち込むことを心配こそすれ、これは彼女のために仕方のないことなのだと、手助けすることはなかったのだった。
その他に、彼女の両親は仕事で忙しく顔を合わせることも滅多になく、使用人たちは魔法使いであるラインを畏れて近づかない。
これが同じ幼子同士の喧嘩であったならば、どれほど楽であっただろうか。これが単純な意見のぶつかり合いであったならば、どれほど楽だっただろうか。
然し、これは彼女自身の問題だった。彼女が一方的にラインに対する恐怖心を抱いているだけなのだ。
齢六歳の少女には余りにも過酷な試練。しかし、彼女はこの問題を自分の力で解決する他なかったのであった。
そもそもとして、彼女がラインに対する恐怖を抱いたのは、ラインが魔獣の血肉に塗れた姿を見たからだ。それまで、彼女は魔獣のことを知識としてしか知らなかったのだが、それが魔獣の血肉であるということは本能的に察知した。幼い子供が親しい大人の血濡れの姿を見たのだから、その姿に対して恐怖心を抱くのは当然と言えよう。
だが、彼女が最も恐ろしく感じたのは、彼の表情だった。
あの時、彼はいつものように笑っていた。普段の彼が自身に向ける、へらへらとした彼女にとっては優しく感じていた、あの表情だ。
血肉に塗れて尚、普段と同じ表情を浮かべる彼。魔獣に向ける表情と、自分に向ける表情は同じだった。
もしかしたら、彼にとっては魔獣も自分も同じような存在なのではないか。いつも優しい彼が、普段と変わらない態度で自身にも牙を向くのではないか。いつか自分も彼の糸で殺されてしまうのではないか。
彼女が抱いたのはそんな恐怖だった。
当然、そんなことは全く持っての杞憂である。年不相応に聡明な彼女は、それが杞憂であることも理解している。
彼はあえて普段通りにして自分を安心させようとしたのかもしれない。彼女にとって彼はいつだって優しい大人であった。そういう風に自分を納得させようと、彼女は必死になった。
然し、彼女の精神は年相応に未熟であった。どれだけ自分を納得させようとしても、一度抱いた恐怖心は薄れることはなかった。
「はぁ………」
彼女は再びため息を吐いた。からからと山から吹き下ろす秋風が草木を揺らした。
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そして時は過ぎ去り、年が明けた。
新年の初め、アミシアやウッデンゲート伯爵夫妻を含むウッデンゲート伯爵家一行はブラストテレス王国の王都テレスポリスを訪れていた。
その目的はこの国の王子であるレイヤード王子の六歳の誕生記念式典のためだ。
子供を六歳まで表に出さないというブレストテレスの伝統は王族にも適応される。六年前の王子誕生の知らせから、王宮で働く者以外に王子の姿を見た者はおらず、今回の式典が王子の初お披露目の場となっている。
そのためか、王子生誕式典は盛大に行われる。この国の貴族が一堂に会し、皆が王子のこれまでの健康を祝い、これからの健やかな成長を祈るのだ。
それと同時にこの国の貴族にとってはもう一つ重大な目的があった。
それは子供を使っての政争だ。
この式典には王子と同年代の子供たちも参列し、その子らもまた、この生誕式典が初めての表舞台の場となる。式典の後には子供たちの交流会があり、そこで王子に気に入られれば家に多大なる恩恵が齎される。
この国では王家とその他の貴族とでは役割が大きく異なっている。領地持ちの大貴族が各地の行政を司るのに対し、王家は法を司っている。司法の長である王家との繋がりを得ることが出来れば、その威光を以て諸般の交渉事を優位に進められる可能性があるのだ。
これは大貴族の傘下に収まる諸貴族たちにとっても他人事ではない。寧ろ、彼らの方がこういった政争に力を入れる傾向にある。
男爵、子爵家の者たちは王宮議会で議員をしたり、主家である大貴族の下で官僚をしたり、騎士として軍事に従事したりと、様々なことをして家を保っている。
そういった環境の中、少しでも自分の家の待遇を良くしようとやっけになるのだった。
また、王子との親交を深めることが出来ずとも、子供達にはそれ以外にも役割がある。単純に他家の子供と交流を深めるのだって大事なことだし、中にはこの交流会で婚約者を見定める家もある。
このように様々な思惑が蔓延る誕生式典は、この国の貴族にとって非常に大切な式典であるのだ。
そんなことを知ってか知らずか、アミシアは車窓から除く王都の景色に見入っていた。六歳の誕生日を迎えてから、ウッデンゲートの領都グリンクラウンを散歩することはあった。
しかし、テレスポリスとグリンクラウンとでは街の様相が異なっている。領主館こそ石材をふんだんに使用しているものの、グリンクラウンの町並みは木造の印象の方が強い。それは領内で採れる木材を積極的に使用しているからである。
一方で、テレスポリスは石の街といった印象を受ける。王都から少し離れた場所には海があり、そこから吹く潮風によって木材が痛むのを嫌い石材を主に使用しているのだ。
また、王都というだけあって街の栄具合が違う。グリンクラウンも王国内では都会と言える街ではある。しかし、王都はさらに上を行く。人の数が違うし、通りに並ぶ商店もより様々なものがある。
そうした街ごとの景色の違いであっても、生来好奇心の強いアミシアにとっては興味深いものだった。
優秀な教育係から王国内の各領がどういった特色を持っているのかを学んでいる彼女であったが、知識として知っているのと実際に目にして体感するのでは、天と地ほどの差がある。
彼女は久しぶりに憂いを忘れて楽しむことが出来ていた。
そんな彼女を見て、馬車に同乗するハイドラとウッデンゲート夫人は安堵に胸を撫で下した。
近頃娘の元気がないことは二人とも使用人から聞き及んでいた。しかし、自分の仕事が忙しく、構ってやれていなかったことを両親共に心痛めていたのだ。
唯でさえ忙しい領主の仕事に、昨今の魔獣の頻出が重なってしまった。魔獣による被害の把握や補填、復興作業などやらなければならないことが山積みなのだ。
今回の生誕式典だって、幾晩も徹夜して詰め込み作業で直近の仕事を終わらせたからこそ長期間領を離れることが出来ている。この旅路の殆どの時間、夫妻は体を休めることに腐心していた。
王都に着き、体が動くようになってから目にした、輝きを失っていない娘の表情に彼らがどれ程安心したか。娘が聡明な子に育ってよかった。少々達観し過ぎている部分もあるようだが、自分達もそうだったからか、夫妻は気にしていなかった。
オリーブを娘の教育係に宛がったのは正解だった。ハイドラは過去の自分を称賛した。
ただ、彼には一つ懸念点があった。それは自分達とは別の馬車に乗るラインのことだ。アミシアが元気のない原因はラインとの関係性であることは、騎士隊長からの報告で知っている。
が、この旅に連れてくるならば、彼以外いなかった。彼は何かと使い勝手が良いのだ。それは魔法の使い勝手の良さというのもあるが、彼の性格故だ。
彼は自発的な行動をすることが少なく、こちらの命令にもきちんと従ってくれる。彼であれば他二名の伯爵家所属の魔法使いよりも問題を起こす可能性が低かった。
そういった理由からハイドラは普段からラインを重用しており、その流れで今回も彼を連れてきたのであった。
然し、アミシアが彼のことを避けているということをすっかり忘れていた。
連れてきてしまったものは致し方がない。これ以上、娘の心に余計な陰りが差さなければ良いのだが。
ハイドラには最早祈ることしか出来なかった。
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