第5話

 今から十五年前、ウッデンゲート伯爵領のとある小さな町でラインはこの世に生を受けた。

 父はしがない町医者で、母は商家の下働きだった。二人は母の職場に父が仕事道具の仕入れに赴いた際に出会い、顔を合わせる機会が増えるに従って仲が深まり、家庭を築くに至った。

 結婚後、二人の仲は円満で子供が授かるのも直ぐだった。子供が生まれてからは父はより一層懸命に働き、母は周りの助けを借りながらも子育てに励んだ。


 ラインが生まれてからも穏やかな日々が続いた。しかし、それから半年が経ったころ、悲劇が起こった。


 父の休みの日、母は一時の休息として彼女の両親とともに街へと出かけた。ラインの面倒を見るため、父はそれにはついていかなかった。

 久しぶりの休暇を母は存分に謳歌した。カフェで食事をし、衣服やアクセサリなどを見て、出し物興行などを楽しんだ。


 そうして、夕刻の日没前に相乗り馬車に乗り帰宅をする時、最悪なことに帰路の街道に魔獣が出現した。出現した魔獣は汎級の魔法使い以外でも対処可能な魔獣だったが、それも日ごろから十分な訓練を積んだ兵士が隊を組んでやっと対処できるか否か、といったものだ。

 出現した魔獣は出動した騎士団によって討伐されたが、魔獣の出現によって馬車を引く馬がパニックを起こし、馬車は転倒。馬車から投げ出された乗客は皆、逃げる術を失い、魔獣によって殺害された。当然、ラインの母もまた、その人生に幕を下した。

 

 この世界においてはありふれた悲劇だ。しかし、その被害を被った当人にとっては、どんなに辛い出来事よりも重く、そして決して癒えることのない傷となって心に枷を課す出来事である。


 妻や彼女の両親の訃報を聞いたラインの父は酷く落ち込んだ。最愛の妻を失い、仕事も手が付かず、食事もままならない状態だった。それでも何とか自分を保っておけたのはラインの存在があったからだった。

 然し、不幸というものは更なる不幸を呼び込むものだ。

 ラインの父が精神をすり減らしながらもラインの世話をしていると、今度は彼の父が病に倒れた。彼の母は既に他界していたため、彼は父親の面倒も見なければならなくなってしまった。

 子育てと親の介護の両立など、独り身で出来るわけがなく、辛うじて保っていた彼の精神は直ぐに限界を迎えてしまった。

 

 彼は自分の親を見捨てることを決め、薬の代わりに毒を盛り父親を殺害した。彼は日頃から穏やかな医師として知られており、誰も彼が父親を殺害しただなんて思いもしなかった。

 一つの負担が消えた彼は見違えるように精力的になった。最愛の妻を思い、彼女との愛の結晶を自分が守るのだと決意し、子育てと仕事の両立を成した。

 

 そうしてラインはすくすくと育ち、彼がハイハイで動けるようになった頃、ラインの父に急激な不安が押し寄せてきた。彼は子供が不安定ながらも自らの意思で動くことが出来るようになったのを見て、もしかしたら、この子も急に自分の下からいなくなってしまうのではないかと考えたのだ。

 馬鹿げた考えだが、彼の頭からその考えが消えることは一切なかった。

 忘れよう、忘れようと思えば思うほど不安は濃厚にこべり付き、心を蝕んでゆく。更には、一度は壊れた心だ。罅だらけだった心は思ったよりも早く、乾いた砂のように崩れ去ってしまった。


 気が付けば、彼は自分の子供の両手首両足首を折っていた。赤子の発達していない柔らかい骨だ。折るのは簡単だった。

 彼は赤子の骨を折った後に、泣き叫ぶ子供の声など聞こえないかのように、ラインを椅子に拘束し始めた。自らの意思で一切の身動きを取れないように、厳重に麻縄で縛り上げたのだ。


 それからの彼は完全に気が狂ってしまった。昼間は普段と変わらず穏やかな医者として働き、子供はベビーシッターを雇ったという言い分で自宅に監禁した。

 食事は彼が帰って来た時に一度だけ穀物と山羊のミルクを煮込んだものを与え、その他には何も与えなかった。衛生面に於いては食後に水で濡らした布で体を拭き、その時に排泄物の掃除もまとめて行った。

 始めこそ世話としての体面を保っていたものの、次第に彼の虐待はエスカレートしていき、終いには日常的に暴力を与えるようになった。彼は自分の子供を自らの意のままに支配しようとしたのだ。食事、排泄、睡眠すらも。それこそが自分の子供を守るということなのだ、と彼は思いこんでいた。


 ラインはそのような劣悪な環境の中で、何とか生きながらえていた。それというのも、父親の暴力が上手かったせいだ。医者としての技量、知識を存分に生かし、ぎりぎりで死なない限界を見極めていたのだ。

 彼はろくな栄養も取れず、外部からの刺激もほとんどないまま育ったため、十分な発育が成されなかった。身体はがりがりに瘦せ細り、身長も全くと言って良いほど伸びない。精神面においても発達は遅れ、発語は見られず父親の言葉を理解するほどの知能も芽生えなかった。彼は父親の心を満たすためだけの肉人形だったのだ。


 そんな状況でラインが五歳になった頃だった。

 父親が外出中、ラインがいつものように気を失っていると、普段よりも早く父親が帰って来てしまった。彼の身体は決まった時間に意識が覚醒するように調整されていたため、不測の父親の帰還には対応できなかった。

 父親はラインが倒れているのを見ると、当然そのようなことを指示した記憶はないので、激高した。彼はおもむろにナイフを取り出すと、ラインを縛り付けていた麻縄を解き、ボロボロになった汚らしいラインの服の胸倉を掴んだ。骨と皮だけで出来た肉の人形は軽々しく持ち上がり、父親は罵詈雑言を撒き散らしながら、それを大きく揺さぶった。

 

 その刺激によって朧気ながらラインの意識は覚醒した。彼は不明瞭な視界に何者かがいるのを捉えるが、それが自分の父親であることすら認識できない。自分が何を言われているのかも分らぬまま、自らを襲う激しい揺れに耐えた。

 父親はラインがうんともすんとも言わぬのを見て、自分の心からの忠告を無視しているのだと、更に腹を立てる。彼は片手でラインを掴み上げながら、もう片方の手でその細首を絞め上げた。

 苦しさに喘ぐライン。いつもならば死なない程度に加減するのだが、仕事で苛立っていたことともあり、普段よりも少しばかり力んでしまった。加えて、これまで耐えてきたラインの肉体も流石に限界を迎えたのだろう、ラインは簡単に息絶えてしまった。

 自分の子供が死んだことにも気が付かずに、父親は首を絞め続ける。ラインの全身からはすっかりと力が抜け、手足はだらりと垂れ下がる。


 死の間際にラインが感じたのは圧倒的な開放感であった。全身がほどけ、世界と溶け合うような感覚。その感覚はどんどんと広がり、やがて、世界の外側へと到達する。

 瞬間、世界の外側から彼の中に何かが流れ込んできた。それは何処かの誰かの記憶の断片だった。幾人もの記憶の奔流が、彼の精神を侵し、支配し、そして塗り替えた。空っぽの精神とこの世界に染まっていない肉体を持つ彼という存在は、何かを注ぎ込むための器として適していたのだ。

 それに伴い、彼の肉体は糸のように解れてゆく。何者にも捉えられない糸となった彼の肉体ははらはらと宙を漂う。それらの糸は紡ぎ合わさるように人の形を成し、彼の身体は再編された。そうして出来上がったのが、今のラインであった。

 

 推定二十歳程度の肉体。灰色の髪に灰緑色の瞳。ひょろりと細長い手足に華奢な胴体。襤褸布で出来た人形の様だった子供の姿はそこになく、全くの別人の姿となったのだ。

 これがラインの魔法使いとしての覚醒だった。彼は自分を構成する幾つもの記憶を自らの前世であると解釈し、自分の魔法についても本能的に把握した。


 目を開けたラインは、訳も分からぬまま目の前で喚きたてる男を、糸の魔法で殺害した。薄っすらとだが元となった子供の記憶は残っていたし、何よりも目の前の男が不快だった。

 男を殺害した後、ラインは自分が裸であることに気が付き、魔法の糸を紡ぎ合わせて衣服を作り身に纏った。それから家を出て、この世界に一歩足を踏み入れた。


 家を出た後の彼は当てもなくウッデンゲート領を彷徨った。目的のない旅路は半年ほど続き、彼は行く先で出くわした魔獣を討伐しながら、とある山間の渓谷に辿り着いた。彼はその谷底に自分の糸で繭を作り、それに閉じこもって過ごすことにした。

 何人もの記憶がぐちゃぐちゃに混ざり合っているためか、彼は自分が何者なのかも分からなかった。加えて、彼の中には漠然と『この世界に居てはいけない』という感覚があり、彼は自分の殻に閉じこもってしまったのだ。


 彼が繭に閉じこもってから一週間が経った頃、彼は繭の外が騒がしいことに気が付いた。人の立ち入らなそうな場所を選んだはずだ。彼は不審に思いながらも、外の様子を確認するべく、繭を一部解いた。

 そこには、大勢の騎士を引き連れた深緑色の髪をした青年が立っていた。それは当時伯爵家を継いだばかりのハイドラだった。


『やぁ、魔法使い。調子は如何かな?』


 ハイドラは堂々とした立ち振る舞いでラインに近づくと、そう問いかけた。

 ラインはこの世界の言葉を全く理解できず、自らもまた喋ることが出来なかったため、虚ろな瞳で見返すだけだった。


『もし宜しければ、我々に力を貸しては頂けないだろうか。我々には貴方が必要だ』


 ハイドラはラインの様子を気にも留めず言葉を続けて、ラインに向かって手を差し伸べた。

 ラインは差し伸べられた手とハイドラの顔を交互に見て、そして、その手を取った。なんとなく、本当になんとなくだが、そうした方が良い気がした。それだけの理由だった。


『これからよろしく頼むよ、魔法使い』

 

 これが、ラインとウッデンゲート伯爵家との出会いであった。

 


 

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