第4話

 ラインは一人ぽつりと立っていた。彼の足元には、黒紫色の毒々しい沼が広がり、そこらには魔獣の肉片が転げ落ちている。

 彼と魔獣の決戦はあっけなく終わりを告げた。如何に魔獣が怒り狂い、必死に立ち向かおうとも、彼には勝てなかったのだ。

 

 ラインは立ち向かってくる魔獣に対して、魔法を駆使して迎え打った。糸で魔獣の肢体を切断し、糸を編み込んで形成した繭『蚕蓋』の中に閉じ込め、複数の糸でミキサーのように撹拌した。

 後はその繰り返しだった。魔獣が何度身体を再生しようとも、何度立ち上がろうとも、肢体を削がれ、地に伏し、そして肉を微塵へと変えられてしまう。

 次第にラインの興奮は覚め、普段と同じ黄昏た瞳へと変じていく。彼の眼のうちから魔獣の存在は消え、彼の思考は『さっさと帰って煙草でも吸いたい』ということに置き換わった。


 そうして出来上がったのは、紫黒の沼に佇む一人の男という情景。なんとも無残なものだった。

 

 魔獣はどろどろの肉汁と化しながら、絶望に打ちひしがれていた。こんな化け物に勝てっこない、何とかしてこの化け物から逃げなければ、そうでなければ自分は跡形もなく消え去ってしまう。消えたくない、消えたくない、まだ、まだ消えたくない。

 そんな絶望の中、魔獣は一つの賭けに出た。

 肉体を幾つもの分体に分けて再生し、四方八方に散らすように飛ばしたのだ。再生された肉体は、単純な肉球に目玉が一つと口が一つ付いたなんとも不格好なものだった。しかし、それでもいいから何とかしてこの世の存在を喰らい、この存在を保たなければならなかった。


 地面に広がる肉の沼から浮き上がってあちらこちらに飛び散っていく魔獣の分体。ラインはそれを一瞬遅れて捉えようと糸を伸ばした。

 空中を逃げ回る肉球とそれを追う糸。数十秒に満たない逃走劇の中ほとんどの肉球は捕まり、潰されていく。しかし、一つ、ただ一つだけは何とか逃げ切ることが出来た。それは、村の方へと向かって逃げた肉球だった。

 

 魔獣は後先考える暇もなく、全速力で飛んでいく。

 ラインは捕えきれなかった肉球の行く先を見やり、しかし、特に慌てることなく悠々とそれを追うのであった。



>>>


ゆらゆらと揺らぐ影を見つめながら、アミシアは思考に耽っていた。

 考えることといえば、自らの行動に対する自省、屋敷の外の世界に蔓延する危険と恐怖、それからラインのこと。

 ぐるぐると堂々巡りする思考を続けていると、気が付かぬうちに時間は過ぎ去っていく。


「ひっ………」


 彼女が次に顔を上げたのは、大きな衝撃音によってだった。遥か遠く、ラインの消えていった方角から聞こえた雷鳴の様な轟音。ラインが魔獣と接敵した際の衝撃は、麓の村まで届いていた。

 辺りは全くの無音だったから、轟音は余計に際立った。


 アミシアはそろりと隣に立つ騎士隊長の顔色を窺う。

 彼は何事もなかったかのように毅然とした態度でそこに立っており、それが彼女を安心させた。彼が平然としているからには、ラインに心配が必要になるようなことは起こっていないということだろうと、彼女は思ったのだ。


 然しながら、落ち込んでいた彼女の心は爆音によって浮ついてしまった。彼女はラインのことを考えながら山林の方角を眺める。その間も、隊長の顔色や周辺の村の様子をちらちらと窺ったり、そわそわと体を揺らしたりと落ち着かぬ様子だった。


 そうして、待つこと数分。今度は聞いたこともないような獣の咆哮が聞こえてくる。

 彼女は体を竦めて縮こまった。顔は青ざめ、体の芯から震える。身の毛もよだつような恐ろしい咆哮だった。

 流石の騎士隊長も、反射的に腰元の剣に手を掛けた。いつでもそれを抜けるように、視線を鋭く山林を見据える。

 

 だが、そこから彼が剣を抜くまでには、かなりの時間があった。時間にして十数分だろう。

 村の様子も再び静まり返り暫くすると、がさり、と暗闇の茂みが音を鳴らした。

 音の方角からは、何らかの物体が目にも止まらぬ速さで飛来してきた。それは高く、上空まで飛び上がると、彼らのいる村の中央部に向かって急降下を始める。

 着弾予測地点は、アミシアだ。

 それに合わせて、隊長は抜刀。上段から迎え撃つように剣を振り下ろした。


 然し、彼の一太刀目は飛来物を捉えることはなかった。謎の飛来物は彼らに届く直前で急停止したのだ。

 急停止から二太刀目の僅かな一瞬、騎士隊長が視界にとらえた飛来物の正体は、牙の生えた口が付いた目玉のような球体だった。

 騎士隊長は一太刀目を外したことに微塵も心揺るがさず、二太刀目を放つ。今度は下段から逆袈裟の太刀筋だ。見事、彼の剣は停止した眼球の化け物を断ち切った。


 鉄閃に断たれた眼球の化け物は、どろりと溶けて液状化する。べちゃり、と粘性のある音を立てて地面に落ちた黒紫色の粘液は、暫く地面の染みとなると、眩い白光となって世界へと溶けていった。


「おー、後始末、ご苦労さん」


 魔獣の消滅に騎士隊長が胸を撫でおろしたところに、声がかかる。ラインだ。

 突然、自らの方へと向かって来た飛来物に体を硬直させていたアミシアも、彼の声に我を取り戻し、ぱっとそちらを向く。

 だがしかし、彼女の身体は再び固まることになった。

 彼女が目にした彼の姿は酷く悍ましいものだったからだ。


 彼の全身は髪の一本から肌、衣服の繊維、足のつま先まで魔獣の体液に塗れており、篝火の光によってぬらぬらと気色の悪い光沢を放っている。黒紫色の粘液が、毛の先や手指からぽたり、ぽたりと垂れる。

 そんな彼の様相にアミシアは思考が停止したかのように固まってしまった。


「お疲れ様です。魔獣の消滅はこちらで確認しました。今任務はこれにて終了です」

「ん。何本か木、倒れたから」

「まぁ、その程度なら問題ありません」


 彼女の様子を気にも留めていないかのように、ラインと隊長は会話を続ける。


「屋敷への帰還は明日の朝を予定しておりますので、それまではお休みください」

「了解」


 そうして事務的な会話が終わった際、漸くとラインはアミシアの姿に気が付いた。


「おぅ、お嬢。いい子で待ってたか?」


 彼は普段から彼女に接するときと変わらない態度で、彼女に声をかけた。へらへらと軽薄気な笑みで、いつもやっているように彼女の頭を撫でようと、手を向ける。


「ひっ…」


 が、その粘液にまみれた手を差し向けられたアミシアは、びくりと肩を震わせてしまう。その表情は魔獣の咆哮を聞いた時と同様、いやそれ以上の怯えを孕んでいた。

 いくら人の感情の機微に疎いラインとて、彼女の様子が普段と違うことには気が付いた。差し向けた手をぴたりと止めて、数度瞬きをした後に、おずおずと腕を引き戻した。

 

「あー、水浴びしてくるわ。確か川あったよな」


 ラインは少し気まずそうにしながら言うと、村のはずれを流れる川の方へと向き直り、速足でその場を去った。


「お嬢様も今日はもう休みましょう」

「………うん」


 騎士隊長はラインに怯えるアミシアの姿を見かねて、もう寝るように促す。彼女もそれにこくりと頷き、彼らもまた、その場から去るのであった。



 >>>

 >>>



 そして翌朝、アミシアやラインを含む派遣部隊はウッデンゲート伯爵家の屋敷のある領都グリンクラウンに帰還した。

 派遣隊の半数は事後処理のために村へ残し、もう半数でアミシアの護衛をしながら帰還する形となった。

 期間道中は特に何かが起こるわけでもなく平穏無事なものだった。騎士隊長の配慮でラインとアミシアの乗る馬車は分けられていたが、その道中もアミシアの気分は晴れず、何時になく静かな様子でいた。

 護衛をしていた騎士たちは、普段の天真爛漫な彼女の姿を知っているだけに、動揺したが、特に触れることはなかった。


「やぁ、みんな。お疲れさま」


 派遣隊がグリンクラウンの騎士隊舎に着くと、若く、それでいて落ち着いた声をした人物が彼らに労いの声をかけた。声の主は上等ではあるが質素にも見える衣服に身を包んだ深緑色の髪の男だった。彼こそが騎士やラインの主であり、ウッデンゲート伯爵領の若き領主ハイドラ=ウッデンゲートだ。


「ラインもお疲れ。いつもすまないね」

「あぁ」


 彼は騎士たちの次にラインに顔を向けると、同様に労いの言葉を掛ける。

 それに対してラインは敬意の欠片もない気の抜けた返事を返すが、それを気にも留めないかのようにハイドラは優しい微笑みを湛える。


「—――それと、アミシア」

 

 最後に、彼は騎士隊長の後ろに隠れるように立つ自分の娘に視線を向けた。

 彼の視線を受けたアミシアは怒られることを予期して、ぎゅっと騎士隊長のズボンの裾を握った。半身こそ晒しているものの、彼女は出来るだけ父親と目線を合わせないように、地面に目を落とす。

 ハイドラは優しい笑みを浮かべたまま、一歩、また一歩と彼女に近づく。彼が近づく度に、彼女の拳には力が籠る。

 そうして、手を伸ばせば触れられる距離に近づくと、ハイドラはしゃがみこむ。

 アミシアはぎゅっと目を瞑る。

 

 然し、彼女の予想していた恐ろしい光景は訪れなかった。

 彼女の身体は温かな抱擁によって包まれる。木漏れ日の差す森林のような広大な朗らかさだった。


「えっ」


 てっきり、酷く叱られるものだとばかり考えていたアミシアは困惑の声を漏らす。


「アミシア。無事でよかった」

 

 ハイドラは唯只管に安堵の声を娘に投げかけた。


「えと、あの、ごめんなさい」

「うん。好奇心旺盛なのはいいけど、あまり僕達に心配を掛けさせないでくれ。君は僕達の宝なんだ。失うわけにはいかないんだ」


 ハイドラは一層力強くアミシアを抱きしめる。

 全身に伝わる父親の力強さに、アミシアの瞳からは自然と涙が溢れ出る。昨晩からの緊張から解放された安心からか、それとも自らの情けなさからなのか、彼女自身涙の理由は分からなかった。


「ごべんなしゃい、ご、めんにゃさぃ」

「うん、うん」

 

 ハイドラは腕の中で泣きじゃくる娘の背を優しく撫でながら、騎士隊長に視線を投げかけた。その視線には『後で報告を聞く』という意が込められていたが、幼少から付き合いのある彼らにはきちんと通じ合っていた。騎士隊長は彼の視線に対して頷くだけで返事とした。


「それはそうと、後でちゃんとお説教はするからね」


 突然のハイドラの忠告が、わんわんと泣くアミシアの耳に届いているかは定かではなかった。

 

 

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