第七話 レイガルム
重圧感のある雰囲気が、咲弥の肌をひりつかせた。
咲弥はレイガルムと向き合い、必死に思考を働かせる。
相手は巨獣の怪物――
たとえ魔物といえども、その構造は生物にほかならない。ガルムの上位種だとしても、そこに違いはないはずだった。
(まずは、見極め……そこから、見いださなくちゃ)
紋章術は、あと三回までしか使えない。
もし使い切れば、回復するまで最低でも二時間はかかる。回復前の状態で発動したところで、発動しないか、もしくは水鉄砲にすらならないのだ。
紋章術が使えなくなれば、手持ちで戦うしか道はない。
だが木の棒で倒すのは、さすがに不可能だと感じられる。
しかし今は、攻撃を想定するよりも大事なことがあった。
相手は間違いなく、
だからまずは、逃げ道の確保を優先したほうがいい。
咲弥は素早く、周囲に視線を巡らせた。その際、シェイを抱えてうずくまっている、ロッセの姿が見える。
片腕を失いながらも、ロッセは
(ロッセさん……!)
咲弥は不意に、腹部に重い妙な感覚を覚えた。
極限まで、神経が研ぎ澄まされていたからだろう。
巨獣の微妙な気配の変化を、肌で感じ取ったのだ。
(来る……!)
察知した通り、最初に動いたのはレイガルムだった。
やや前進してから、咲弥は大きく斜めに移動する。
レイガルムの動きは、想像の数倍は素早い。
レイガルムはいともたやすく、咲弥の横側を陣取った。
瞬間――とてつもない速さで、咲弥に突進してくる。
「シュラララァ――!」
ガルムと同じで、口先が花のごとく開花した。
「うわあっ!」
前に転がりながら、レイガルムの
レイガルムはそのまま、
初撃の勢いを保ちつつ、噛みつこうとしてきた。
これまで遭遇したガルムとは、明らかに異なる動きだ。
咲弥は全身の肌が、ぞっと
もし、観察――逃げを主体としていなければ、今の攻撃で確実にやられていた。
事前に見つけていた隙間に、咲弥は即座に滑り込んだ。
やはり獰猛な獣の攻撃は激しく、そして凄まじい。
逃げ道の確保を優先して正解であった。
(あんなのに噛まれたら、一瞬で終わってしまう……)
祖父と過ごした記憶が、鮮明によみがえる。
そのときの経験が、今まさに生かされていた。
(じいちゃん……ありがとう……!)
「クシュラァアアア――ッ!」
この程度の隙間では、長くはもちそうにない。
どんどんかみ砕かれ、隙間が広がっていた。
今すぐにでも、別の場所へ移動する必要がある。
警戒を最大限にしたまま、咲弥は再び思考を働かせた。
巨体にそぐわぬ速度に加え、機転を利かせる知能もある。
ふと、ある予測が立つ。
(そうか……いや、可能性は高いか? 確かめてみなきゃ)
咲弥は意を決し、崩壊寸前の避難場所から飛び出た。
追ってきたレイガルムが、素早い攻撃を仕掛けてくる。
咲弥は必死に避け、レイガルムの口に木の棒を投げ込む。
花のように開いた口が閉じ、粉々に噛み砕かれた。
(やっぱり、そうか!)
これは、ガルムでも同様だった。
口にした物はなんであれ、噛み砕く習性を持っている。
そのときに、わずかな隙が生まれるようだ。それならば、噛み砕く時間が、少しでも長くかかる物のほうがいい。
小型のガルムですら、岩壁を砕けるのは見て知っていた。
そこまで分析した考えを、咲弥は即座に切り捨てる。
(だめだ……この村には、岩や石より硬い物が少ないんだ)
よくよく思い返せば、村人達が倒れていた場所には武器が落ちていた気がする。あまりの事態に気が動転してしまい、そこまで意識が向けられなかった。
いずれにしろ、取りに戻っている暇などもうない。
何か別の方法がいる。水の紋章術を確実に当るしかない。
一度でも当たりさえすれば、勝機はあるはずだった。
それほどまでに、天使から授かった紋章石の威力は高い。
(何か……何か、ないのか……)
建物の裏、倒壊した残骸の裏――いい物が見当たらない。
何度も回避し続けるのは、さすがに困難を極める。
身を隠せる場所への移動だけでも、かなり精一杯なのだ。
ふと、咲弥はある一つの策が浮かぶ。
それは策と呼べるほどの、高尚なものではなかった。だが今の咲弥には、それ以外にいい方法は何も思い描けない。
どちらにしても、このままでは逃げきれなくなる。
(あそこなら……やるしか、ないんだ……)
咲弥は頭の中で、落ち着いてシミュレートをする。
失敗するわけにはいかない。
一歩でも間違えば、確実に死ぬような綱渡りになる。
「よし……よし! 行くぞ!」
咲弥は覚悟を決め、目的地までの移動を開始する。
なるべく、レイガルムの視界から少し消える道を選んだ。
レイガルムはガルム以上に、とても知能が高い。
自慢の脚を
しかしそれは、咲弥にとっては予想通りの行動だった。
何度も獲物にかわされたら、おそらくストレスが溜まる。
そのストレスこそが、カギになるのだ。
咲弥は空色の紋様を生み、瓦礫の間を縫うように進む。
そしてついに、目的の場所へと
(ここなら……)
そこは道というよりは、建物と建物の隙間なのだが、今は倒壊しており、少しだけ幅が広くなってしまっている。
咲弥の前方に、レイガルムがのっそりと姿を現した。
殺意のこもった目には、明らかな怒りが宿っている。
引き返して逃げるにしても、今度はもう間に合わない。
レイガルムの視界から消える前に、捕らえられてしまう。それはきっと、レイガルムもそう理解しているはずだった。
そして、レイガルムが恐ろしい速さで向かってくる。
すべては、咲弥の予定通りに進んでいた。
ただ、一直線だけの道――
左右に絶対ぶれることがなく、真正面を捉えられる。
「水の紋章、僕に力を!」
紋様が砕け散り、四つの青い渦が虚空に発生する。
渦は回転の速度を増し、破裂音を響かせて水弾を放った。
至近距離にいた、レイガルムの顔面に水弾が激突する。
レイガルムは悲鳴じみた声で、後方へと吹き飛んだ。
かなりきわどい距離だった。あと一秒でも遅れていたら、やられていたのは、おそらく咲弥のほうだったに違いない。
冷や汗が、全身から湧き出る。
紋章石の威力は折り紙付きだが、まだ安心はできない。
咲弥は恐怖や緊張を、声に出して吹き飛ばした。
「まだだ!」
咲弥は叫びながら、再び空色の紋様を瞬時に描いた。
「水の紋章、僕に力を!」
最初で最後のチャンスかもしれない。
二度目の水弾を放つと、再び水弾が命中した。
その直後、さらに続けて三度目の水弾を撃つ。
(当たれ!)
すべてを出し切り、咲弥は天にも祈る気持ちだった。
しかし、レイガルムは予想外の動きを見せる。
片足で瓦礫の一部を蹴り上げ、華麗に上空へと
「んなっ! そん、なっ……!」
三度目の水弾が、レイガルムの真下をすり抜けた。
レイガルムは宙で一回転してから、ゆったりと着地する。
機敏に後退し、悠然と大通りの地面で姿勢を整えた。
そして、怪鳥にも似た威嚇の
(……う、嘘だ……)
信じられない光景に、咲弥は我が目を疑った。
深い絶望が、咲弥の胸をきつく絞めつける。
少なくとも八つの水弾が、命中したはずなのだ。一発でも命中すれば、それで終わるってくれると、そう信じていた。
それでも、安心にはほど遠い。
だからだめ押しのつもりで、すべてを使い切った。
レイガルムはいまだ、平然と息をしている。
それどころか、ダメージを与えた気配がまるでない。
「こんな……こんな、怪物……どうすれば、いいんだ……」
咲弥は心が完全に折れてしまい、戦意を
ただでさえ、理解不能な巨獣の怪物なのだ。
紋章石の力を、あまりにも過信し過ぎていた。
諦めかけた。そのとき――
「風の紋章第一節、疾風の
ロッセの野太い声が聞こえた。
レイガルムを呑み込む形で、激しい風が巻き起こる。
シュッと音が聞こえるたびに、切り裂かれていた。
「ロッセさん!」
「余裕を与えるな! 一気に行け!」
ロッセの号令に、マルニ――村人達が応えた声が響く。
満身創痍の村人達が、瓦礫の上や道などに現れる。
それぞれが、紋章術を唱えた。
「火の紋章第一節、火炎の矢!」
「土の紋章第一節、岩石の槍!」
さまざまな方向から、火の玉が飛んだ。
同時に地を駆ける尖った岩が、レイガルムに襲いかかる。
少し希望が生まれた。だが、咲弥は眉間に力を込める。
ロッセを含め、村人達の攻撃が効いている気配がない。
紋章術に耐性があるとしか、そう思えないほどであった。
村人達に討たれるなら、そのほうがいいに決まっている。
しかし現状、足止め程度にしかなっていない。
(もう……使うしかない……あれを……やるしか……)
天使から与えられた、もう一つの力――
最悪の事態を想定して、咲弥は空色の紋様を宙に描いた。
限界突破の使用時間は、とても短い。
使えば最後、確実に討たなければならなかった。
限界突破で討てなければ、気絶している最中に殺される。
いずれにしろ、このままでは死ぬ未来しか見えなかった。
村人達の猛攻撃を、レイガルムはいまだ耐え忍んでいる。
そんなレイガルムを眺め、咲弥の目がある事実を捉えた。
(あれは……そうか、最初の……それなら……)
咲弥は、あちこちに視線を巡らせた。
そのときだった。
ついに、村人達の攻撃がやむ。
おそらくは、全員オドが尽きてしまったのだろう。
咲弥は静かに声を発した。
「限界突破……!」
紋様が砕け、体中が一気に熱くなった。
視界のすべてが、ゆっくりと流れる世界へと転じる。
柵の一部だったと思われる
そのまま速度を保ち、レイガルムの顔面へと移動する。
レイガルムの殺意に溢れた瞳を見つめ、咲弥は告げた。
「ごめん……でも、お前を野放しにはできないんだ」
咲弥はレイガルムの角を、がっしりと
最初にカウンター攻撃をした
眉間の傷をめがけ、木の杭を突き刺した。
まるでプリンに爪楊枝を刺すように、杭が刺さっていく。
ここで少し、予想外の事態が起こる。
杭を握り締めたせいで、ボキッと折れてしまったのだ。
「げっ……」
もう一定の場所までは、突き刺していた。
咲弥はとっさに思考を切り替え、右の拳に力を込める。
杭の折れたところを、全力で上から殴りつけた。
その瞬間、限界突破の効果が切れる。
空気が震え、破裂じみた音が響き渡った。
レイガルムの顔が、地面に激しく衝突する。
それはまるで、杭打ちされたような姿勢だった。
咲弥は地面に、不格好に落下する。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
肩で息をして、レイガルムをじっと眺める。
レイガルムは、微動だにしない。
まだ息があるような気配もなかった。
「う、うぉおおおおおおおおっ――!」
村人達が一斉に、盛大な雄叫びを上げた。
ほぼ同時に咲弥はその場で倒れ、必死に呼吸を繰り返す。
体中のあらゆる場所から、恐ろしいぐらいの激痛が一気に襲いかかってきた。
肉離れが全身で発生しているかのような痛みのほか、頭が割れそうなほどの痛みが発生し、視界が涙で
二度目の経験だが、今回は前回よりも輪をかけて激しい。
死ぬのではないか――ふと、そんな予感がした。
レイガルムの死に顔が、咲弥の目の前にある。
その光景を最後に、咲弥の意識は闇の中へ溶けていった。
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