第六話 過ごした短い記憶
日が暮れ始め、森の中がいやに薄暗さを増した。
シェイを見失わないよう、咲弥は懸命に追い続ける。
日々の肉体労働のせいか、あまり体が上手く動かない。
シェイは一心不乱に、村の方角を急いでいた。
住んでいる世界――育った環境での差なのかもしれない。シェイをただ追いかけるだけでも、咲弥には精一杯だった。
綺麗な道ならまだしも、森の中は険しい場所が多い。
やはり、距離が少しずつ離されている。
(ん……なんだ。この臭い……)
何かが焦げた臭い。そんな異臭を嗅ぎ取った。
嫌な想像ばかりが、次々と脳裏を巡る。
シェイが途端に、奥のほうにある大樹を右折した。
(くっ、見えない……)
咲弥も大樹まで来たが、もうシェイの姿はどこにもない。
シェイを完全に見失い、大きな不安が胸を圧迫する。
(でも……)
たとえ見失おうとも、シェイの行先は一つしかない。
はやる気持ちを抑え、必死に村を目指した。
不意に、視界の端で黒い影を捉える。
視線を滑らせた瞬間、草むらの中から――
「ガ、ガルムっ?」
「キシュラアァ!」
鳥に似た威嚇の声を放ち、ガルムが飛びかかってくる。
咲弥はとっさに、半身を横へずらした。
かなりきわどかったものの、なんとか回避に成功する。
一体を警戒しつつ、周囲に視線を走らせた。
(一体、だけ……? はぐれか?)
そうであっても、安心はできない。
胸の中に、じわじわとした焦りが広がる。
はぐれが一体しかいないとは限らないのだ。
先を行ったシェイの前にも、現れている可能性が高い。
咲弥の心配をよそに、ガルムがまた飛びかかってきた。
「うわっ!」
地面を転がり、すぐ
咲弥は即座にガルムを向き、木の棒を構える。
かなり反動が酷いため、固有能力は使えない。とはいえ、水の紋章術に頼るのも、今はあまり得策とは思えなかった。
この一週間、農作業のみをしていたわけではない。
試しに連続で何発撃てるのか、どれぐらい時間が経てば、再度扱えるようになるのか、できる限りの確認はしている。
神秘的な力は、想像を遥かにこえて消耗が激しいのだ。
「よし……」
ガルムの特性は、ある程度の把握はしている。
咲弥は立派な樹木を背後に、ガルムを待ち受けた。
一対一であれば、先手よりも後手のほうがいい。
ガルムは頭を垂れ、まるで花のごとく口を開花させる。
(来た……!)
咲弥は全神経を集中して、迫るガルムを注視した。
軽く横にずれ、ガルムの噛みつきを回避する。
想定通り、ガルムはそのまま樹木に
咲弥は木の棒を、大きく振り上げる。
腕の力の入れ具合、安定させるための足の開き方――この一週間、何度も繰り返し農作業で学んできたものであった。
ガルムの背に、咲弥は全力で木の棒を叩き込んだ。
土とは違い、まるで硬いゴムを叩いた感触に近い。
殴られた衝撃に驚いたのか、ガルムは樹木から離れた。
激しく暴れ狂い、ぐるぐると回っている。
あさっての方向へと進み、グシャッと嫌な音が鳴った。
飛び出していた木の根に、自ら喉元を突き刺したのだ。
ガルムはじたばたとしていたが、やがて動きが止まる。
事故に等しいものの、咲弥はひどい罪悪感に襲われた。
殺さなければ、反対に殺されていかもしれない。または、村人に危害を加える可能性だって、充分に考えられる。
はなから殺すしか、それ以外の選択肢などない。
ドラマやアニメ、あるいは漫画や小説など――どこにでも転がっていそうな言葉だ。それはきっと、間違いではない。
現実問題を考慮すれば、確かに正しいと思える。
身を守るためには、仕方がないことでもあるからだ。
実際にその場の体験をして、咲弥は身に染みて理解する。
たとえ正しくとも、粘り気のある嫌な気分は拭えない。
「ごめんね……」
咲弥はガルムに向け、心の中で
後悔や心苦しさも全部、今は切り捨てていくしかない。
すべてが終わったあとで、考えるべきだと結論づけた。
(村へ、急がなきゃ……)
木の棒を持ったまま、咲弥は再び走り出した。
もうじき、夜がやってくる。
かろうじて見える足場を、慎重に駆け抜けた。
森の出入口となる場所――なぜだか、妙に明るい。
それはまるで、夕焼けを思わせる色をしていた。
森を抜け、咲弥は力なく立ち止まる。
(そん、な……)
村のあちこちが、大きな炎で燃え盛っている。
夜が来る前に、村の外ではところどころ火を
おそらくそういった火が、何かに燃え移ったのだろう。
胸の内側から、じわじわと恐怖が湧いてくる。
咲弥は感情をぐっと押し殺し、火を避けつつ進んだ。
「移送班は、まだほかに人がいないか確認しろ!」
村の門番をしていた栗毛の男――マルニが声を飛ばした。
ほどなくして、振り返ったマルニと視線が重なる。
「咲弥! 無事だったか!」
「マルニさん、これは……」
「ガルムの大群が、攻め込んで来やがったんだ! 柵を食い破って、草原側の森の罠も、引っかかりながら来たらしい」
「やっぱり……」
悪い予感が的中して、咲弥は奥歯を噛み締める。
「咲弥、お前も避難所のほうへ行ってくれ。ここは自警団の俺らが、なんとしてでも、絶対に食い止めてみせるから!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「ん? どうした?」
「シェイちゃんを、見ませんでしたか?」
「シェイ……? いや、俺は見てない」
咲弥はまた嫌な予感がした。
素直に避難所へ行く性格だとは思えない。
しかし、マルニの予想は意外なものだった。
「もしかしたら、もう避難所に行ってんのかもしれねぇ」
「そうだと……いいんですが……」
遠くのほうから、男達の雄叫びが飛んだ。
自警団が、ガルムと交戦しているに違いない。
「とりあえず、咲弥も避難所に行け! ここは、任せろ!」
マルニは告げたあと、雄叫びが聞こえたほうへ走った。
咲弥は確認のため、ひとまず避難所に急いだ。
炎に包まれた建物が、次々に倒壊していっている。
安全そうな場所を選び、咲弥は走り続けた。
避難所は防空壕のように、岩をくり抜いて作られている。
もともと村の端にいた咲弥からは、避難所はとても近い。
ほどなくして辿り着き、避難所の扉を叩き鳴らした。
「すみません! 咲弥です!」
「咲弥君……?」
つかの間の沈黙を経て、扉は静かに開かれる。
避難所の中には、女と子供達が身を寄せ合っていた。
扉を開いてくれた女に、咲弥は口早に
「すみません! シェイちゃんは来てますか?」
「シェイ? いいえ、まだよ」
嫌な予感ほど、よく当たる。
まだ村のどこかに、必ずシェイはいる。
「さあ、咲弥君も早く入って」
「ごめんなさい。僕、シェイちゃんを探してきます!」
「さ、咲弥君!」
女の制止を振りきり、咲弥はまた村へと戻っていく。
やはり、見失うべきではなかった。
声を張ってでも、しっかり止めるべきだったのだ。
ガルムの
燃え盛る村の中には、ガルム達の
幸いと言っていいのか、そこに人の姿はなかった。
だがそんな
信じられない光景に、咲弥は目を大きく見開いた。
「う、嘘だ……!」
倒れている村人達のほうへ、力の入らない足で駆け寄る。
一番近くにいたのは、黒髪の門番――フセムであった。
フセムの上半身を、咲弥はそっと揺らす。
「フセムさん! フセムさん!」
「う、ぐ、あぁ……」
まだ息はある。だが、まったく安心はできない。
よく耳を澄ませば、ほかの村人達もうめいていた。
その中の一人に、咲弥の目がとまる。
咲弥は愕然となり、一気に血の気が引いた。
農作業のいろはを教えてくれた青年は、うめきどころか、息をしている気配すらもない。ぐったりと横たわっていた。
彼の横腹の服が、赤黒い血を大量に吸い上げている。
「モウラさん! モウラさんっ!」
声を荒げて確認するが、モウラからの返事はない。
咲弥は途端に、激しい吐き気をもよおした。
腹の部分が重く、何かに圧迫されている感覚を覚える。
(そん、な……なんで……)
しかし、まだわからない。
もっと近くで確認しなければ、諦めきれない心境だった。
咲弥が立とうとした瞬間、フセムに腕を掴まれる。
「咲弥……逃げろ……逃げるんだ……!」
「フセムさん……皆さんが……モウラさんが……」
「レイガルムだ……みんな……殺される……」
「レイ、ガルム……?」
ただでさえ、咲弥は錯乱している。
レイガルムが何か、考える余裕がない。
「うわぁああああああ――っ!」
突然、遠くのほうから叫び声が聞こえた。
まだ幼いその声には、聞き覚えがあった。
「シェイちゃん……フセムさ――」
フセムに事情を伝えようとして、咲弥は気がつく。
一瞬、死んだのではないかと思わされた。
気絶した様子のフセムを眺めてから、またモウラを見る。
目が半開きの状態で、モウラはじっと動かない。
この一週間の記憶が、次々によみがえる。
咲弥は溢れる涙を、腕で拭い捨てた。
(モウラさん……すみません。あとで必ず戻ってきます)
心の中で謝罪してから、咲弥はその場を離れた。
悲鳴が飛んだ場所は、そう遠くない。
目的の場所へは、すぐに辿り着いた。
そこで咲弥は、ショックを受けると同時に目を疑う。
片腕を失ったロッセが、必死の形相でシェイの前にいた。
その二人のほうへ向かう、二体のガルムの姿を捉える。
咲弥は考える余裕もなく、空色の紋様を宙に浮かべた。
「水の紋章、僕に力を!」
紋様が砕け、四つの大きな渦が咲弥の周囲に生まれた。
渦は勢いを増し、破裂音とともに水弾を発射する。
ロッセに噛みつく寸前のところであった。
二体のガルムの腹部を、水弾が激しく衝突する。
「ロッセさん! シェイちゃん!」
「咲弥君……来るな! 戻れ!」
それは、
驚いた咲弥は、びくりと肩を震わせる。
ただならない緊迫した空気が、周囲には漂っていた。
怪鳥を思わせる、気味の悪い遠吠えが耳に入る。
ガルムの威嚇の声よりも、もっと野太いものであった。
黒と赤が混じり合う毛並みをした、一匹の巨獣――高さが二メートルは超える怪物が、奥のほうに悠然と立っている。
その姿はガルムと似てはいるが、まったくの別物だった。
咲弥の足が、がくがくと恐怖で震えだす。
ガルムの比ではないほど、不穏な雰囲気を
(なんだ……あれは……なんなんだ……)
ほんの一瞬、咲弥は現実逃避しかけた。
それほどまでに、恐ろしい空気が場を支配している。
『レイガルムだ……』
フセムの言葉を思いだした。
やや遠くに立つ巨獣が、きっとレイガルムに違いない。
咲弥の恐怖が限界点をこえた、そのときであった。
まるで走馬灯のごとく、村の人達と過ごした記憶が脳裏を駆け抜けていく。
時間的に見れば、たった一週間程度の付き合いでしかない――それでも、村人達はみんな、優しく接してくれた。
よそ者である咲弥を、笑顔で受け入れてくれたのだ。
咲弥はそっと目を閉じ、限界いっぱいの深呼吸をする。
やや遠くに立つレイガルムを、真正面から見据えた。
持っている木の棒を前に構え、戦闘態勢を整える。
「これ以上……もう誰も傷つけさせない!」
咲弥は巨獣を相手に、戦う覚悟を決めた。
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