第五話 シェイの願い
ザクッ――ザクッ――ザクッ――
土を突く音が、本日も不規則に響き渡っていく。
咲弥が村を訪れてから、すでに一週間の時が流れた。
アンカータ村での農耕は、すべて手作業でおこなわれる。
機械があるわけでも、魔法的な神秘があるわけでもない。
村人の話によれば、機械や魔法的なものもあるにはある。ただ莫大な費用がかかるため、手作業に落ち着いたらしい。
そうなった一因は、魔物による被害であった。
あまり畑を広げ過ぎると管理が大変になり、目の届かないところに魔物がやってきて、畑や人などに被害をもたらす。
監視装置や魔物を
その結果、手の届く範囲という結論に
小規模であれば、機械や魔法的な何かを導入するよりも、手作業のほうが利益を生み出せる。幸い、村のすぐ
そんな理由から、咲弥は今日もクワを振り続けていた。
「おぉーい、咲弥ぁー! そろそろ休憩にしようか!」
遠くのほうから、若い男の声が聞こえた。
大きく手を振っているのは、二十歳前後――畑のいろはを教えてくれた、モウラという気の優しそうな青年であった。
咲弥は作業を中断し、手を振り返して応じる。
「はぁいっ! わかりましたぁ!」
軽くクワを支えに使い、額から流れる汗を拭い捨てた。
ロッセから借りた衣服も、汗でぐっしょりと濡れている。
想像以上に、農作業は重労働だった。普段使わない筋力も酷使するため、ここ最近は筋肉痛に悩まされ続けている。
モウラがコップを片手に、傍まで歩み寄ってきた。
「ほい、おつかれさん」
「あ、ありがとうございます」
綺麗な水が入ったコップを、モウラが手渡してきた。
近くの川で汲んだ水が、ここでは飲み水として使われる。
ひんやりと冷たく、喉が
「なかなか、さまになってきたんじゃないか」
「そうですか?」
「最初はへっぴり腰過ぎて、笑っちまったもんだ」
「すみません。こういうの、経験する機会がなかったので」
咲弥は苦笑する。
モウラはにこやかに笑う。
「咲弥さえよかったら、ずっと村にいてくれていいんだぜ。親方も気にいってるみたいだし、俺も楽ができるからなあ」
モウラの誘いは、素直に嬉しく思った。
しかし、そういうわけにもいかない。天使から与えられた使命を、なんとしてでも果たさなければならないからだ。
「そうできれば、よかったんですが……」
「そうだよな……やっぱりいつかは、故郷に帰りたいよな」
「はい。きっと、家族も待ってくれていると思いますから」
「そういえば、咲弥の故郷ってどこにあるんだったか?」
「ここからずっと遠い、海を渡ったところです」
ひとまず、そういうことにしている。
嘘をつくのは心苦しいが、こればかりは仕方がない。
「そっかあ。早く世界を見回って、帰れるといいな」
「はい……!」
不意に、重い鐘の音が鳴る。
村で時刻を知る方法は、この鐘の音が一般的であった。
診療所の老婆に、ある理由から時計を初めて借りたとき、貴重な品なのに加え、主要の場所にしかないと教えられた。
同時に、そこで驚きの事実を知る。こちらの世界も地球と同様、一分は六十秒であり、一日は二十四時間なのだ。
(鐘の音が長く四回……もう午後四時ってことか)
鐘を聞き終え、モウラが大きく背伸びをした。
「さて、そろそろ日も暮れるし、今日これぐらいにしよう」
「え、いいんですか?」
「キリのいいところまで進められたし、続きはまた明日だ」
「はい。わかりました」
モウラは微笑みながら、腕を組んだ。
「暗くなる前に、水浴びでもしてきなよ」
「そうですね。夜は寒いですもんね」
モウラがこくりと
咲弥はロッセから借りた、革製の鞄を拾い上げる。
「それじゃあ、ちょっと行ってきます」
「おう!」
アンカータ村には、風呂というものが存在しない。
森の中にある滝つぼが、村人の風呂代わりとなっている。
最初はひどく驚いたものの、案外慣れるのは早かった。
欲を言えば風呂が恋しいが、贅沢を言える状況でもない。
三十分ほど歩いた頃――滝つぼへと辿り着いた。
どうやら、一番乗りらしい。
咲弥は汗まみれの衣服を脱いでいった。
少し高めの場所から飛び込み、汗や汚れを一気に落とす。
ひんやりとした水の感触を感じながら、水面を目指した。
「ぷはぁ! 気持ちいいなぁ!」
ぷかぷかと水に浮き、咲弥はじっと空を眺める。
ロッセから聞いた話を、咲弥は思いだしていた。
(どれが討つ対象なのか、天使様も教えてくれてたらなぁ)
いまさらもう、聞くことはできない。この世界はすでに、天使の力さえも及ばない領域と化しているそうなのだ。
咲弥は大きなため息を、空へ向かって吐き出した。
少し肌寒くなり、滝つぼから出るために岸へ戻る。
さっと新しい衣服に着替え、近くの岩に腰を下ろした。
鞄から一冊のノートを取り出し、内容に目を通していく。
もう五ページ分は、咲弥が得た情報を書き記してある。
「さて、今日の夜にでも、聞いておくべき情報は何か……」
不意に奥の茂みから、草がこすれ合う音が鳴る。
驚いた咲弥は、その方角を凝視した。
「……誰か、いるんですか?」
「え、あ、咲弥の兄ちゃん?」
まだあどけなさの残る声から、その正体が誰かわかった。
ほっと
「なんだ、シェイ君か。獣か何かかと思ったよ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って、咲弥の兄ちゃん!」
「はは、どうしたん……」
草むらを踏み倒した直後、咲弥は石のように硬直した。
半裸のシェイもまた、顔を赤らめて固まっている。
この一週間――シェイは男の子だと、ずっと思っていた。それは言葉遣いが荒く、行動も男の子みたいだったからだ。
しかも君づけをしていたのに、誰も指摘しなかった。
どう見ても、男の子には見えない。腕で隠されているが、胸に少し
咲弥は
「うゎああああ! ご、ご、ごめん!」
「変態! 咲弥の兄ちゃんのばか!」
「いや、違うんだ! まさか、女の子だったなんて!」
「ばか! 咲弥の兄ちゃん、早くあっち行けよ!」
「ほ、本当に、ごめん!」
咲弥は後ろを振り返り、鞄の置いてある位置まで戻った。
爆発しそうなぐらい、心臓が鼓動を繰り返している。
いつも通りの格好で、シェイが奥から進んできた。
ふんわりとした帽子を深くかぶり、左右に揺らしている。
「まったく信じらんないよ。乙女の脱衣を覗くだなんて」
「だから誤解だって。脱ぎかけとは思わないじゃないか」
「オレはちゃんと、待ってって言っただろ!」
「そうだけど……というか、ずっと男だと思ってたし」
呆れたようなため息をつき、シェイは隣に座ってくる。
「まあ、別に減るもんじゃないし、いいけどさ」
シェイはとても切り替えが早い。
覗いた側の咲弥は、いまだ心臓がはち切れそうなぐらい、ドキドキとしている。鼻の下に、何か妙な違和感があった。
(嘘だ……まさか……)
鼻血を出しているのではと思い、何度も拭って確認する。
いろいろな意味で冷え込み、鼻水が出ているだけだった。
「あ、ちょうどいいや」
シェイが両手をぽんと合わせた。
「あのさ、咲弥の兄ちゃん。ちょっとお願いがあるんだ」
「ん? 何かな?」
「ほんと、真面目な話なんだけどさ……いいかな?」
ただならない様子に、咲弥も自然と頭を切り替える。
「うん。どうしたの?」
「あのさ……」
そこで、シェイは黙ってしまった。
咲弥は小首を傾げ、シェイの言葉を待つ。
「咲弥の兄ちゃんの水の紋章石……譲ってくれないかな?」
「……え?」
「この村に来て、見て、わかったでしょ? この村、本当に貧乏なんだ」
どう返していいのかわからず、今度は咲弥が黙った。
「最近、魔物が活発化してるって、大人達が話してるんだ」
「確かに、そんな話をしてたね」
「近隣にいるような……ガルム数匹程度ならさ、大人達でも問題なく倒せると思うんだよね。でもさ……でもさ……」
シェイは膝の辺りで、小さな手を丸くした。
「数が多くなれば、きっと被害がたくさん出る」
シェイの目に涙が溜まる。
「ロッセのじいさんさ、昔はもっとごつい感じだったんだ。でも、魔物の話が出た頃から、少しずつやつれていっててさ……きっと、無理してんだよね」
ロッセに出会ったばかりの頃の記憶が、ふとよみがえる。
大柄なわりに、かなりやつれている印象を覚えた。
シェイが雑に、腕で涙を拭い捨てる。
「たとえ、貧乏でもなんでもさ……オレはこの村が好きだ。村のみんながとても大切なんだ。金があればきっと、みんないつも通りでいられると思うんだ」
「……うん」
「だからさ、兄ちゃん。頼むよ。あの水の紋章石を、オレに譲ってほしいんだ。それを売れば……信じられないぐらいの大金が手に入る……だから」
考える余地もなく、咲弥は答えを伝える。
「うん、別にいいよ。でもさ、僕の紋様にもう宿しちゃったわけなんだけど……あれって、簡単に外せるもんなの?」
シェイが、信じられないものを見る目をした。
「いいの? 本当に? だってあれ、たぶん特級品だぞ?」
「うん。それで、この村の人達が救われるんでしょ?」
「そ、そうだけど……」
「だったら、そうすればいいよ」
「いやいやっ!」
シェイは首を大きく横に振った。
「もう二度と、手に入らないかもしれないんだぞ?」
とても変な話に思えてくる。お願いをしてきた張本人が、今度は自らの願いを、必死に止めにかかっているのだ。
その不思議なやり取りは、少し笑いを込み上げさせた。
「あはははっ。いったい、どうしたいのさ」
「だって……だってさ……」
シェイは顔を伏せ、ズボンをきゅっと握り締めた。
今にも泣きそうな顔を見て、咲弥は優しい声で伝える。
「村の人達が危険な目に
シェイの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
しかしその顔は、悲しみではなく笑顔であった。
「うん、ありがとう。本当に、ありがとう」
「それで、どうやったら紋章石を外せるの?」
「えっとね……」
また涙を拭い捨て、シェイが言葉を発した――
その瞬間、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。
不安をかきたてる鐘の音は、徐々に強さを増す。
「……なんだ、この音? 聞いたことのない音だ」
「これ、
シェイは
「シェ、シェイちゃん! 警報って……」
咲弥の呼び止めも聞かず、シェイはどんどん進んでいく。
咲弥も慌てて鞄を拾い、シェイの後を追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます