第一話 新たな世界へ
とても柔らかな風が、咲弥の体をすり抜けていく。
ゆっくり
瑞々しい草木の葉が、眩しく陽光を跳ね返している。
絵画として描かれそうな、雰囲気のある草原のようだ。
ここが本当に別世界なのか、少し半信半疑になる。きっともとの世界でも、似たような場所はどこかにある気がした。
大空から太陽が照りつけ、ほんのり温かさを与えてくる。
風が草花の香りを運び、咲弥の
(僕は……生きてる?)
咲弥は自分の手のひらを見つめ、心の中でそう
紺色のブレザーの袖を見て、ふと気づく。天使と対面した頃から、着ている学生服以外の物がどこにも見当たらない。
おそらく雷に打たれた場所に、落としたままなのだろう。
財布や携帯は、持ってきたところで使えるとは思えない。だが、せめて鞄ぐらいは、こちらへ持ってきて欲しかった。
気分の問題なのだが、手ぶらでは妙に落ち着かない。
「はぁ……はぁあ……」
気持ちを入れ替えるため、ため息まじりの深呼吸をする。
そのあとで、ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
綺麗な青い玉を取り出して、なかば呆然と見つめ続ける。
神秘的なぐらい透明感のある玉は、天使からおまけとして手渡された物だった。この玉が、今は唯一の所持品となる。
3Dクリスタルのように、中には模様が刻印されていた。
何かの紋章か、または文字なのか、咲弥にはわからない。
しばらく眺めてから、青い玉をポケットに戻しておいた。
天使から与えられたのは、物以外であればまだある。
咲弥は胸の辺りまで、右手を引き寄せた。
少し意識して、右手にぐっと力を込める。
淡く光る不思議な模様が、瞬間的に虚空へ描かれていく。
(ほんと凄いや……これが、紋様……どんな原理なんだろ)
天使いわく、紋様と呼ばれる不思議な模様が、特殊な力を扱うすべての基盤となる。また紋様の色と形は、人によってそれぞれ異なるらしい。
本来であれば、厳しい鍛錬が必要なのだとも聞かされた。
方法はわからないが、その過程を天使は省いたのだろう。
(そういえば……)
咲弥はぼんやりと、天使の説明を一から振りかえった。
だがやはり、説明された覚えがない。
(この世界の人は、どんな姿をしてるんだろ……?)
人と判断できる容姿をしているのか、あるいは怪物としか思えない容姿をしているのか――そもそも見た目からでは、生物とすら認識できない可能性も浮く。
別の世界なのだから、見当がつくはずもない。
(うぅ……なんだか、怖いな……)
ぶるっと肩を震わせて、きょろきょろと周囲を観察した。
立派な樹木がまばらに生えている草原は、緩やかな傾斜が目立つが、崖を彷彿とさせるほどに切り立った場所もある。
自然に満ちた場所には、人工物的な代物はどこにもない。
自分以外の生物も、この辺りには――
「ん……なんだ、あれ……犬?」
やや遠くから、五匹の犬っぽい生物が向かってきている。
徐々に近づくにつれ、咲弥に緊張が走った。一瞬、逃げの姿勢を取ったが、あまり下手に動くのはよくない気がする。
野生であれば、背を見せるのは危険だと知っているのだ。
(うわぁ……なんだ、なんだ……)
あっという間に、五体の生物が目の前にまでやってきた。
黒い毛並みに、光沢のある黒い角が二本生えている。
どの個体も、中型犬程度の大きさがあった。
まさかとは思いつつも、しかしありえない話でもない。
「……あの、もしかして……この付近の方々ですか?」
咲弥は一歩一歩、ゆっくり後退しながら尋ねた。
目の前の生物は、一様にグルルルと喉を
見慣れない者を見て、警戒しているのかもしれない。
「お、落ち着いてください……道に迷って……その……」
恐る恐る、声を
ネチャリと、粘着物を剥がすかのような音が鳴る。
犬に似た生物の口先が、まるで花みたいに開花したのだ。
花弁にあたる部分には、無数の小さな突起物――歯と牙が生えている。
これまで見た記憶のない、明らかな地球外生命体だった。
ここが本当に別の世界なのだと、咲弥は一気に実感する。
目の前の生物が、怪鳥みたいな奇妙な鳴き声を放った。
「キシュラアアアァー!」
全身に電流にも似た何かが駆け抜ける。
「いやいや! いったいなんだ! 無理無理っ! ひぃっ」
咲弥は一目散に逃げだした。
想像していた生物ではない。明らかに怪物の
荒々しい威嚇の声が、後方から何度も飛んでくる。
ほどなくして、咲弥の前に岩壁が立ちはだかった。
逃げ場のない場所へと、追い込まれたのだと理解する。
咲弥を逃すまいと、怪物達が素早く取り囲んでいった。
咲弥はものの数秒で、完全に退路を断たれる。
(やばいやばい! こいつら、もの凄く賢い!)
岩壁に背をあずけて、怪物達の動向を探った。それぞれが役割を把握しており、獲物を追い詰めるだけの知能がある。
絶体絶命の状況の中で、天使の言葉が脳裏をよぎった。
『おまけのほうですが、回数には余裕がありますので――』
(えっと、えっと! 確か、右手を前にして……)
咲弥は透明感のある紋様を宙に描き、声高らかに唱える。
「水の紋章、僕に力を――!」
ただ深い沈黙が、場を支配する。
数秒経っても、何も変化は起きない。
十数秒待つが、風の吹く音と怪物の唸り声しかなかった。
「なんでなんでなんでぇえええっ?」
痺れを切らしたのか、怪物が一斉に飛びかかってくる。
花の口を大きく開き、噛みつこうとしていた。
「ひぃいいいいっ!」
咲弥はとっさに身を屈め、背後の岩壁を強く蹴りつけた。
その反動で前に飛び出し、転がりながら回避する。
後ろのほうから、衝突音がいくつか鳴った。
奇跡的に避けられ、素早く肩越しに背後に目を向ける。
吸盤のついた矢のごとく、怪物が岩壁にくっついていた。
ひどく
思いのほか、怪物達の攻撃は直線的なものだと知った。
逃げ切るための参考になる。
(今のうちに……)
ゴシャッと、不穏な音が鳴る。
まるで豆腐のように、岩壁がたやすく
咲弥は尻餅をつき、ずるずると後ろへと下がる。
恐ろしい破壊力に、腰が抜けて立てなくなった。
「あわわ……あわわ、あわわわわわっ!」
咲弥のほうを、怪物達がゆっくりと振り返った。
その金色の瞳には、殺意が満ちている。
緊迫した状況下、再び天使の言葉が脳裏によみがえった。
『今のあなたでは、計り知れないほどの苦痛が――』
(天使様から与えられた、僕の固有能力……)
与えられておきながら固有とは、なんとも不思議な話ではあるのだが、この世に二つとない力だと天使から教わった。
この世では誰しもが、必ず特殊な力を一つ秘めている。
厳しい訓練の果てに――紋様を媒体とすることで初めて、己の中で眠っている固有能力が扱えるようになるのだ。
(いったい……どんな苦痛が……)
考える暇もなく、怪物達が連携して向かってきた。
どんな反動がくるのか、何も聞かされていない。
しかし今は、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。
ためらっている場合でもない。
咲弥は慌てて、右手を前へと突き伸ばした。
淡く輝いた紋様を、焼き印のごとく宙に浮かべる。
「げ、限界突破! 発動してくれぇえええ!」
まるでガラスを割ったように、紋様が盛大に砕け散った。
体中が一気に熱くなり、全身に力がみなぎってくる。
怪物達の噛みつきを、すんでのところで横に回避した。
「……えっ?」
奇妙な浮遊感を覚え、咲弥はふと思考が停止する。
それはまるで、力強い風に吹き飛ばされた感覚に等しい。地についた足が、地面をガリガリと音を立てて削っていく。
止まったときには、一番端にいたはずの怪物が傍にいた。
そこで、咲弥は気がついた。自分を除くすべてのものが、まるでスローモーションみたいに、ゆっくりと動いている。
(なん……だ、これ……)
現状を把握したが、理解は何一つとしてできなかった。
なんにしても、怪物が傍にいるのは気味が悪い。
咲弥は地を踏み締め、まだ滞空中の怪物の一匹――できる限り遠くに離そうと、横腹を手で少しだけ押し退けてみる。
ただ、それだけのはずであった。
手は空を裂き、怪物の横腹へと深く減り込んでいく。
一瞬、その手触りから、たわしを連想する。
怪物の毛質が、想像以上に硬かったからだ。
限界突破の効果が切れたのか――スローモーションから、普段のものへ視界が戻る。咲弥を激しい風圧が襲いかかる。
触れたことによる衝撃は空気をも震わせ、破裂に近い音を鳴らす。それはもはや、
咲弥が触れた怪物の一匹が、ほかの怪物へと突っ込んだ。
その二体もまた、連鎖的に別の怪物へと衝突する。
精密とも言える連携が、怪物達の
すべての怪物達が、遠くのほうへと吹き飛んだ。
それから重い音を立てて、ぼとっと草地に落ちていく。
じっと様子をうかがうが、動く気配は見られなかった。
気絶、あるいは死んだのか、遠くからでは判断できない。
死んだのなら――とても複雑な気分だった。襲われたのは事実だが、さすがに殺すまではやり過ぎだと感じられる。
こちらの世界のことは、まだ何も知らない。
見た目や行動から、咲弥が勝手に怪物と断定しただけで、怪物のほうからすれば、じゃれていただけの可能性もある。
(……ごめん、よ……い――っ?)
咲弥の体中に、尋常ではないほどの痛みが途端に生じる。
肉離れに近い感覚が、あらゆる場所から発生しだした。
「いったぁっああああっ……!」
咲弥は豪快に、前に倒れ込んだ。
おぞましい激痛が、どんどんと強さを増していく。
いっさい動けず、丸まることすらもできない。
強烈な頭痛も始まり、視界が涙で
天使の言葉を、今さらながらに身をもって実感した。
(そりゃ、そうだ……こんなの、僕の力なんかじゃない)
薄れる意識の中で、不意に何かが聞こえた気がする。
それは足音なのか、頭痛の音なのか――
(……なんだ……さっきの……)
必死に動こうとするが、視線すらままならない。
「ぐ、ぐが……ぐぐぅ……あがっ……」
「だ、大丈夫か……坊や……」
野太い男の声を境に、咲弥の意識は闇の中へと落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます