第5話
クリスマスの日から学校は冬休みに入って、ユリカとは会わなくなった。
空き地ヘ行ってみよう。何度か思い立ったけど、彼女のあの壊れてしまいそうな眼と、そのすぐそばで立ち尽くす僕をそのたびに思い出して、また部屋のドアをそっと閉じるのだった。
大人になったら、悲しんでいる人になぐさめの一つくらい簡単に言えるようになるのだろうか。涙と傷を拭うための理由を差し伸べてあげられるのだろうか。もっと前に、涙なんて流さなくていいようにしてやれるのだろうか。クリスマスの日に枕もとに置かれていたマンガを読む気にもなれなくて、することのない日々を、そんな絵空事の未来で塗りつぶしていった。
僕が彼女の母親の死を告げられたのは、冬休みが明けた金曜日のことだった。
教室の中では先月までと変わらずに俯きながら過ごしていたから、彼女の心の傷跡がどれくらい癒えたのか、それともよりいっそう深くまで胸を締め付けているのか、僕には分からなかった。ただ一つ確かなのは、彼女の母親の容体など、喜びしかまだ知らないようにはしゃいでいるクラスメイトはこれっぽちも気にかけないという、いたって当然のことだけ。
冬休み明けの短縮授業で、学校は昼前に終わった。窓際の一番後ろの席を振り返ると、彼女はもうそこにいなかった。焦る心が、時計の秒針を遅らせる。チャイムが鳴りやまないうちにランドセルを背負って、その後ろ姿を追いかけた。
タイル張りの廊下。冷えきった階段。開けっ放しの、まだ誰もいない昇降口。外に出たとたんに現れたどんよりと分厚い曇り空と、丸裸の木々に吹きつける北風。
すべてがもどかしくて、僕の人生の最大瞬間風速で走った。
何度も足がもつれそうになったけど、校門を出てすぐの横断歩道で、ようやく追いついた。息を切らした僕に、彼女が振り向いた。
そして、驚きと嬉しさと、いつも通りの寂しさのこもった表情で揺らぎながら僕の目を見ていた。
言葉をどこかに置き忘れたかのように、僕らはずっと無言で。風の強さと道路を時折行き交う車の走行音がなければ、時間が経ったことにすら気づかないほどに。
青信号を何度も行きそびれて、下校する生徒たちの笑い声が近づいてきて、それでやっとどちらともなく歩きはじめた。人ごみにのまれないよう、早足で人気のない街角を通り過ぎる。
そういえば、二人で並んで歩くのは初めてかもしれない。彼女の住む家はどこにあるのだろう。今向かっているのはいつもの空き地の方角だから、ひょっとしたら僕の家のすぐ近所なのだろうか。
考えていると、もう目の前にすっかりお馴染みになった風景があった。
彼女はそれで安心したのか、ほんの僅かに表情を和ませて、しかしすぐにまたもとに戻って、おもむろに口を開いた。
「クリスマスにさ、あの人、死んじゃったんだよね」
震える声。その声で告げられた事実は、あまりにも痛々しかった。たとえ彼女が、今の母親を母親として認めていなかったとしても、これで彼女は2回も家族を亡くしたことになるのだ。
「そうなんだ…」
相変わらず僕は気の抜けた返事しか言えなかった。彼女の置かれた苦しみを一緒に受け止められるほど、僕は強くはないから。
「あ、それでね、お父さんがクリスマスのプレゼントくれたの」
凍える空気をそっと溶かそうと、彼女はさっきまでとは真逆な明るい声で言って、ジャンバーのポケットを探しはじめた。
取り出したのは、薄桃色の小さなポシェット。
「これ、すごい可愛くない?」
「あ、うん」
「渡されたときほんとに嬉しくて、ちょっとだけはしゃいじゃって。それでお父さんも嬉しそうになったから、よかったなって」
手に持ったポシェットをぎゅっと抱きしめて、嘘偽りなど微塵もない笑みを浮かべていた。だけど僕には悲しかった。こんな小さな贈り物でも喜べてしまう彼女の境遇が。そんなことを考えてしまって喜びを素直に分かち合えない僕の心が。
ぎこちなく笑う僕は、ユリカの眼にどう映るのだろう。薄い雲の混じった空にまで、見下ろされている気がした。
そのあとも僕は、ポシェットを大事に抱えている彼女の話に、曖昧に相槌を打つ。あの魔法使いの手紙を見てから、なぜだかうまく話せないのだ。取り繕いながら、戸惑いながら、それでも彼女との会話は続いていて。前みたいに先生への文句やニュースに出ていた知らない国のこともつぶやいては、混じりけのない表情を見せてくれた。
そして、いつしか話題は最近近くにできたベーカリーの話に移っていた。聞けば、彼女の生みの母親の昔なじみの人が移住してきて、こんどの週末にオープンするらしい。
「今週の日曜日、行ってみない?」
僕の目をのぞき込んで、とっておきという風に誘う。いきなりだったので、少したじろいだ。
こちらを見つめる仕草から、彼女が心待ちにしているのが伝わる。行きたい、とは思った。しかし、その日はめずらしく用事があったのだ。
「ごめん、その日親と携帯買いに行くことになってて行けない」
僕たちのひなびた街には、携帯電話会社がない。さらに、この街は周りを全部深い山が囲っていて、隣町まで行くのも時間がかかる。
「そうなんだ、予定あるなら無理しなくていいよ」
「土曜日なら行けるよ」
「えっとね、土曜は私のお父さんの親戚と会わなきゃいけないっぽくて」
「あー、なんかごめん。いつもは日曜は暇なんだけど。」
多分使うことも今のところはないであろう携帯を買わせる母親を、ちょっとだけ恨んだ。
「大丈夫だよ。じゃあ、また来週にしよっか。携帯電話買ってもらえるんだ。私もほしいな」
そう言って、ポシェットを仕舞いこむ。見上げた空は、気の早い冬の夕暮れが音も立てずに覆い隠していた。街灯もまばらだから、暗くなる前にはここを去らなきゃいけない。
「じゃあ、また来週ね」
名残惜しそうに手を振って、ユリカは家路につく。
彼女の影が薄闇に消えてから、僕も歩き出す。物思いに沈んでいると、その速度も自然とゆるやかになる。心の片隅で、次の週が来るのを今か今かと待つ僕が、夕方が来たのを安堵している僕を何回も𠮟っては、弾んでいた彼女の瞳を思い返していた。
けれど、そのベーカリーに行ける日が訪れることはなかった。
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