第4話

 「まっくろな服の、魔法使いの夢だったの」

 おそるおそる、ユリカは語りだす。言葉のひとつひとつが、怯えを纏っているのが僕の目にも伝わった。

 「私がどこか知らない街の交差点にいたら、いきなり魔法使いの格好をした人が近づいて来て。じっと私のこと見てきたから怖くなって後ずさりしようとしたら、ぼろぼろの紙を渡してきて。それで驚いて、眼をあけたら朝になってたけど、」

 彼女の右手には、何百年も前から使われていそうな、虫食い跡と黄ばんだ染みだらけの紙。そこには、掠れかけのひどいくせ字で、こう書いてあった。

 『貴女が望むことを、どんなものでも叶えてやりましょう。

 ただし、条件があります。それは』

 そこから先は読みとれなかった。

 それにしても、どうして夢の中で渡された紙が現実にそのまま現れたのだろう。夢に出てきたという魔法使いの力だろうか。だとしたら、目の前の古めかしい紙がいっそうえたいの知れないものに思えてくる。

 「これって、本当だと思う?」

 戸惑った瞳で、僕に問いかける。

 今日はめずらしく車通りの多い日で、空き地のすぐ横をトラックが唸り声を上げて通り過ぎたすぐあとに、どこからか救急車のサイレンが聞こえた。

 「うーん、信じるか信じないかって言われたら信じないと思うけど…」

 「そうだよね…願いが叶うっていうのはちょっとだけいいかもって思ったりしたけど、さすがに本当に叶ったらそれはそれで怖いよね」

 少しだけ安心したのか、彼女の声はいつもの柔らかな声色に戻っていた。右手のその紙を、きっかり半分に折りたたんでスカートのポケットに仕舞い込む。

 「マサトくんは、もし叶うんだったらどんな願い事する?」

 おもむろにユリカが切り出した。

 初めて話した日から何日かは僕のことを苗字で呼んでいたけれど、一週間も経つと下の名前で呼ぶようになっていた。一方僕はというと、彼女が名前で呼んでくれるのに苗字で呼ぶのも躊躇ってしまうし、かと言って下の名前もなんとなく気が引けてしまうから、結局未だにちゃんと彼女のことを呼べていない。

 もしかしたら、彼女は教室では話す友達がいなかったからずっと口を噤んでいただけであって、本当はとても人懐っこい性格なのかもしれない。放課後に一緒に過ごすようになって、些細なことでも微笑むのを見るたびに何度もそう思った。

 「願い事かー、あんまり考えたことなかったなぁ」

 もちろん欲しいものがないわけじゃないけど、聞かれるとすぐには出てこなかった。

 「そっちは、どう?」

 聞き返す。

 「私はあの夢を見たあとだったから、今日の朝に色々考えてたんだけど、もうすぐクリスマスだからプレゼントとかもらいたいなーって」

 「そっか。あと一週間くらいだよね」

 目前に迫ってきたクリスマスの気配は、僕たちもひしひしと感じていた。夜になるといくつかの家は色とりどりのイルミネーションで薄闇を彩り、教室では何人かがサンタクロースに貰うのだというゲームソフトの話題で持ちきりだった。

 「私、クリスマスにプレゼント貰ったことないんだよね」

 「え、そうなの?」

 「うん」

 少し驚いたあとで、彼女の家庭が複雑な事情を抱えていることを思い出す。こうやってふつうの子供と変わらぬように振る舞っているから忘れてしまいそうになるけど、時にはナイフを手に掴んでしまうほどのぎりぎりの場所に立ちながら今までの時間を懸命に生きてきたのだろう。

 「お母さんがいた頃はもしかしたらくれたのかも知れないけど、あの人が来てからはクリスマスじゃなくてもあんまり買ってくれたりとかはしないし。まあ、もういつものことだから大丈夫なんだけどね」

 気丈なそぶりで彼女は言った。

 あの人、とはユリカの父親の今の妻だ。彼女が四歳のときに母親が病気で亡くなって、その半年後に再婚したらしい。だから、彼女の今の母親ということでもあるのだけれど、彼女はいまだにそうは思えていない。“あの人”は、娘のことを顧みることもせず、自分の服と遊びのために父親の稼いだお金をほとんど使い果たしてしまうのだ。そのうえ父親は妻に頭が上がらず、ずっと言われるがままになっているから、ユリカに全部のしわ寄せが来るのを見て見ぬふりをしている。そのせいで、例えばユリカの着ている服は、いつも同じような地味な色をしていた。それでも、少なくとも僕の前では気にしてないかのようだったけれど、"あの人"のことを語るときだけはどうしようもなくその瞳が曇っていた。

 「そっかそっか。あの夢のおかげでプレゼントが届くかもしれないのか。楽しみにしとこっと」

 僕が思いを巡らせている間に、彼女はふだんの瞳の色に戻っていた。

 「え、でもなんか条件があるみたいだし・・・」

 「大丈夫でしょ。きっとそんなに難しいものじゃないよ」

 冗談めかして笑っていた。


 そのすぐ次の日だった。学校に、ユリカの姿はなかった。それまではどれほど周りから遠ざけられようと、欠席することはなかったのに。

 その日は誰の声も耳に入らずに時間がたった。胸の中心が、いくつもの渦でざわめいていた。

 下校のチャイムが鳴ると一目散に教室を飛び出した。彼女の住む家の場所を知らなかったからどんなに早く走っても行く当てもなかったけど、衝動の赴くままに冬の街路を空き地まで駆けた。

 ユリカは、空き地の片隅の蓄音機のそばで蹲っていた。あの日ナイフを捨てたのとほとんど同じ場所だった。

 僕が駆け寄る。それに気づいて、彼女は顔を上げた。今にも泣き出しそうな、蒼ざめた顔。初めて僕に見せる表情だった。

 心配して声をかけた僕に、ユリカは打ち明けた。

 昨日、ユリカの今の母親―“あの人”と彼女は呼んでいた―が、家の庭で怪我をして、頭を強かに打ち、入院している今も意識がないのだという。

 「私のせいだ」

 声を震わせて、何回もそう微かに呟いていた。

 あれほど彼女の日々を深い翳で覆った、まさにその人なのに。どうして彼女に責任なんてあるというのだろうと、そのときは思っていた。

 再び眼を伏せて塞ぎ込んでしまった彼女に、僕は手を差し伸べられなかった。彼女の痛みを分かち合うことなどできないと、現実に突きつけられたから。優しさという言葉の本当の意味を、取り違えていたから。


 そして一週間後のクリスマスの日。黒ずくめの魔法使いとの約束は果たされた。

 ユリカの母親の命を、同時に奪って。

 

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