第3話

 次の日。目を覚ますと、いつも通りの朝が来ていた。

 チャイムが鳴りやむぎりぎりに教室に着いて、また息を潜める日常が始まった。

 授業と給食と掃除を何事もなくやり過ごして、ようやく時計の針が午後三時半を指す。

 帰り際に、一瞬だけユリカの方を振り返る。窓際のいちばん後ろの席にいる彼女の様子は、クラスメイトの色とりどりの服と笑顔に隠れて、よく見えなかった。

 向かい風の吹く帰り道を歩いて、自分の心拍を耳にする。心の奥深くが締め付けられるようで。それでも、アスファルトに映る陽は僅かに暖かい。自分自身がよく分からないま、足取りは昨日と同じ場所を目指していた。

 ありふれた住宅街の外れの、灰色の景色。その真ん中に、彼女がいた。

 「昨日のこと、ありがとう」

 か細いけれど、ちゃんと僕の胸に届く声。昨日より少しだけほっとしたような柔らかい表情で、彼女は言った。

 こういうときに、何と返せばいいのだろう。僕は曖昧に頷いたそのあとで、その眼をまっすぐに見れなくて、俯いてしまう。

 そしたら。

 僕の足元に、クローバーがあった。それも、四つの葉をちゃんと携えて。あの日、彼女がずっと探していたものだ。

 あ、と思わず声が出た。

 「どうしたの?」

 「ほら、クローバー。四つ葉の」

 足元を指差す。

 「え、ほんと?どこどこ?」

 まるでふだんの寂しそうな表情とは別人のように、彼女は目を輝かせて探しはじめた。

 なかなか見つからなかったから、僕はそっとしゃがんでクローバーを摘んだ。みどり色の葉が一つでも欠けてしまわないように、ゆっくりと手のひらに乗せて彼女に見せた。

 「ほんとだ!ちゃんと四つある!」

 そう言って、僕の手に乗ったクローバーに触れる。春の光のような体温が、僕の手にも伝わった。

 時間が経つのもも忘れて、二人で四つの葉を眺めていた。彼女の眼は、その一つ一つを隅々まで焼きつけるようにして。僕らのそばを猫一匹とて通らないから、ここはずっと無音で。くすんだ街角から閉ざされた澄んだ空気が、僕らを包みこむ。世界でいちばん綺麗な時間だと、そう思った。

 「四つ葉のクローバーって、人間の足で踏まれて出来たって知ってる?」

 ふいに彼女が尋ねる。

 「そうなの?」

 四つ葉のクローバーがどうやって出来るのかなんて、考えたこともなかった。

 「私のお母さんが教えてくれたんだけどね、」

 どきりとした。なぜなら、ユリカの母親はまだ彼女が小さいときに病気で亡くなったのだと、知っていたから。ちっぽけな街だから、そのことはクラスのほとんどみんな知っていた。僕もそのうちの誰かの話しているのを聞いて、それを覚えていたのだろう。

 「クローバーってほんとは葉っぱは三つしかないんだけど、まだ大きくなってないときに靴とかに踏まれちゃうと、一つだった葉っぱがふたつに分かれて、四つ葉になっちゃうんだって」

 過ぎ去った思い出を語りながら、彼女は遠い眼をしていて、それでも、悲しみは見せなかった。

 「でも、四つ葉のクローバーって幸せのしるしなんだって。だから、誰かに踏みつけられるような苦しいことがあっても、我慢していればきっといつか幸せになれるからって、お母さんが教えてくれた」

 語り終えて、彼女の瞳に芽生えた色を何と呼べばいいのだろう。母親が亡くなってから訪れていたであろうさまざまな想い。それらをすべて受け止めた人にしかできない表情だった。

 「そうなんだ」

 僕は素っ気ない返事しか出来なかった。心の中は、言葉にできない気持ちであふれだしそうなのに。

 「ごめんね、変な話して。クローバー見て、つい思い出しちゃって」

 そんな僕に気を遣ってくれたのか、彼女は申し訳なさそうに言った。僕の方がいたたまれなくなってしまう。そんな顔をしなくたっていいのに。

 「いや、そんなことないよ。すごい素敵な話だなって思った」

 「本当?ありがとう」

 そう言って彼女はこちらをちゃんと見てくれるのに、僕はそれができない。僕が持っていないもの、失くしてしまったものを、全部彼女は大事に抱えている。そんな気がした。

 「これ、持ってていいよ」

 手のひらにある幸せのシンボルを、彼女へそっと渡した。

 「いいの?ありがとう」

 指先でやさしく葉を持って、とたんに彼女の顔がほころんだ。

 手に残った温もりが消えないように、僕も微笑んだ。


 それから、僕とユリカは放課後になると毎日その空き地へ向かうようになった。そして、たくさんのことを話した。学校や先生の愚痴のようなとりとめのない話から、時には僕たちの未来とか、僕には広すぎて想像もつかないような話まで。

 世界の仕組みとかは何も分からないけど、幸せになりたい。彼女はそう言って微笑んだ。

 そうなってほしい、と心から願った。

 

 そんなささやかな日々が変わりはじめたのは、クリスマスの近づいてきた一段と寒い日だった。

 不思議な夢を見たの。

 ユリカはいつになく、こわばった声で告げた。

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