第2話 回想
十年前の冬の日。ユリカは、自由を知らなかった。
だから、いつだって寂しい眼をしていた。
彼女の家庭が問題を抱えていることは、クラスメイトたちはみんな何となく知っていた。例えば、席替えで思い思いの場所に座るとき。体育の授業で二人組をつくるとき。彼女はあからさまなほどにクラスの輪の中から遠ざけられていた。彼女もそれを痛いくらいに分かっていたから、教室ではいつも息を殺すようにして机に顔を伏せ、午後三時半のチャイムをじっと待っていた。
僕とユリカがはじめて言葉を交わしたのは、家の近くにある、誰にも見向きもされない空き地でのことだった。
来年からは中学生なんだから、もっとしっかりしろよと言う先生の声を掻き消して、下校を告げるチャイムが鳴った。賑やかな教室を、振り向きもせず僕は後にする。
頭のどこかで、またいつもの気だるさが渦巻いた。朝起きて、学校へ行き、帰り、部屋のベットに寝そべって、しばらくして眠る。繰り返す日常に潜む退屈を吐き出すあてもなく、一人歩道を歩く。僕も、友達はあまりいなかった。
裏通りに入って、古いテレビや蓄音器が捨てられた空き地を横切る。あと少しで、僕の家の赤い屋根が見えるはず。
そのときだった。顔を上げた僕の視界に、一人の少女が倒れていた。
傍らには、鈍い光を放つナイフ。
思わず、僕は駆けだしていた。屈みこんでそばで見ると、眼を閉じた少女の左腕には、鮮やかな赤が滴っていた。出血しているのだと分かって、急いでポケットからハンカチを取り出そうとした。しかし、指が凍りついたみたいに動かない。しまいにはハンカチを地面に落としてしまった。
そのうちに、少女の小さな眼が見開いた。
視線が合う。
「あ、、、篠目さん、、、」
北風に吹いて飛ばされてしまいそうなか細い声。
それが、ユリカの声を聴いた最初だった。
死にたくなっちゃって。
落ちていたナイフをそっと拾って、ユリカは呟いた。まるで、遊園地に行きたいとか、ピアノを弾きたいとか、そんなありふれた願いであるかのように。
あまりにそれが痛々しくて、彼女の方を見れなくて、目の前の風景を見渡した。いつもはすぐに通り過ぎてゆけるこの場所が、今はなんだか果てしなく広くて心細い。
彼女の腕の傷は幸運にも深くなくて、ハンカチを使わずとも血は止まった。そのあと僕たちは、何も言わずにただ隣り合って座った。どうやって話せばいいか分からないし、そもそもさっきの言葉に言い返していいのかすら知らなかった。それでも、どうしてだか去ろうとは思わなかった。思えなかった。
一か月前の遠足での出来事を思い出す。余りものどうしの僕とユリカは、先生によってもともとできていた四人のグループに押し込まれた。それで彼女は僕の名前を知っていたのだろう。
当日、予想していた通りに、僕らは気にも留められなかった。彼らが広場の中心で缶けりや泥警をしているのに、僕とユリカはその片隅で黙りこくって蹲るようにしていた。仕方ない。そう言い聞かせながら。
少しして、喉が渇いたから水筒を置いた木陰に戻ろうと、僕は立ち上がった。とぼとぼと向かう途中で、ユリカの前を通り過ぎた。彼女は顔を俯かせて、白詰草の生えたあたりで何かを縋るように探していた。
水をひとくち飲んで、彼女が探していたのは四つ葉のクローバーだったのかもしれないと気づいた。広場の方へ振り向くと、未だ探し続けている姿があった。そのときの彼女の眼を、今でも思い出せる。諦めたようでいて、それなのに永遠に信じると、かたく心に決めたような、そんな儚い色の眼を。
今、隣に座るユリカは、あの日とまったく同じ眼をしていた。小さな体が今にも震えだしそうで、こらえようと両の手を懸命に握っている。
頭の中を追い越して、言葉が微かに零れ出した。
「生きててよ。」
目の前には、いつのまにか訪れた夕景。
「たぶん、明日にはいい事あるから」
根拠などない。僕だって信じない。だけど、言わなければいけない。彼女の眼で、そう強く思った。
ユリカはずっと答えない。
顔を向ける勇気は、まだなかった。
やがて日は沈みかかり、ユリカは帰っていった。けれど去り際に、ほんの少しだけ僕の方へ頷いてくれた気がした。
ナイフは、蓄音機のそばに捨てられていた。
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