第9話 嘘と思いたい、そして所長は

「僕には彼に助けられたという、恩返し的な気持ちが含まれている。彼はそんなのは必要じゃないんだよ。必要なのは損得勘定はなくて、ただ自分を見てくれる相手。お世辞や社交辞令なんかいらない、余計な言葉なんていらない……君はそんな含みがないからね、あの人にいいんじゃないかなと思ったんだ」


 そんな。所長がそんな期待をしてくれていたなんて、そんなこと思いもしなかった。一気に心の中が申し訳なさであふれてくる。


「所長、ごめん、それは買いかぶりすぎっすよ、それにあいつのサービスはもう……」


 所長はいつも自分に期待をしてくれている。だから期待に応えたいと思うけれど今回ばかりはもうダメだ。性格悪い、なんて言っちゃったんだ。


 そんなあきらめを抱いていた時、所長のジャケットに入っていたスマホが着信音を響かせた。頭の上にあった、あたたかい感触はなくなり、急に涼しくなった。


「ちょっとごめん」


 離れる所長の背を見送り、大翔もデスク上で指を組み合わせながら、あの男のことを考える。


(狩矢飛鳥……自分はあの男のために何ができるのか。いや掃除をしに行くしかないだろうけど。あいつの望むようにただ黙々と掃除してやればいいのか? 何も言わずに見ていた方がいいのか?)


 依頼された仕事はそれだけだ。それもいい、いいんだろうけど。


(んー……違う、なんか違う。オレはあの男に“楽”してほしい、のかも。もっと気楽に、楽に、楽しく考えればいいのにって思う。何かあんならオレが助けてやるから。それは当たり前のことだろ、困ったヤツを助けるのは)


 だから少しは笑えよ、明るく話せよ。挨拶ぐらいしろよ。まぁ、オレを使うのは会社勤めってヤツだから、お金かかっちゃうけどな。


「はぁ……くそ、とりあえずこの後の準備しなきゃ」


 あの男の仕事がなくなっても他の仕事もある。気持ちがモヤついているが行かなきゃ。

 とりあえずトイレと思って立ち上がった時、席を外していた所長が戻ってきた。


「大翔くん」


 その表情に何かあるのがわかる。にこやかだけど何か含みのある表情。自然と自分の顔が引きつってしまう。


「またクレームなんだけど」


「……はい。わかってますよ、はい。何回きても驚きませんよ。なんならオレはクレームでできてます、純度百パーセントです。だからなんですか?」


 覚悟を決めていると所長は「ふふっ」と困ったように笑った。


「あのガキは口が悪いし態度もデカい、目つきも悪い」


「へぇ、はい」


「でも掃除はうまい」


「……はい……って、へ?」


「明後日もよろしくお願いします」


 所長の話に、頭の中に疑問符が浮かぶ。

 所長、一体なんのことでしょーか?


「大翔くん、他社の訪問回数、最高記録いくんじゃない? すごいね、そのうちギネスいくかもよ」


「あの、一体、誰――」


 聞こうと手を上げかけた時、所長は笑顔で頭を下げた。


「あの人をよろしくお願いします」


 そう言って所長は手をヒラヒラ振って、事務所の奥へと行ってしまった。


「しょ、所長⁉ だから、あの人って誰……え、もしかして?」


 あぁ、そうなんだ? そういうこと? めでたくクビにはならなかったっていうことか。へ〜それはそれは……よかった、ような?


「マ、マジっすかぁぁぁ!? ちょっと所長! ウソだろ、そんなの! 逆に行きづらいって!」


 また「あぁぁ」と変な声を上げてしまった。その叫びには嬉しいのと困ったのが入り混じっていた。






『はい、高澤です……あぁ飛鳥、なんだかあの子にすごいことを言われたみたいだね? 君の心境としてはいかがな気持ちなのかな?』


 高澤は相手をからかうように話を振る。相手はそんなからかいなど気にしないというように『大した問題じゃない』と言った。


『ははは、まぁ飛鳥はそういうことは気にしないもんな……それでなんの要件でしょうか? ……はい、あぁ、あの子の……口が悪くて態度がデカくて目つきが悪いと。ふふ、そのクレームは多くの人から寄せられていてね、ちょっとかわいそうだ。あの子はとても良い子なんだよ。僕のお気に入りだよ』


 電話の向こうの相手はため息をついている。お前のお気に入りは会社を傾けさせるぞ、と小言を言ってきたが高澤も気にしてはいない。


『それでクレームだけを言いに電話してきたのかな? ……うん、あぁ、そう。あの子の掃除の腕前は気に入ったんだね。確かにあの子の家事能力はすごいんだよ。あの年であれだけできる子はそうそういないよ。会社を傾けるんじゃなくて僕的には一緒に会社を盛り上げてくれることを期待しているんだ』


 大層お気に入りなんだな、と相手は言う。高澤は目を閉じ、心の中で(そうだよ)とつぶやく。


(だから……期待はしている。けどあまり君に、のめり込んでほしくはないんだ……ホントはね)


『はい……じゃあ良かった。それなら今後もあの子にサービスをお願いしておくから。はい、飛鳥も身体気をつけて、じゃあ――』


 電話を切り、高澤は静かに息をつく。


『すごいじゃないか大翔くん……あの飛鳥にご指名されるなんて。さて、しょげている大翔くんに教えに行こうかな』


 無理矢理にでも笑って言わなきゃならない。どうかあまり彼にハマり過ぎないで。でも助けてあげて……と願ってしまうのは複雑だった。

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