第52話 交渉成立
こういうのを鳩が豆鉄砲を食らったとか言うんだろうか。今、自分はまさにそんな感じだ。頭にフリスビーぐらいの軽さの勢いのあるものがカツンと当たって、どっかに飛んでいった感じ。
飛鳥の苦しそうな表情を見ながら自分は呆然としている。笑うも文句を言えない状態、まさに頭が真っ白、というか。
そして考える。
(オレって子供生まれるんだっけ? いつに? 誰の? いやいやいや、そんな覚えはない。っていうか、そんな相手いない。飛鳥はなんでそんなことを?)
「お前が前に言っていた」
「オ、オレがぁ?」
「あぁ、あの時言っていた。お前が仕事でどこかの赤ちゃんの世話をしている時に……メールがきた時」
飛鳥の言葉を一つずつ脳の中に浸透させていき、どこで何があったかを順番に思い返していく。仕事、赤ちゃん、メール……もう数ヶ月も前か、仕事で赤ちゃんの世話をしていたことがあった。赤ちゃんには下に弟が生まれたのだ。
しばらくしてから二番目の赤ちゃんを見せてもらったけど、すごく小さくて可愛くて。その寝顔を見ながら、すごく癒されていたのだ。
そうだ、それで自分んちにも『もうすぐ赤ちゃんが生まれるんですよー』みたいなことを赤ちゃんのパパに世間話したら。
『え、大翔君の赤ちゃん?!』と、その赤ちゃんのパパが誤解したから自分は笑って否定したんだ。
『違いますよー、オレの――です』
そこで大翔は思い立った。これはその時と同じような展開だ。
「あーなるほどな!」
大翔が大きな声で納得すると横にいた飛鳥の肩がビクッと上がった。
そんな飛鳥を見て、この誤解を解かないと、と思ったけど。ジワジワと胸の中におもしろいという感情がわき上がってきて――こらえきれなくて。
大翔は声を上げて笑ってしまった。その笑いはしばらく止まらず、飛鳥はそんな自分を見ながら怪訝な顔をしていた。
しばらく笑い続けてしまった。ようやく治った笑いの後で、大翔はヒィヒィ言いながら「誤解だよ」と飛鳥に告げた。
「誤解……」
飛鳥は自分の言葉が信じられないというように表情を硬くしている。
「だ、だってお前……確か女性の名前を言って妊娠したって言っていたよな」
確かにそうだ。自分はあの時、メールをくれた相手の名前とその内容を飛鳥に告げた。いつもの調子で言ってしまったのだ。
“ゆかり”が妊娠した、と。
「ごめーん、なんかオレのことで悩ませてたみたいだな? ウチちょっと変わってるからさ、母親のこと、呼び捨てしてんだよ」
そう言うと飛鳥はまさかと言いたげに口を半開きにした。そう、そのまさかだ。
「ゆかりってオレの母親なんだよ」
始まりは、あの時のメール。あれは正真正銘、母親からのものだ。母親から『妊娠した』と言われれば普通は誰でも驚くと思う。
「オレの母親、 十七でオレを生んでるから、まだそこまで年もいってないからさ、まぁ、ありえると言えばありえるっていう話だから、そんなに驚かなかったんだけどな。あー、でもまた弟か妹が増えるんだよなぁ……オレ的には問題はないんだけさ、また子守りとか頼まれんのかなぁ……ん?」
愚痴った後で、ハッとして。大翔は飛鳥の顔をあらためて見てみた。今の飛鳥の表情を、文章で言い表すならば“目が点”だった。微動だにせず、何も言えないという感じで。電源オフになったように、動きも思考も停止しているようだ。無表情すぎてアンドロイドみたいだ。
「も、もしかして、ずっとそのことを誤解して悩ませちゃったりとか……しましたかねぇ?」
だとしたら飛鳥の性格上、相当悩んでいたかもしれない。そう思うとすごく申し訳ないことをした気がする。
もしかしたら、この後「俺を悩ませやがって」なんて、すごくネチネチと文句を言われるんじゃないだろうか。
最悪「もう仕事来なくていい」とか「家事しなくていい」とか。そんなことになってしまったら……ショックだ。
「あ、飛鳥さん……あの、さっ」
慌てて弁解しようと大翔は何かを言おうとした。すると飛鳥は己の手を口に当て、肩を小刻みに揺らし始めた。それがだんだんと大きくなってきて、それに合わせ、ククッと笑う声も聞こえて。
次第に飛鳥は声を上げて。
「――ははっ!」
なんと、笑った。
笑ったはずみで飛鳥の手が口元から離れ、その下にあった表情は、あの無表情で仏頂面で文句ばっかり言ってネチネチしていた、そんな人間からは信じられないくらいの、笑顔というものが見えている。腹の底から楽しんでいるような、楽しくてたまらないというもの。満面の飛鳥の笑顔。
それは見ているとちょっと心配になる。
(そんなに笑って大丈夫? 腹よじれたりしない? 突然ぶっ倒れたりしない?)
でも飛鳥は楽しそうに笑っている。その様子を見ていると、こちらまで楽しくなってしまう。
二人で顔を見合わせたら、自然とまた笑いがこぼれて、二人で大笑いした。
お互いの関係の発展はそんな誤解も邪魔していたんだなぁ、と思うと笑えたし、笑うしかなかった。自分が悪いんだけど……母親を名前で呼ぶの、やめようかな。
二人で散々笑った後、飛鳥は息苦しそうに「はぁ」と息を吐き、大翔に視線を向けた。口元にはまだ笑みが残っている。
「大翔」
笑みを浮かべ、名前を呼ばれる。慣れない様子に胸の中が大きくはずんだ。なんかかっこいい、そう思ってしまった。
(そんな笑顔で見られたら、アンタのこと、もっと好きになっちゃいそうだ)
「大翔、お前のことを俺が望んだら、お前は大変になるかもしれない。いつかは嫌だと思われるかもしれない……それでも俺はお前を望みたい」
隣りにいる飛鳥は顔を近づけると大翔の唇に、唇を重ね合わせた。
そっと優しく触れるようなキス。飛鳥の戸惑い――本当にいいのか、と確認しているような。
「……俺があげられるのは、こういう対価しかないんだが……どうだ」
少し恥ずかしそうに照れた感じで笑う飛鳥。
そんな飛鳥を見ながら、まさに骨抜きといった感じで。自分は緊張と嬉しさと恥ずかしさとで溶けてしまいそうになる、だから。
「……交渉成立 」
それを飛鳥に言うのが精一杯だった。
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