第44話 ありがとう

 オレはアンタの世話が好き。

 部屋の暗がりに向かって発した言葉が、じわじわと自分の脳へと浸透していくと、自分すごいこと言ってんじゃんと恥ずかしくなってきた。飛鳥にそれは伝わったのか、そうでないのか。飛鳥は何も言わずに横を向いており、彼の方からは静かな呼吸音だけが聞こえてくる。

 そのまま十分経ったのか小一時間経ったのか、時間感覚がわからない。

 大翔が天井を見つめ、ぼんやりとしていた時だ。


「ありがとう、大翔」


 不意にそんな言葉が聞こえた。その言葉だけで自分の気持ちが幸せに浸っていくのを感じる。


(飛鳥が『ありがとう』って、言ってくれるなんて)


 緊張が解け、だんだんと意識がまどろんでいく。自分は飛鳥のそばにいたい。飛鳥の役に立ちたい。それはきっと自分が一番やりたいことだと思う。仕事だけじゃない、仕事以外のことでも飛鳥のことを助けてやりたい。

 今まで彼ができなかったこと。飛鳥があきらめてきたこと、避けてきたこと全部、飛鳥が望むなら味合わせてやりたい。


 そしてその対価としてオレが欲しいのは……。






 そんな飛鳥との秘密の生活が二週間ほど続き、飛鳥の腕は三角巾とギプスから解放された。

 しかし指を完全に動かせるようになるには、まだリハビリが必要だった。リハビリは一、ニヶ月ぐらいはかかるという。それを終えて、ようやく飛鳥はいつもの日常を取り戻すことができる。


 そのリハビリの期間も、もちろん飛鳥の世話と仕事の手伝いをした。たまに隼人も加わり「兄貴と寝てんのに何もされないの?」とか「今度は俺のベッドに来てよ」とか。にぎやかに仕事や家事をする楽しい日々が過ぎていく。


 それからニヶ月が経ち、飛鳥のケガはほぼ完治した。あと一回医師に診てもらい、大丈夫と言ってもらえれば、それでおしまいになるだろう。少し腕の力は落ちてしまったが、また前のように自分でできることは自分でできるようになった。

 それは嬉しいことであり、 ちょっとさびしいことでもある。だって自分でできるなら自分の必要性はなくなるから。以前のように掃除洗濯をすればいいだけになるから。


 ここまで来ると自分は飛鳥の元を離れたいと思っていなかった。ずっとこのまま一緒にいられたら、とさえ思っていた。

 自分は飛鳥のそばにいたい。

 深く強く、そう思うようになっていたのだ。


「じゃ仕事行ってくるから、また後でな」


 いつも通り、朝は事務所に出勤して午前と午後の合わせた五時間を飛鳥の家で過ごす。

 その後は、また夜も過ごす。

 だが飛鳥の容態も良くなったので、そのシフトは今日で最後となる。

 だから今日の仕事が終わった後、自分の気持ちを、思っていることを言ってしまおうと大翔は思っていた。


(言ったからって、どうにかなるものでもない。でも自分は飛鳥に隠しごとはしたくない。気持ちはしっかりと伝えておきたい)


 そうでないと自分が楽じゃない。

 幸せだと、思えないから。


 週末、仕事終わりの最後の日。明日明後日の土日は久しぶりに家に帰って、ゆっくりのんびりと過ごす予定でいる。

 けれど何をしようとは今のところ考えつかない。ずっと飛鳥のそばにいたためか、自分だけの時間がどんな感じだったのかが、いまいちピンとこないでいる。


 自分にとって一人の時間は楽しいものであったのか。一人でいつも何をして過ごしていたんだろうか。考えると気持ちが沈む。

 だって飛鳥のことをしている時間は自分にとって、とても充実したものだったから。


 飛鳥のケガは完治した。日中に病院へ行き、医師に完全に治ったことが告げられた。飛鳥完全復活。それはとても喜ばしいこと。


(よかったな、飛鳥さん。もう一人でやりたいようにできるじゃねぇか……よかったな)


 そうやって無理に吐き出す言葉が嘘まみれで苦しい。本当はケガは治って嬉しいけど、これで自分のお役は御免だ。もうそばにはいられない。


(……嫌、だな……)


 ケガは治った、けれど今日で最後だから、なんとなく。いつもの調子で自分は飛鳥のベッドで飛鳥の隣で横になっている。

 しばらく一緒にいたせいか、離れて眠るというのがお互いに気持ち悪いと思ったのかもしれない。飛鳥は断ることもなく、自分も当然のようにこの状況になっている。


「完全に治って良かったな、明日からはどうするんだ?」


 大翔は仰向けの状態で目を閉じ、隣にいる飛鳥に語りかける。


「別に、どうもない。いつも通りだ」


「いつも通りか。まぁ、そうだよな、オレもいつも通りに過ごそうと思ってるけど」


「お前はずっと俺についてくれていたんだから、ゆっくり過ごせばいい」


「それがさぁ、ゆっくり過ごすのって、なんかよくわかんなくなっちゃったんだよなぁ、休みボケみたいなもんかなぁ」


「……何か違う気がするけどな」


 飛鳥の言葉に大翔は苦笑いする。だってどこかに行こうと思う気力も、何かおいしいものでも食べようかなと思う食欲も特に起こらないのだ。

 本当に考えられない。明日からどうしよう。でも明日からのことより、自分にとっては今のこの時間が大事だ。

 飛鳥に言わなきゃ、伝えなきゃ。それを覚悟してきたんだ。


「……飛鳥さん」

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