続・チキンナゲットガール

 地下鉄の環状線のなかで前に立ったのが望月さんだと、声をかけられるまで気が付かなかった。コンタクトレンズが乾いてしまうと思いながらも、ちょっと寝そうになっていたところだった。

 眼鏡をコンタクトに変えた理由は、マスクをしていると曇るから、という一点に限る。いや曇り止めとか、なんかもっとあった気もするんだけど。そして感染予防には眼鏡のほうが良いんだったっけ? 何が本当かわからないまま、もうすぐ一年ぐらい経つ。


 牧田さん、と呼んだ声は小さいけれどはっきり聞こえた。ふっと一瞬、あのチキンナゲットの香りがしたような気がして、すぐ消えた。

 コロナ禍のこんな世の中になってしまってから、そういえば電車のなかで何か食べている人というのをまったく見かけなくなった。いや、一度だけある。高校生ぐらいの男の子がパンを食べようとして、隣に座っていたおじさんがすごく怒ったのだ。男の子はすぐ降りて行った。みんな、疲れているのだと思う。


「あ、……望月さん、」

「うん」


 眼鏡をコンタクトに変えてマスクで顔の半分が隠れている状態で、よくわかったな、と驚いた。でも、それはこちらも同じかもしれない。髪を後ろでひとつに縛っている望月さんの姿を見るのは、たぶん初めてだった。


「牧田さん、あのね」

「うん」

「わたし、会社辞めてきた」

「え、」


 電車が駅名を告げる。あの日とは、ちがう駅だった。



「望月さん!!!!!」


 ドアが閉まる直前にホームへ駆け下り大声で呼ぶと、歩く人たちがぎょっとしたように振り返ったり、振り返らなかったりした。望月さんは、向こうを向いたままそっと立ち止まった。


「やったね!」


 こぶしを突き上げて叫ぶと、振り返っていた人たちすらも慌てて目を逸らし、逃げるように歩き出した。そして、皆、去って行った。私と望月さんだけが止まっていた。

 望月さんはゆっくりとこちらを振り返り、マスクから出た目だけで、にこっと笑った。たぶん彼女は化粧もしていなくて、その目もとにはくまができている。けれどその目は私がよく知る、いや、よくは知らないんだけど、大学の廊下や教室なんかで笑っていた望月さんの目に、よく似ていた。

 うん、と小さく頷いて、背筋をのばしたまま向こうへ向き直り、決して速くはない速度で、でも、今日はすり減っていないヒールで、望月さんは歩き去った。ナゲットの匂いは、もうしない。地下鉄の車両がホームを出て行き、ざっと一度風が吹いた。


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チキンナゲットガール 伴美砂都 @misatovan

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