チキンナゲットガール

伴美砂都

チキンナゲットガール

 地下鉄の環状線のなかでチキンナゲットを食べていたのが望月さんだと、降りる直前まで気が付かなかった。なにあなた、電車でそんなもの食べて、やめなさいよ、と険のある女性の声がして、ちらっと見るときれいな着物を着た年配の女の人が、隣に立つ人に言ったようだった。

 注意された若い女性と思しき人のかばんから、マクドナルドの紙袋が覗いていた。身長の低い年配女性のほうの顔がギリ見えないぐらいまでしか視線を上げなかったから、そのときは気付かなかった。


 夕方六時ぐらいで、たしかにおなかのすく時間帯ではあった。そして、車内がそこそこ混む時間でもある。やたら美味しそうな匂いがしたけど、だれかの土産物かな、ぐらいに思っていた。地下街に出てる特設のお惣菜屋さんかなにかで。でも、ちがった。チキンナゲットだとわかってしまえば、チキンナゲットでしかない匂いだ。

 注意されたのは学生さんかな、と一瞬思ったけど、ちらっと見た限りそれもちがうようだった。薄紫色のツインニットに、クリーム色っぽい膝丈のスカート。ジャケットはかばんと一緒に腕に掛けられていて、胸もとに社員証のようなものが裏返った状態で下がっている。かばんはブランドものと思しき薄ピンクで、同じような色のネイルをした指がそこに入り、ナゲットをつまんで出てきた。


「やめなさいって言ってるでしょ、恥ずかしい、あなた、聞こえないの?」


 年配女性の声がだんだんとげとげしくなってくるが、無視して食べ続けるようだった。車内になんとなく気まずい空気が漂っている気がするのは、たぶん気のせいじゃない。

 時間調整なのか少しだけスピードの緩んでいた電車がガタンと動きだし、ナゲットの女性は少しよろけた。逆側に立っていたサラリーマンにかばんがぶつかり、マックの袋がかしゃっと音を立てて、サラリーマンは小さく舌打ちして一歩横にずれた。それでも、彼女は食べるのをやめない。年配女性も、怒るのをやめなかった。


「まぁだ食べてる、ねえ?」


 同意を求めるような言い方だったが当然のように答える人はいない。まあ気持ちはわからなくもない、双方わからなくもないけど、ちょっとしたお菓子とかならともかく立ったままマックナゲットはちょっと大胆すぎる。し、べつにあんな大きな声で注意しなくたって見てみぬふりしとけばいいのに、まあ双方間が悪かったしめんどくせえなって、みんな思ってるだろうなあ、いやわかんないけど、と思いながら手元のスマホに視線を戻した。

 アナウンスが次の駅名を告げたとき、なにか意味があるわけじゃないけど一度顔を上げて、向かい側のドアの上にある路線図のほうを見た。そっちのほうを見たというだけで、人がたくさん立っていたから路線図自体が見えるわけじゃない。なんとなく、癖みたいなものだ。そのとき、人をかき分けるようにして降りて行こうとする横顔に、見覚えがある気がした。


 望月さんはホームの、エレベーターがあるのと逆側の一番端の壁に向かって立っていた。間違いなく、望月さんだった。

 この路線は地下鉄のなかでも古いほうで、天井の修繕でもしているのか黒と黄色のビニールテープがずいぶん低い位置にまで貼ってある。望月さんはぶよぶよの壁に向かって立ったまま、かばんを足もとに置き、マクドナルドの袋を抱えるようにして食べていた。ジャケットが掛かったままの左手にバーベキューソースを持っていて、きっとさっきは電車の中だから、ソースはやめたのだ。

 ナゲットを食べ終わると、今度はポテトだ。袋の中に手を突っ込んで、数本ずつまとめて口に運ぶ。ネイルは根元がずいぶん伸びていた。そのつぎは、バーガー。包み紙に顔を埋めるようにして一気に頬張った。水分はなくて大丈夫なんだろうか、私が食べているわけではないのに、くっと喉が詰まった。その思いが通じたわけでは決してないと思うけれど、望月さんは一度しゃがみ、かばんの中からブラックコーヒーの缶、ふたを閉められるタイプの缶だ、それを取り出して立ち上がり、あおるように飲んだ。そして、袋の中からはまたナゲットが出てくる。巻きがとれかけた茶色の髪を、苛立たしげに後ろへ払った。

 どうして私まで電車を降りてしまったのか、わからない。望月さんとは同じ大学で、共通の友人は何人かいたけど、特別に仲がよかったわけではない。でも、仲が悪かったというわけでも、決してない。なんとなく、深く知り合う機会がなかった、というぐらいだ。

 望月さんの服装は、そういえば学生時代からそんなに大きくは変わっていなかった。ニットの色がもっとあざやかなときもあったとか、スカートが柄物やもう少し短かったりとか、そのぐらい。なのに、望月さんの後ろ姿はすごく老いてしまったように見えた。スカートの後ろに、くっきりとした皺がある。ナゲットを食べた指であわててかばんを肩に掛けたのか、肩口に油じみができている。

 その場を動くことができなくて、私は一心不乱にナゲットを食べ続ける望月さんの少し離れた後ろに、しばらく立ち尽くしたままでいた。


 すべて食べ終えた望月さんは、おそらくナゲットの箱も入っているであろうマクドナルドの紙袋を両手でぐじゃっと握りつぶした。その姿勢のまま少し、止まり、そして袋をまた開き、まっすぐに伸ばす。やっと開いた、しわしわになった袋を、今度はきっちりと折り畳む。

 立ち去らなければ、と思った。そっと方向転換し、私は歩き出そうとした。


「牧田さん!!!!!」


 すごく大きな声だった。あたらしく来た電車から降りた人たちがぎょっとしたように振り返ったり、振り返らなかったりした。そして、皆、去って行った。

 望月さんは、華やかな人だった。美人で成績優秀で、性格もいい人。学科の男の子たちが、高嶺の花と話していたのを聞いたことがあるし、でも、友達は多かった。いつも人に囲まれていて、すごくよくしゃべるとかじゃないのに、いるとその場がぱっと目立つような人。就活の内定も、すごく早く決まったと噂できいた。大手の広告会社か商社だったか、そういうふうな。

 何度か話したことはある。でも、そんな人気者の望月さんが、私の名前をおぼえているとは思っていなかった。ぎくりと立ち止まって、振り返るまでに時間がかかった。


「……ひさ、しぶり、望月さん」

「……、うん」


 あんな大声で呼んだのに、望月さんの返事は言葉少なだった。かばんはまた肩にかけている。油じみがちょうど隠れているのを見て、少しだけほっとするような気持ちになった。


「牧田さん、仕事?」

「え、……うん、仕事っていうか、仕事帰りっていうか、」

「あ、そう……そうだよね」

「うん、……えっと、」


 なにか言おうと思った瞬間、望月さんはぱっと腕時計を見、行かなきゃ、と言った。つられて私もスマホを取り出して見る。時刻はいつの間にかもう、夜の七時半をまわっていた。


「それじゃあね」

「……、うん、」


 望月さんは私の横をすり抜けて、ハイヒールの靴をカツカツいわせながら歩いて行く。望月さんの歩き方を、気にしたことがない。片方のヒールだけ、すり減っているように見えたのは気のせいだろうか。決して速くはない、望月さんの歩くさまはまるで、これから死にに行く兵士のように見えた。


「望月さん!」


 呼ぶと、立ち止まった。振り返りは、しなかった。


「ま、……また、会おうよ、ね、私、いつも、この電車、だし、」


 返事はなかった。けれど僅かにだけ頷いて、望月さんは歩き去った。油っぽいナゲットの匂いだけが、かすかに香った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る