7話「怯えた声」




その翌日も、僕はまた殴られるのかな、とは思っていた。


もちろん僕たちは一緒に食事をしたり、少しの間だけど、古月は心を開いて話をしてくれたかのようだった。


でもそんなのは気まぐれだったかもしれないし、彼は変わらず僕が気に食わなかったけど、ただどうしたらいいか分からなくて、僕に合わせていただけだったかもしれない。


“それでも、普通の友だちみたいに、話せたような気がしていたけど…”


僕が朝の教室に入っていくと、いつも通りに「おはよう」もないまま席に就いて、ホームルームが過ぎるまで、平穏があった。


ちらりと古月の席を見ると、彼はまだ学校に来ていないようだった。


“殴られないのはよかったけど…”


僕はそう思いかけてまた手元に開いていた本に目を戻したから、その先を考えることはなかった。







その日は古月は登校してこなかった。その次の日も。


火曜にやっと教室に戻ってきた彼は、なんと傷だらけだった。青痣どころじゃない。


彼は、周りの生徒が誰だって心配したくなるほどの怪我をしていた。


ブレザーの隙間から覗いた包帯は手の甲までを覆い、鼻を痛めたのか補強のテープを貼っていて、小さな切り傷だらけの顔は大きなガーゼ絆創膏でほとんど覆われ、頭にまで包帯を巻きつけていた。


古月のただごとでない様子に、教室中が沈黙していた。すると彼は全員が自分に注目しているのが気に入らなかったのか、自分の机を蹴り上げ、また鞄を持って立ち上がる。


“帰っちゃう!”


僕は本も鞄も放って席から立ち上がり、彼を慌てて追いかけた。廊下を出ようとした時に彼に追いつきかけたけど、不意に誰かが僕の腕を後ろから掴む。


振り返ると、柿崎くんが僕を引き留めて、一生懸命首を振っていた。


“説明してる暇はない!”


「大丈夫」


それだけ言って僕は彼の腕を振りほどき、古月に向かって叫んだ。廊下に居る生徒が彼を見て怯えるのが見える。


「古月!」


僕は大声で彼を呼んだのに、彼は一度も振り返らず、そのまま学校から消えてしまった。




その日の休み時間、噂が流れた。



“古月が停学処分になった”



それは噂というよりはおそらく真実で、クラスではひそひそと“素行不良の生徒”に対する悪口ばかりが囁かれていた。


「喧嘩ばっかりしてたんでしょ?」


「俺、あいつが万引きしてたの見たんだよ」


「え、俺も見た」


「性根が悪いよな、やっぱああいう奴は」



僕は、古月の一番の被害者だったはずだ。少なくともこの数週間は。それなのに、クラスメイトの囁きを聴くごとに、胸の内に怒りが湧いていく。彼のために反論したくなってしまう。


僕だって、古月が善人だなんて言うつもりはない。でも、「何も知らないくせに」と、教室中に向かって叫びたかった。









二週間して、古月は教室に戻ってきた。でも、彼の傷は減っていなかった。そして、教室の中は、彼の敵でいっぱいになっていた。



この二週間、クラスメイトが少しずつ自発的に話し合うようになり、やがてはみんなほとんどまとまって、「次に古月が問題を起こしたり暴力をふるうようなら、男子全員で立ち向かおう」という決定がなされた。僕はそれを聞いた時、一人で本を読んでいた。



彼は昼食休みのあとで教室に入ってきた。でもみんなはまず、真っ黒になった彼の髪に気を取られた。「あっ!」と声を上げる生徒もいた。


金色だった彼の髪は黒く染めたようで、今度は黒い波が頬の横に流れていた。


古月が席に座ると、幾人かの男子生徒が教室の後ろで囁きを交わし、緊張気味に頷き合う。


僕はクラスメイトの「決定」を古月に伝えるつもりはなかった。でも、いつかのように彼の横に立つ。


「おはよう」


僕が古月に近寄って行ったから、さっきの男子たちは、緊張したままこちらに目を見張っていた。古月は何も言わない。


「学校、来れるようになってよかったね」


彼は机に肘をついてうつむいている。


「全然よくねー」


「そう?」


「席戻れよ。話しかけんな」


うるさそうに包帯が巻かれた片手を振って、彼は僕を追い払おうとする。僕は、気が立っているような彼を見ても、そんなに怖いと思わなくなっていた。


「僕は、よかったと思うよ」


古月は僕を睨みつけ、叫ぶ。


「うるっせえな!戻れっつってんだろ!またぶん殴るぞ!」


教室の中の空気が張り詰めていく。後ろに居た男子たちが近づいてくるのを一瞥してから、僕は古月に目を戻した。


「…わかったよ。今日は放課後は?」


「バイト」


「バイトするとこ、見つかったんだ」


僕はそのことが素直にちょっと嬉しかったから、笑っていたかもしれない。でもそれを見て古月は憤然と立ち上がり、僕をついに殴った。


「だからうるせえって言ってんだろ!」


「痛っ!」


「あっ…!」


その時、「あ」の声を上げたのは、古月だった。


彼は自分で殴った僕を見て、一瞬だけ、強く怯えたような目をした。


それから、その弱弱しい影を隠すように彼は慌てて振り返って鞄を持ち、止めに入ろうとした男子生徒たちとあっという間にすれ違い、教室を出て行ってしまった。





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