第2話
ただいま、と呟いて玄関のドアを開ける。リビングのドアを開けると母が掃除機をかけていた。私に気づいて、ああおかえりと掃除機を止める。振り向いた顔を見て心が重くなった。母の機嫌が悪い事はもう表情だけで分かる。
「遅かったね。」
「ちょっと部活が長引いちゃって。何かあったの?」
「・・・また裕翔がね。」
はあ、とため息をつきながら母の視線がベランダへと向く。そこにはしゃがんでいる裕翔がいてどうやら今日も友達と喧嘩をし先生に呼び出されたようだ。母の愚痴を背に受けながら、ベランダへと向かう。
「裕翔、ただいま。」
後ろから声をかけても反応は無くて、その視線はじーっと何かを見つめていた。追えばそこにはありの行列。・・・どうやら今日はありに夢中なようだ。
トントン、と優しく2度肩を叩く。少し間が開いてから裕翔が振り返って、初めて私に気が付いたかのように目を開いた。
「ただいま。もうすぐご飯だからさ、そろそろおうち戻ろう。」
「・・・もうちょっと。」
「暗くなっちゃうよ。お化け来るよ。」
「・・・。」
「裕翔?聞いてる?」
彼の視線がまたアリに向き直り、そのまま返答は無かった。思わずまたため息が出てしまう。この状態の裕翔はしばらく動かないし、無理に動かそうもんなら大暴れしてしまう。小学4年生とはいえ男の子だ。本気で暴れれば私と母では対処できない事も多かった。
諦めて一度部屋に戻ろうとベランダのドアに手をかける。ドアを閉める前に意外にも裕翔はトコトコと私の後をついてきて一緒にリビングに戻った。
手洗いうがいをするために一緒に洗面所に向かう。裕翔は何度も何度も手を洗う。そうしないと気が済まないのだ。満足するまで手を洗った裕翔の手にハンドクリームを出してあげるのも、いつもの事。洗いすぎて手の皮が剥けてしまった裕翔のために病院の先生がお勧めしてくれたものだ。初めの頃はクリームをつける事すら嫌がったけど、今では手に出してあげれば自分で塗るようになった。
「・・・姉ちゃん姉ちゃん。」
「ん?」
「あとで一緒にゲームしよ。」
「いいよ。宿題終わってからでいい?」
「宿題終わるのは何時?」
「うーん。ちょっとまだ分からない。」
「分からないってなんで?何時になったらできるの?」
「・・・分かったよ、ご飯食べ終わったら7時からやろうか。」
裕翔は分からない、という事も苦手だ。やるべきことや約束はきちんと時間を決めなければいけないし、気になった事の答えが出ないとその次の事には移れない。家族が気を付けなければいけない事を、勉強と部活の合間を縫って小さい頃から何度も何度も聞かされた。
私とのゲームの約束にやったあ、と裕翔は無邪気に笑っていた。その笑顔を見ると自然と頬が緩んでしまう。5歳離れている弟の裕翔は軽度の知的障害があると言われていて、じっとしていることが出来ないし自分の感情のコントロールが非常に苦手だ。けれど昔から割とお姉ちゃん子で、困ってしまう事も多いけどでもとても可愛い弟なのだ。
大会が近いのか、今日も昼休みなのにグラウンドからは運動部の声をがしている。走ったりする事自体はそんなに苦手ではないけど、球技は大の苦手だ。以前裕翔にキャッチボールをせがまれた事があったけれど、どうしても上手くできなくて大泣きされてしまった事を思い出した。もう数年前の話だけど。
包みを開いて、代り映えしないお弁当の中身にがっかりする事もなく箸を取り出す。
「あ、こんなとこにいた。」
「うわ!?」
と同時に急に聞こえてきた声に驚いて思わず変な声が出てしまった。振り向けばそこには同じクラスの高瀬さんが立っていて、怪訝そうに私を見つめる。
「何?」
「いや、全然足音しなかったから・・・。」
「普通に歩いてたつもりだけど。」
そう言う高瀬さんはいつも通りそっけない。教室でも大体一人でいて、勉強しているか本を読んでいることが多い。同じ中学校から来た子によればどうやら中学生の時からそんなスタイルで、自分のペースで生活する一匹狼タイプらしい。
なんでこんなところに、と私が口を開く前に高瀬さんが手を差し出す。
「数学のノート、提出今日までだよ。」
「・・・あ。」
「忘れてた?」
「完全に。」
はあ、と高瀬さんがため息をつく。そうだ、数学の課題の提出が今日締め切りだったんだ。私も思わずため息をついてしまって、そしてなんだからムッとしてしまった。そんな呆れた顔しなくても良くない?
「だってこの前も出してなかったよね。」
「そうだけど・・」
「催促して回らなきゃいけないんだよ、毎週。」
「・・・ごめんなさい。」
数学の小関先生の顔を思い浮かべる。ねちっこくていつも貧乏ゆすりをしている、正直あまり人気のない先生だ。「係なんだからしっかり集めてもらわないとなあ、先生だって忙しいんだけどなあ。」なんて小関先生に高瀬さんが責められてしまう姿が容易に想像出来て、素直に謝罪が口に出た。
意外だったのか高瀬さんは少し目を丸くして、こっちこそ嫌な言い方したね、ごめん。とこちらも意外にも謝罪の言葉が出た。成績優秀でいつでもキリっとしている彼女には勝手にプライドが高いイメージを持ってしまっていたのだ。だから、その謝罪と表情が少し印象的だった。
「今日中に終わらせて後で自分で持ってくようにするね。」
「うん、お願いします。」
そういってから高瀬さんはそのまま私が座っている階段の少し上に腰かける。え、と思っていれば彼女はそのままお弁当包みを広げ始めた。
「・・・何?」
「ここで食べるの?」
「うん。ダメ?」
5限までそんなに時間ないし、そういって既にお弁当の蓋を開け始めている高瀬さんに何もいう事が出来ないまま私の心臓はバクバクだった。ああ今日はお昼なしか。次の瞬間には冷静にそんなことを考えていて、人間って不思議だなあなんて思った。
「・・・わ。すごい綺麗。」
「っ、びっくりした。」
今度は高瀬さんが驚く番だった。彼女が開いたお弁当はとても彩りが良くて美味しそうで、思わず覗き込んでしまう。うわあ、いい匂い。
「すっごい美味しそう。」
「別に大したもんじゃないよ。」
「もしかして自分で作ったの?」
「そうだけど。」
すごい!という私の言葉に、そんなことないってばと少し照れたように怒ったようにそっぽを向く。お弁当のクオリティもそうだけどまず自分で毎朝お弁当を作っているという事に感心してしまった。私だったら絶対無理だ。
「河合さんは?お昼食べないの。」
「あー。ちょっと今日お腹空いてなくて。」
一つも手が付けられていないお弁当を見て、ふーんと高瀬さんが一瞬不審そうに眉を寄せたのか、特に興味はないのかそのまま自分のお弁当へと視線を戻す。
グラウンドから聞こえてくる声と、上から聞こえてくるプラスチックがこすれる音。それ以上会話は無くて、なんだか変な空間だった。でも、その場から立ち去りたいとは思わなかった。
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