第6話 竜の血も、赤いのだ

 母だった生き物の首を抱えたまま、疲労と混乱で震える足で礼拝堂の外に出た。

 そこには阿鼻叫喚の光景が広がっていた。

 竜が兵士を屠っている。肩に噛みつき、首を噛み切り、頭を噛み砕いている。兵士の今わの際の絶叫が響き渡り、濃密な血の香りが漂う。そこに広がっているのは地獄で、あれほど神聖だと思っていた竜は化け物にしか見えなくなっていた。


 しかも竜は空に羽ばたいた。

 多くの竜は地面を歩くしかない人間を食い散らかすために大地を踏み締めていたが、何頭かは大きな羽を広げて空に舞い上がっていた。


 空飛ぶ竜たちが目指しているのは自分の竜に乗って大空を駆けるこの三人だ。


 ラジーズが長大な槍を振るう。

 一頭目、穂先の刃が竜の目を貫く。竜が悲鳴を上げながら地面に落ちていく。

 二頭目、刃で竜の喉を掻き切る。その竜は叫ぶこともできずに落下していった。

 三頭目、竜の胸に槍を突き立てる。すぐに引き抜く。竜の胸の穴から血しぶきが噴き出した。


 エスファンドは大弓を握っていた。

 一頭目、矢が羽を貫通する。竜が浮力を失って地面に墜落する。

 二頭目、矢が咆哮する口の中へ吸い込まれる。首を突き破ってうなじに当たる部分にやじりが突き出す。

 三頭目、矢が胸に刺さる。二本目を打ち込む。竜が落ちていく。


 あっという間だった。


 ラジーズとエスファンドは両足だけで自分の竜をがっちりつかみ、安定感のある姿勢で敵対する竜を次々と倒した。その手さばきは鮮やかとすら言えた。あっという間だった。まるでうさぎか何かを仕留めているかのようだった。


 しかし、それは、もともと人間だった生き物だ。


 アシュアールは叫んだ。これもまた言葉にならなかった。


 それらは、ほんの少し前まで、人間だったのだ。


 自分を可愛がってくれた老夫婦かもしれない。よく挨拶してくれた隣の人かもしれない。いつか抱っこさせてくれた幼子かもしれない。

 わからない。

 区別がつかない。

 どの竜が誰でどの竜が誰か、アシュアールにはもうわからない。


 みんな、仲間だった。

 でも、もう、人間ではない。


 人間の悲鳴が聞こえてきた。野太い男の声だった。そちらを見ると、黒いマントの男が竜にまたがって飛んでいるところだった。その背中に、やはり竜に乗ったハーヴィーが剣を突き立てている。


 レザトと黒いマントの男たちも竜に乗っていた。彼らも竜使いでもあったらしい。一団となってどこかへ飛び去ろうとしているところをハーヴィーが追いかけているようだった。

 アシュアールは黒いマントの男たちが攻撃されることについては何も思わなかった。彼らは今でも人間の形をしているが、同じヤズダの民の者であるとは思えなかった。

 奴らが来なければアシュアールの大事な仲間たちがこんな化け物になって人間を食い散らかすことはなかった。敵意、悪意、殺意――いろんなものが噴き出す。

 あいつらこそ敵だ。


「ハーヴィー!」


 ラジーズが言う。


「お前はレザトを追え! こっちは俺らで片づける」


 ハーヴィーはちょっと後ろを振り向いてから「了解!」と返事をした。その顔、手、剣は返り血で汚れている。


 レザトと黒いマントの男たち、そして数頭の竜たちが西の夜の空へと飛んでいく。東のほうからは太陽が昇り始めていた。


 ラジーズとエスファンドが礼拝堂の前に下降してきた。


 いつの間にか、あたりは静かになっていた。竜があらかた片づいたからだ。ラジーズとエスファンドが多数の竜を殺し、残った竜はレザトたちとどこかへ飛んでいった。生き残った帝国軍の兵士たちが互いに助け合いながら立ち上がろうとしている。


 二人は竜から降りた。ラジーズもエスファンドも槍や弓を背中に納めている。こちらは距離を置いて戦っていたので返り血はほとんどない。ただ、ラジーズの槍からは赤い液体が滴っている。竜の血も赤いのだ。もともと人間だったのだから当然か。


 ラジーズとエスファンドは少しの間アシュアールを見つめていた。どういう感情で見ているのかは、今のアシュアールにはわからなかった。


「エスファンド、その竜をつなげ」


 ラジーズが言うと、エスファンドは自分の竜の手綱をラジーズに預けた。そして、竜の鞍の後ろに載せていた荷物から竜の頭に回して制御するための竜具を取り出した。アシュアールが抱えていた竜に革の竜具をかける。竜が嫌がって鳴く。

 次の時、エスファンドが竜を鞭打った。


「なにするんですか!」


 この竜は、自分の母親なのだ。


「落ち着け、アシュアール」


 ラジーズがそう言いつつ、左手で手綱を持ったまま右手でアシュアールを抱き寄せる。痺れていたアシュアールの腕は母だった竜から離れてしまった。


「でも……お母さんが……」

「この竜はお前の母親だったのか」


 ぽんぽんと、優しく後頭部を叩かれた。


「ずっとお母さんを止めてたのか。よくがんばったな」


 褒められた。

 肯定された。

 認めてもらえた。


 目からどっと涙が溢れてきた。


 嗚咽が漏れる。ラジーズにしがみつく。ラジーズは抱き締め返してくれた。


「用意できたぞ」


 エスファンドが言うので顔を上げると、母だった竜はラジーズやエスファンドの竜と同じ竜具をつけられておとなしくなっていた。


「ほら、手綱を持て」


 アシュアールに手綱を持たせてくれる。


「お前の母親なのだろう? お前が世話をしろ」


 アシュアールは無言で頷いた。


「――残酷な話だが」


 エスファンドが溜息をつきながら言う。


「一度竜になった人間は元に戻らない。また、人間だった頃の知性や理性、おそらく記憶も、失っている。この竜がお前を息子として認識することはもう二度とないだろう」


 うすうす察していたことだった。でなければあの優しかった母が噛みついてくるわけがない。アシュアールの肩の傷はまだしくしくと痛んでおり、身じろぎするたびに血を流していた。


「しかし、幸か不幸か、人間だった頃に誰だったのかわかる竜というのは珍しい。お前の根性の結果だな」

「二人の竜は人間だった頃に誰だったのかわからないんですか?」

「ああ。戦争の混乱の中で急いで捕獲した個体で、どこの誰なのかはわからない。俺たちは何頭もの竜を見てきたので、顔立ちというか個性というか、なんとなく個体識別はできるようになってきたが、戦士になりたての頃には区別がつかなかった」


 エスファンドが苦笑して「こいつらは十三年かけて調教したからな」と言い、自分の竜の背中を撫でた。調教――人間には普通使わない言葉だ。


「どれ、傷を見せてみろ」


 そう言いながらラジーズが体を離した。


「がっつり噛みつかれたな。痛かっただろ?」


 アシュアールは頷いた。痛みを訴えることを許されたのに安心した。


 ラジーズがアシュアールの切り裂かれた服の裂け目に手をかける。そして「何だこれ」と呟く。


「服、切られたのか?」

「はい、あのレザトとかいう奴に」

「何のためだ? あいつそんな変な趣味あったかな」

「僕の体に鱗があるとかで、鱗を見たかったみたいで」

「あー、そうだったな。話は聞いてた、皇女殿下が情報収集をしていた時に」


 今度ラジーズは自分の手綱をエスファンドに渡した。そして服の裂け目を前に開いたり後ろに開いたりして鱗を探した。


「おい、エスファンド、見ろ」


 やはり背中に鱗があるらしい。二人でアシュアールの背中を覗き込む。


「こりゃすげぇ。俺なんかぜんぜん比じゃねぇ。エスファンドのよりでけぇんじゃねぇの」

「そうだな……俺より広範囲に鱗が生えている人間は初めて見る」

「あの、そんなにすごいんですか? 僕、自分では見えないんですけど」

「そうだろうな。これ、どうやったら見れんだろ」


 ラジーズとエスファンドが空気に見合わぬ軽口を叩き始める。


「エスたんお前鏡持ってない?」

「持っていない。男がそんなに自分の顔を見るものか? ハーヴィーではあるまいし」

「そうねえ、ハヴィたんなら鏡持ってそうねえ、あいつ自分の顔大好きだからな。後で聞いてみよう」

「宿に戻って皇女殿下にお聞きしたほうが早かろう、ハーヴィーはレザトを仕留めるまで追いかける気かもしれん、過激な奴だからな」

「ハヴィたんは我が身可愛さに深追いしないに今日の朝食のハムを賭ける」


 そして、「それにしても」と息を吐く。


「俺たち、お前の雇い主のクソ野郎にお前に鱗にあるって聞いたんだけど、どーゆうこと?」


 アシュアールは小首を傾げた。ラジーズが言わんとしていることがわからなかったのだ。

 エスファンドが苦笑して問いかけ直す。


「あの店長に服を脱いで背中を見せるようなことがあったのか、と聞いている」


 あまりの屈辱に顔が真っ赤になったのを感じた。熱い。暑い。全身から汗や涙が噴き出しそうだ。


「そっか、そっか。つらい思いをしたな。もうおさらばだ」


 ラジーズがまた頭を撫でてくれた。


「俺たちも鱗が生えた人間を探してたんだ。竜騎士になってレザトたち王国の残党と戦う人間が欲しかったから。連中と戦うためにはまず連中と対面しても竜にされない体じゃないとならないからな。だからお前は逃げ隠れせず俺らを待ってればよかった。って、最初から説明してやればよかったな。ごめんな」

「ほんとですよ、もう、腹立つ」

「いいことだ。怒りって感情は時として役に立つ。怒れ、怒れ。――行くぞ」



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