第5話 魔術師レザトのいざない

 アシュアールは叫んだ。喉から音付きの息を吐き出しているだけで声は言葉にならなかった。恐怖と驚愕だけが心を支配していた。頭は目の前で何が起こっているのかを認識することを拒否していた。


 母だった生き物の首に相当する部分に腕を回した。その生き物は鳴き声を上げながら首を振った。アシュアールに触れられることを嫌がっているようだった。しかしアシュアールはその生き物を離さなかった。だがそれだけでどう接したらいいのかはわからなかった。


「お母さん、お母さん」


 その生き物の金の瞳がアシュアールを見つめる。一声鳴き声を上げる。

 目が合った気がした。

 気のせいだったらしい。

 次の時、その生き物はアシュアールの右肩に噛みついた。

 強烈な痛みが肩から全身に広がった。

 竜には牙がある、ということをアシュアールは思い知らされた。


「ああ、あ」


 手が震える。母だったものを離しそうになる。けれどなぜかそうしたらもう二度と母に会えない気がして動かなかった。手放したくなかった。抱き締めて温めていたらまた変化するのではないかと、何の因果関係もないのにそんなことを思った。


 そうこうしているうちに青年が右手を上から下に振った。指の先から光がほとばしり、礼拝堂の中にいた人々の彼から見て右側の人々がその光に包まれ、少しずつ竜に変化していった。

 小さな子供の泣き声が聞こえてきた。だが大半の人、特に年配の人たちほどそれを受け入れているようだった。老人は特に涙を流しながらも微笑んで聖句を唱えている。

 青年が左手も出した。そっちにも複雑な模様が描かれていた。

 左手を右から左に振る。光が溢れ、人々を包み込み、竜に変えていく。


 気がついたら、アシュアール以外の全員が竜になっていた。


 鳥のような、獣のような、何とも形容しがたい鳴き声が堂内を満たした。耳が痛い。


「――変化しないな」


 青年が、一歩、また一歩とアシュアールに近づいてきた。アシュアールは肩の痛みをこらえながらも母だった生き物を抱き締め続けていた。そうしないと彼に母を奪われてしまうような気がしてきたのだ。

 青年をにらみつける。

 母が、魔術師様、と呼んでいた。この男は、人間を竜に変える魔術を使う魔術師だったのだ。


 母だった生き物がアシュアールから口を離して鳴く。アシュアールから逃れたいのか全身を震わせる。長い尾がアシュアールの脚を叩く。それでもアシュアールは耐えた。

 魔術師に母を取られたくない。


 魔術師はアシュアールのすぐ目の前まで来た。

 模様のある右手でアシュアールの頬を撫でる。抵抗したかったが両手で母を抱き締めているので何もできない。


「お前の母親がお前は選ばれた者だと言っていたが、本当らしい」

「意味がわからない」

「お前、体に鱗があるだろう」


 予想外のことを言われて、アシュアールは目を真ん丸にした。


「僕の体に?」

「ああ」


 魔術師が頷く。


「体に鱗がある人間は生まれつき半人半竜で魔術を使っても完全な竜にならず人間の意識を保ったままいられる」


 初耳だった。母は一言もそんなことを言っていなかったし、自分のどこに鱗があるのかわからなかった。思わずきょろきょろと自分の腕や足を見てしまった。

 魔術師がマントの下から短剣を取り出す。そして刃をアシュアールに向ける。アシュアールは刺されると思ってきつく目を閉じた。けれど魔術師が裂いたのはアシュアールの服だけだった。血に濡れた肩から腰のあたりまで上の服をさっくりと二つにした。

 魔術師が驚いた顔をする。

 彼の手がアシュアールの背中に触れた。


「すごい。結構な広範囲だ。ここまで広い範囲が鱗の人間は初めて見たかもしれない」


 信じられなかった。母はそんなことなど教えてくれなかった。彼の手が完全にアシュアールの鱗をなぞっているなら、アシュアールは左の肩甲骨の途中から腰のあたりまで鱗に覆われていることになる。自分では見えないところだ。

 魔術師が嬉しそうに笑ってアシュアールの背中を叩く。


「立派な戦士になれる。神官になってもいい。お前は半分竜であり神に近しい人間だ。王国が復興すれば相当な位を授ける」


 訳がわからなかった。それに気持ちが悪かった。このおぞましい状況で嬉しそうな顔ができる魔術師が信じられなかった。


「あなたは何なんですか」


 魔術師が、にこり、と目を細めた。


「ヤズダ神聖王国第三王朝第二十七代目国王の第五王子レザトだ」


 魔術師が――レザト王子が片手を上げると、竜たちが鳴き止んだ。


「お前の母親はお前に本当に何にも教えていないんだな」

「神聖王国は……千年祭祀を守ってきた……豊かで平和な……竜の末裔の国だって……」

「それは正しい。ただ、補足するなら。神聖王国は役に立たなくなった者を竜に変えて役に立つようにして使役してきた。おかげで人間たちはみんな竜の労働の恩恵を享受して生活できた。だから豊かな国だった。だが竜は正しく制御してやらなければ人間を襲うことがある――そいつが今お前を噛んだようにな」

「役に立たなくなった者って?」

「老人や病人といった、豊かな暮らしの足を引っ張る者たちのことだ」


 目眩がする。


「そういうのを働けるようにすれば生産的だ」


 しかしアシュアールはレザトへの反論の言葉を持たなかった。間違っていることは明らかだが、具体的に何がどう間違っているのか、今のアシュアールには説明できなかった。だいたい流血している上に半裸で何を考えられるというのか。頭が悲鳴を上げている。一刻も早く帰って寝たい。


「泣くな」


 レザトがアシュアールの頬の涙を拭う。


「お前にはそういった者たちの上に立つ権利がある。俺たち王族が――無益な凡人を神聖で強力な竜に変えられる俺たちが保証する」


 次の時だ。

 礼拝堂の扉が外から開けられた。

 入ってきたのは帝国軍の兵士たちだ。松明を持っている者、弓を構えている者とそれぞれだが、いずれも帝国の紋章の刺繍が入ったマントを身に着けており、軍靴を履き、頭にターバンを巻いていた。

 レザトが舌打ちした。


「間に合わなかったか」


 帝国軍の兵士たちを掻き分ける者たちの姿があった。威勢よく「どけどけ」「いいから譲れ」と怒鳴っている声には聞き覚えがある。


「ここで会ったが百年目!」


 先頭に立ってレザトを指さしたのはラジーズで、


「毎度毎度そう簡単に逃げられると思うなよ!」


 ラジーズの後ろからラジーズの左側に出てきたのはハーヴィーで、


「おとなしくお縄につけ!」


 同じくラジーズの右側に出てきたのはエスファンドだ。


 レザトが右手を上げた。

 それまでおとなしくしていた竜たちが咆哮した。

 耳をつんざくような声に帝国軍の兵士たちがひるむ。


「行け」


 レザトが命令すると、竜たちが扉のほうへ向かって走り出した。兵士たちが慌てた様子で逃げ出した。彼らは竜が危険なものであることを知っているのだ。きっと竜と戦ったことがあるのだろう。

 三人が兵士たちを外へ誘導する。


「逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!」

「こんな狭いところで竜とやり合っちゃだめだ!」

「出ろ! 危険だ! 早く外に出ろ!」


 兵士たちが転がり出る。三人も走り出る。竜たちがそれを追撃する。

 礼拝堂の中に、レザト、アシュアール、アシュアールの母だった竜、そして黒いマントの男たちが残された。おそらくこの男たちも鱗があるに違いない。

 レザトが自分の体にマントを巻き付け直した。左手に持ったままだった、先ほどアシュアールの服を裂くのに使った短剣を腰の鞘にしまう。


「王子」


 黒いマントの男のうちの一人がレザトに話しかけた。レザトが「参ったな」とちっとも困っていなさそうな顔で言う。


「俺ではあの三人と真正面からやり合って勝てる気がしない。逃げよう」

「御意」


 レザトと男たちが礼拝堂から出ていこうとする。外から人間の悲鳴と竜の鳴き声が聞こえる。

 置いていかれる。


「……あのっ」


 アシュアールが口を開くと、レザトが振り返って微笑んだ。


「一緒に行くか?」


 言葉が詰まった。


「王国の再興のために。一緒に行ってくれるか?」


 息を吐き出し、吸って、また吐いた。


「嫌です」


 レザトが手を振りながら出ていった。


 アシュアールは母だった竜を抱き締めたまましばらく呆然と突っ立っていた。




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