第4話 英雄に。なるか、ならないか。

 夜の鐘が鳴った。


 ヴィオリア人の居住地では一日五回鐘が鳴る。夜明け、朝、正午、夕方、夜である。ざっくりとした計算方法なので地方や季節によって前後するらしいが、ヴィオリア帝国の人間はこの鐘の音に従って予定を組むことが多い。


 夜の鐘は夕焼けからしばらくして月がある程度の高さにまで昇った時に鳴るものだ。大人も子供もこの鐘が聞こえたら布団に入る。アシュアールもこの村でこの鐘を聞くのはこれが最後かと思いながら布団に転がった。


 ところがすぐに起こされた。


「アシュアール、起きなさい」


 眠りに落ちるかどうかのところで、母に体を揺り動かされた。


「母さん?」


 一日の疲労がどっと出てつらかった。けれど母がアシュアールの眠りを妨げたことなどいまだかつてなかった。ただならぬものを感じて、アシュアールは重い体を起こした。


「でかける支度をしなさい」


 母が厳めしい顔をしている。

 しかし部屋の中は真っ暗だ。窓掛けの隙間から見える空も柔らかく美しい月と星の輝きに満ちていて昼間のような残虐な日光とは違う。


「どうして? ラジーズさんたちが迎えに来るのは朝でしょ?」

「あの人たちが来る前にこの家を出るの」

「なんで?」

「王国の魔術師様がお前を迎えに来るのよ」


 意味がわからなかった。アシュアールは布団の上に座ったまま自分の頭を掻いた。

 母が必死の形相で言う。


「聞き分けてちょうだい、アシュアール」


 アシュアールの両方の手首をつかむ。


「このまま帝都に連れていかれたらお前は殺されるわ」

「でも皇女殿下が――」

「信用してはだめ。ヴィオリア人はヤズダの民を人間だと思っていないのよ。ましてお前は選ばれた子供なんだから何に利用されるかわからないわ」

「選ばれた? 何に?」

「あとで魔術師様から説明していただく。今はとにかく支度をするのよ」


 要領を得なかったが、とにかく、彼女はこのまま帝都に行くことに反対していて、誰か偉い人に助けてもらおうとしているらしい。しかしアシュアールはその魔術師様とやらに会ったことも、見たことも聞いたこともない。いったいどこから湧いてきたのか。だが母は問いかけることを許さない。アシュアールに着替えを持ってきて、十四歳にもなって着替えさせてやろうとしているのか服の帯に手をかけた。ぎょっとして「それくらい自分でできる」と拒み、自分で帯を解く。よっぽど急いでいるようだ。


「早くしなさい、早く」


 母が貴重品の入ったかばんを持って家を出る。アシュアールも服の胸元に財布だけ突っ込んで後に続いた。


 驚いたことに、他の家からも人が出てきていた。近所のヤズダの民だ。親族ではないのにアシュアールのことを小さい頃から可愛がってくれた年配の夫婦である。彼らもアシュアールと目が合うと口の上に人差し指を立てて「しっ」と言った。


「静かに。ヴィオリア人どもに知られないようにな」


 彼らだけではなかった。村の中心に向かってちらほらと人が歩いている。みんなヤズダの民だった。ヴィオリア人たちに気づかれないよう足音を忍ばせながら村の真ん中にある礼拝堂を目指していた。

 この礼拝堂はヴィオリア人の宗教であるヴィオル教の寺院だ。ヴィオル教には聖職者が存在しないこともあって、信者が持ち回りで管理している。夜の鐘が鳴れば担当者は家に帰る。この時間帯は無人のはずだった。

 ヤズダの民たちはその無人のはずの礼拝堂の中に吸い込まれるように無言で入っていった。


「何をしに行くの?」


 異様な空気を感じたアシュアールは声をひそめて母に尋ねた。しかし母は答えてくれなかった。


 礼拝堂の中には五十人ほどのヤズダの民が集まっていた。赤ん坊から老人まで、村に住むヤズダの民全員のように思われた。


 説教壇の下に見慣れない人物が二人立っていた。黒いマントをまとっていて、フードを目深にかぶっているので顔が見えないが、体格のいい男性だと思われる。

 説教壇に上がるための階段の途中にも、マントを羽織り、フードをかぶった人間が座っていた。こちらはマントの合わせ目から刺繍の入った服が見えている。

 アシュアールはどきっとした。あの刺繍の入った服はヤズダの民族衣装だ。この村では着用を許されていない。彼は禁忌を犯している。

 母の、魔術師様、という言葉が頭に浮かんだ。


 アシュアールの背後で、礼拝堂の重い扉が閉まった。明かりが窓から差し入る月光だけになり、広間の中が暗くなる。


 説教壇のそばにいた二人の男が手燭に火をつけた。しかしやはり男たちの顔は見えなかった。

 二人が説教壇の途中にいる男のほうに手燭を向けた。彼の顔が照らし出された。


 若く美しい青年だった。赤い髪に金の瞳をしている。年は二十代半ばくらいだろうか。整えられた眉の下の睫毛は長い。


 彼が立ち上がり、フードを取り去った。


「みんな、集まってくれてありがとう」


 彼がそう言うと、そこに集まっていた人々が次々に膝を折った。

 アシュアールは驚いた。どうして周囲の人々が彼に対してひざまずいているのかわからなかった。

 隣を見れば母もひざまずいている。

 周囲を見渡す。アシュアール以外にも事情をよくわかっていないらしい子供が何人かきょろきょろしている。一人の親が小声で「お前も座りなさい」と言って手を引くと、他の子供も何となくそうしないといけない気がしたのか膝をついた。

 雰囲気に押されて、アシュアールもその場に膝をついた。知らない人間に対して従順な姿勢を取るのに違和感はあったが、相手は同じヤズダの民で、しかも民族衣装を着ている。


 民族衣装を着ているということは、ヴィオリア人の支配に反発している。


 ごくりと、唾を飲んだ。


「そんなに硬くならないでほしい」


 青年が言う。丁寧語ではないが、優しくて穏やかな柔らかい声なので、きちんとした態度で扱われているように聞こえた。


「アシュアールというのはどの子だろう」


 名指しされてぎょっとしたが、隣で母が言った。


「大丈夫だから、名乗り出なさい」


 母も優しい声だった。敵意や悪意はない。自らの意思で青年に膝を折っていること、恐ろしい相手に息子を売り渡そうとしているわけではないことを感じる。

 アシュアールは立ち上がり、おずおずと「僕です」と言った。

 青年が微笑んだ。


「お前が皇女に刃を向けた少年か。勇敢だな」


 褒められた。

 嬉しくて頬が熱くなった。今日はさんざんな目に遭ってきたが、それが一気に報われた気がした。


 青年が彼自身の胸に手を当てる。芝居がかった仕草だ。彼の顔立ちだとさまになって見える。


「お前のような人間に出会えることを期待していた。ともに戦おう」

「戦う?」


 その単語を聞くと一気に穏やかならざる気持ちになる。


「何と?」

「帝国と、だ」


 彼の顔が蝋燭の炎に照らされて神秘的に見える。


「英雄にならないか? 俺が全力で支援する。戦士に――竜使いにならないか?」

「何をおっしゃって……? 僕が竜使いに?」

「そう」

「でも、竜なんて、いなくなってしまったのでは……。いや、いるにはいるって知ってるんですが、僕が使える範囲にはいないんですけど……」


 青年はけして笑みを絶やさなかった。


「大丈夫だ。俺が魔術を使えばお前にも竜を用意できる」

「どういうことですか?」

「とにかく返事を聞かせてくれ」


 アシュアールは眉をひそめた。


「戦士になるか、ならないか。竜使いになるか、ならないか」


 青年が、真面目に問いかけている。


「英雄に。なるか、ならないか」


 みたび周囲を見回す。

 みんなが、アシュアールを見ている。アシュアールを、期待の目で見ている。すさまじい重圧だった。


「そんなこと、言われても。ちょっと、考えさせてほしいんですけど」

「ひよるのか」


 心臓がキュッと絞まったような気がする。


「いや、でも……、僕は、まあ、ヴィオリア人の支配をいいとは思ってないんですけど、でも……、あの、でも――」


 母の顔を見る。

 彼女がアシュアールの顔を見上げている。

 期待されている気がする。


 怖い。


 竜騎士の三人を思い出した。

 ここで英雄になると言ったら、あの三人とも戦うことになるのだろうか。

 あの三人は圧倒的に強かった。相手が成人男子で鍛えていて背も高いからということもあるだろうが、なんとなく、堂々と帝国を利用して生きている彼らに敵わないような気がした。

 危ない橋を渡りたくない。


 アシュアールは今まで十四歳は立派な大人だと思っていた。

 でも、今こうして選択を迫られると、自分より年上の人間はいくらでもいるのにどうして、と思ってしまう。


 母が望んでいるなら、がんばるべきなのだろうか。村のみんなが望んでいるなら、がんばるべきなのだろうか。今の暮らしを脱したいなら、がんばるべきなのだろうか。


 そもそも。

 知らない人についていっていいのだろうか。

 名乗りもしない相手に。何をさせられるかわからない相手に。


「時間をください」


 今度こそ、勇気を振り絞ってきっぱり言った。


「どういう状況なのか説明してください。いきなり呼び出されて英雄にならないかなんて言われても、僕、戦後育ちで何も知りませんから。これから先何をどうやっていくのか説明していただかないことにはハイと言えません」


 青年が初めて表情を崩して溜息をついた。


「時間がないんだ、アシュアール。朝になればあの三人がお前を迎えに来るんだろう? それまでに準備をしないといけない」

「だから、何の?」

「お前のための竜を」

「どこから、どうやって調達するんですか?」


 アシュアールの背後の扉が開いた。振り向くと、手燭を持っている男たちと同じ黒いマントの男が大股で入ってきた。そして奥にいる青年のもとに歩いていき、彼に何かを耳打ちする。彼が苦笑する。


「皇女に感づかれたようだ」


 背中が寒くなった。


「この村も時間切れだな。もう少し早く行動すべきだった」


 そして、マントの下にしまっていた右手を外に出す。

 彼の手の甲には複雑な模様の刺青が施されているようだった。暗くてどんな模様なのかはっきりとは見えなかったが、丸い枠の中に文字のようなものが書かれている気がする。


 彼が手をかざすと、アシュアールの母が立ち上がった。


「おやめください! 私たちにもう少し時間をください。息子は本当にまだ何も知らないんです」

「なぜ?」


 青年が冷たい声で問う。


「お前は戦士の妻でありながら息子への竜についての説明を怠ったのか?」


 母が口を閉ざした。大きく目を見開き、小刻みに震えている。


「母さん?」


 心臓が早鐘を打つ。


「どういうこと?」

「俺の台詞だ」


 青年も言う。


「どういうことだ? ここに集まったのは全員わかっている人間じゃないのか」

「どうかお時間を――」

「だめだ。俺が良くても皇女はきっと良くない。俺も今皇女に見つかると困る」


 そして、何か呪文のようなものを唱えた。

 青年の右手の模様が光り出した。

 アシュアールの母が「ひっ」と喉を詰まらせた。


「お待ちくださ――」


 光が彼女を包んだ。


 彼女の体が、変形し始めた。


「ア……ア……」


 腕は短くなり、爪が大きく尖る。足は太くなり、服が裂ける。鼻は低くなり、頬と同化し、ただの穴になる。口のあたりが突き出し、くちばし状になる。背中に巨大な羽が生える。肌を赤い滑らかなものが――鱗が覆い始める。


「アシュ……」


 涙を流した金の瞳だけがそのまま、彼女の全身が竜そのものに変化した。


 目の前のことが信じられなかった。


 母が、竜に変わった。




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