第六節

彼女は、知っているのだから。


ディフェルドほどの有名人となれば、過去のことなど、調べればいくらでも出てくる。母子家庭で育てられ、唯一とも言える、寄り添える人物である母も、彼が10歳の時で死別。一緒に出掛けてる途中、交通事故に巻き込まれたという。


そこから先は、公式記録ではなく、噂話程度のものだが、レイチェルは偶然にもそれを耳にした。当時、10歳しかないディフェルドが事故を免れたのは、しょうもない口喧嘩のおかげだったと。事故が起きる直前、彼は母と喧嘩し、飛び出した。


よくある話だ、駄々をこねたり拗ねたりして、感情をまだ上手く制御出来ない幼い子供の取る行動は、生物の本能そのものであり、自分を不快にさせる原因――すなわち親、その傍から離れること。


皮肉にも、その行動のおかげで彼は事故を免れた。だが同時に、一生消えることのない傷と悔恨を、背負うことにもなった。頭は理解している、これはどうにもならない惨劇であることを。あの瞬間、彼が飛び出すかしまいか、変わるのは彼一人の結末だけであり、母の死はどうあっても変えられない。だが、理解出来ても、気持ち的に納得出来るかどうは、別の問題だった。


「……ええ、上出来、よくやったね、


そっと、掴まれていない方の手を伸ばし、子供を甘やかすように、彼の髪を優しく撫でながら聞き慣れない名前を口にする。


『フェル』


それは、母による彼への愛称、彼に残された数少ない母の形見。もう二度と呼ばれることはないはずだが、彼女はそれを口にした――第三者が知るはずもない、その愛称を。それは偶然か、必然か、それとも、運命か。


二人がそれぞれ学生と講師として同じ大学にいるのは、偶然なのだろう。


彼女の有能さに気付き、自分の個室の整理を頼んだのは、必然なのだろう。


そして――そんな彼の私物の中に、を見つけたのは、運命なのだろう。


使い込まれた、一冊の古い本。一個人の所有物として、この時代にしては珍しく、投影入力形式な物ではなく直接ペンによる手書き、文字を書いてメッセージを残すタイプな物だった。


現代の無機質的な本とは対照的に、およそ山羊の皮革から出来た、触り心地の良いスエードカバー。本そのものから、どこか懐かしい香りが漂い出し、まるで自分を見つけてくれた人に、『どうぞめくって、中を覗いて見て』と誘うかのように。


中身を覗き見するまでもなく、この本は日記であることを一目でわかった。なぜなら、カバーの表面には『フェルちゃんとの毎日の思い出』という、とても可愛らしい後付けの装飾がされているから。言うまでもなく、母によるものだ。たったこの一文、それだけで母がどれだけ自分の子を大事に思っているのが伝わってくる。


好奇心に駆られて、頁をめくる。1ページ、また1ページと、不思議に、内容自体に対してさほど気にはしていない、このペースだとそもそも内容を読み切る前に頁がめくられる。


では、一体何を求めて頁をめくっているのか? 答えは知らない、直感か、あるいは本能か、ただただ無意識的に指が動く、頁がめくられる。そして――日記は途切れた、


当たり前と言えば当たり前の事、書き手である母が亡くなれば、当然更新もしなくなる。だが――それだけではなかった。28年前の最後の日記、それ以降の頁はほとんど新品同然、対して以前の頁は、表面が荒れて、皺も酷かった。まるで何度も、それこそ数え切れないくらい、何度も何度もめくられたかのように。


簡単に思い浮かぶ、毎日毎日、日記をめくって離別の苦痛と自責の念に苛まれる、彼の姿を。他の親族がいなく、親しい友もいない、28年前のあの日から彼の周りの時間だけが止まったかのように、ずっと一人、孤独のまま。


「ゆっくり、休んで? 私はここに……どこにも行かないから」


「んっ……うん……」


片方は夢の中に、もう片方は現実の世界に。本来は交わらぬ意識、叶わぬ対話、それを、奇跡的にも噛み合った。


これは、レイチェルだけの秘密。もう一人の当時者は今目の前にいるが、ぐっすり寝ているため、もちろん知覚することはない、故に、彼女だけの秘密。それを、彼女はずっと胸の奥に秘めてきた――


『でもさ、ここまで来ると、本っ当、どうするつもりなの? お金や地位、家柄などに興味ないのはわかってるけど……どんな男がいいの?』


「そうね、どうかしら。私もわからないけど……とりあえず、フィーリングで?」


『ふ~ん、余裕あるじゃん。さすがはと呼ばれるだけのことはあるね、このこの~』


「やめてね、そのあだ名、苦手だから。本当、どこの誰かこれを始めたのやら……」


『なんで? 女として最高の褒め言葉じゃん』


「大袈裟だからよ。私は自分のこと、そこまで特別だと思ってないし」


『喧嘩売ってんのレイチェル=ラヴィーナ? 買ってあげるわよ?』


「ごめんごめん、ランチ奢るから、ね? ほら行こう?」


『高いやつ!』


「はいはい、カロリー高めのね」


『うぅわ最低~本当、あなたのこういう一面を知ったらどう思うだろうね、男子達』


「でしょう?」


クスクスと、親友との楽しい時間を満喫してるレイチェル。今の彼女にとって、恋などより、友達との時間の方が大事なのだろう、だからこそ、気持ちのない付き合いはしたくなかった。


何より、胸の奥にあるこの気持ちの正体は、まだ掴めていない、モヤモヤで、ベールに掛けられたかのように。万が一その正体は『同情』であったら、プロポーズを受ける訳にはいかない、自分にとっても、あの人にとっても、不公平なのだから。


自分のことは自分が一番よくわかってる。決して、噂通りの完璧な人間ではない、不安があった。もしこの気持ちの正体が明らかになり、『同情』ではないとわかった時、自分は彼のことを、彼の背負ってる物を、まとめて受け止められるのだろうか。


「だから嫌なのよ……過大評価されるのを。普通に、こんなことでつまづいてしまう、弱い女なのにね」

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Lost in the Corridor ―閉塞回廊での迷走― 響延華音 @Hien-Kaon

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