#06 保護


 柔らかい風が頬を撫でる。

 ふわふわとした優しい浮遊感。

 空が飛べたならこんな感じなんだろうなあ、と呑気に思う。

 実際に飛べたとしても絶対下は見れないけれど。

 その心地良さに私の瞼は落ちたまま開こうとしない。

 きっと疲れてたんだ。

 きっと、ずっと眠かったんだ。

 緊張の糸が解けたからだ。

 暖かいものに包まれているような気がする。

 この気持ちよさはきっとあれだ、取り込んだばかりの洗濯物に包まってお昼寝する時のやつだ。

 はー、なんかいい匂いもするし。

 少し揺られている感覚もあるけど、それがハンモックのように安眠効果を与えてくれて。

 春だもんな、温いと眠くなるもんな。

 

 頭が停止する。

 これも全部、難しい事は考えなくてもいいよ、というような心地良さのせいだ。

 考えようとしても考えられない。

 睡魔には抗えない。

 なにか色々あった気がするけど、全部起きてからでいいや。



「ん……」


 目が覚めた。

 まだ寝ていたい。

 さっきとは違う、ふかふかしたものに体を預けているようだ。

 いつから寝てしまっていたっけ。

 寝起きのぼーっとする頭でゆるゆると記憶を辿る。


 えーと、明日から春休みだーって家に帰って、ユウヤが部屋にいて、それから……。


「あ」


 思い出して、急激に眠気から覚醒する。

 寝ている場合じゃない、と冷水をかけられたように。

 はっと目を開けると、そこには私を見下ろす知らない顔。


「あ、起きた」


 誰?


「うわああ!!」

「え」


 さっきから色々と分からない事ばかりだ。

 だから多分、私は軽くパニックになっていたんだろう。

 何を考えたのか、私を見下ろすその顔に向かって、勢い良く飛び起きてしまった。

 当然、ぶつかる。

 いきなり頭突きをかまされた相手もびっくりしただろうな、と冷静に考える自分も頭の片隅にいた。


 火花が散るとはこういう事か。

 ごちん、とも、がちん、とも言えない音が直接自分の体の中に響く。

 ぶつかったおでこから脳みそに向かって衝撃が伝わる。

 直接脳が揺さぶられているかのように、ぐわんぐわん、と。

 目の前が、一瞬真っ白になる。

 そして瞼を流れる血液の色なのか、目を瞑っていてもチカチカと眩しい。

 やけに体を巡る血液の音がドクドクとうるさい音を立てる。

 その音でさえも、ぶつけた頭に響いて痛みが増していく。


 その間、1秒も無いほどだっただろう。

 けれど寝起きの頭に突然こんな衝撃が走ったんだ。

 まだ回りきってない頭では、言葉が口から発せられるのは反射神経が働いていなかったらしく、少しラグが発生した。


「いっ……たあー!」


「いっ……てぇな!」


 ほぼ同時だった。

 ぶつかった相手と私が呻き声をあげるのは。

 その呻き声でさえ、揺さぶられた脳にやけに響くわけで。

 多分それは相手も同じで、今の私と同じく言葉にならない唸り声のような呻き声をあげ、おでこを両手で抑えてうずくまっている。

 もう何もかもが、普段感じている何倍にもなって、振動として脳を襲うようだ。

 目も開けられない、音を聞くのも苦痛だ。


 その時、この状況に似つかわしくない、やけに軽い笑い声が響いた。


「あっはっは! いきなり2人とも大声出してうずくまって! 仲良しさんかよ!」


 ケラケラと笑うその声も大声だぞ。

 自分の膝をばんばん叩いているような音も聞こえる。

 笑いすぎだ。


 激痛に耐えている間に、少しだけ痛みがマシになってきて、ようやく、恐る恐る目を開けてみる。


 そこは窓から暖かい光が降り注ぐ、高い天井の部屋だった。

 木の色を基調とした温もりを感じる配色。

 私が今まで寝かされていたソファの次に目に入ったのが丸いローテーブルとふわふわしたラグマットだったからリビングかと思ったけど、よく見るとキッチンや大きな机と椅子もあるようだから、リビングダイニングキッチン、というやつだろう。

 1階から2階の様子も見える吹き抜けに、そこに通じる大階段。

 そこはまるでモデルルームのような、理想を詰め込んだ家だった。


 そして、私を囲む数人の男子達。

 みんな派手な髪色と目の色をしている。

 さっき追いかけてきた人達と同じように。


「心菜ちゃん! よかったー、元気そうで。お兄さん泣いちゃいそう」


 その中に見慣れた顔を見つけた。


「ユウヤ! 無事だったの?」


 多少頬や額に絆創膏はあるものの、いつものようにヘラヘラと笑うユウヤに、とりあえずはほっとする。

 よかった、そんなに重症では無さそうだ。


「もう大丈夫。元気だよ。心菜ちゃんは怪我とかしてない?」


「私は大丈夫だけど、ユウヤ、結構がっつりやられてたような」


「ああ、あれ? 演技」


 ふざけるな。

 私の心配を返せ。


 はー、と深い息を吐く。

 まあとにかく、無事で何よりだよ。

 私も特に痛むところは無いし、本当に寝てしまってただけみたい。


「そもそも、何で演技したのよ……」


「うーん、少しでも時間稼いだら助けに来てくれるかなって」


「無茶するなあ」


 そう口を挟んだのは、さっき路地裏で聞いたのと同じ声。

 声の主はふわふわとした淡い金髪に、ふわふわの……耳と尻尾?


 思わず凝視してしまう。

 と、それに気付いてかその人物と目が合った。

 同時に耳と尻尾がぴこん、と揺れる。


「動いた」


「あははー、そりゃ動くよお」


 可愛い顔立ちに、私よりもずっと背の低いその子の声は男とも女とも取れない中性的なもので、更に私は首を傾げる。


「あー、面白かった。さて! せっかくの運命的な出会いの記念に、印象に残る自己紹介でもしておこうか!」


 そう言いながら立ち上がったのは、さっきまで膝を叩きながら大笑いしていた、一際目立つ男の子だった。


「Hello! オレは紅空七宝あかそらしっぽう。ここの店長であり、みんなのリーダーだ。よろしくな」


 大袈裟な動作でお辞儀をして、こちらに握手を求めてくる彼は、目立つ赤髪に吸い込まれそうな緑色の瞳。

 後から染めたような色じゃなくて、自然に馴染んでる色に戸惑う。

 そして、睫毛までも赤色で綺麗に目の端を縁どっている。


「あ、えっと……栗栖野、心菜です……よろしくお願いします」


 おずおずと差し出した掌をしっかりと握り、七宝と名乗った彼は私の顔をしっかりと覗き込む。

 そんなキラキラした目で見られると落ち着かない。

 思わず視線を逸らす。


「照れなくていいんだぞ! いくらオレの顔がかっこいいからって!」


「は?」


 いけない、つい呆れた声が出る。

 思ってもいなかった言葉に呆気に取られている間に、七宝さんは手を離してくるくるとターン、そして決めポーズ。


 ナルシスト気味なのかな?


 いや、自分に自信があるのはとてもいい事だ。

 でもなんだろう、ユウヤとは違う鬱陶しさというか、私とは別次元の人種の空気がある。


「うっるせーぞ七宝! 調子乗ってんじゃねえ!」


 と、七宝さんに噛み付くようにさっき目が覚めた時に目の前にいた人が起き上がる。


「はっはっは、頭突きくんうるさいんだぞ」


「誰が頭突きくんだ! 俺は被害者だ!」


 それに関しては本当に申し訳ない。

 けどそれはこっちも不可抗力で被害者な気もするのですが。


 と、若干発言に不満を感じていると、くるっとその人が私の方に振り返った。

 すごく怒っているみたい。

 めちゃくちゃ睨まれてる。

 短い茶髪に鮮やかな紫色の瞳。

 あ、でも私より背は低い。

 年下かな?


「おい、さっきの攻撃は無かったことにしてやる。その方がお互い都合が良いだろう。わかったな」


 半ば脅されているような感覚で、あまり理解せずに頷くしか出来なかった。

 すると、フン、と鼻で笑った彼はぶっきらぼうに自己紹介をした。


右京うきょう大七矢たなや。ここの副店長をやっている。ちなみに、このバカの言ってた店長ってのは自称だ。わかったな」


 バカ、と指をさされた七宝さんはぶー、と頬を膨らまして「バカじゃないですー」とか言ってる。

 なんだかんだで仲良さそうに見えるんだけどな。


「えっと、副店長なんですね。まだ小さいのに大変ですね」


「ああ?」


「ふっ、」


 大七矢さんのガラの悪い返事と誰かの吹き出す声が重なる。

 何かうまいこと話さないと、と話題を捻り出したのに逆にさっきよりも鋭い目で睨まれた。

 この凄みは路地裏で出会ったヤンキーより迫力があるかもしれない。

 体はあのヤンキーより何倍も小さいのに怖い。


「誰が小さいだ」


「え?」


 声もドスが効いていて、思わず聞き返してしまう。


「だあれがチビだと!? ナメんじゃねえぞ!」


「すみません!」


 さっきも聞いたような気がするなこのセリフ。

 1日で2回もヤンキーに目を付けられるとか、ついてなさすぎだよ。

 いや、ある意味ついてるのか?


「俺はチビじゃねえ! バカにするんじゃねえぞ!」


「やーだ、大七矢、元ヤンが出てるー」


 あー怖い怖いと大袈裟に肩を竦める七宝さんの言葉に、一瞬大七矢さんの動きが止まる。

 怒りを無理やり抑えているかのように、ぷるぷると細かく拳が震えている。


「ふ、ふん、何言ってんだ。俺が元ヤンなわけねーだろ。なんてったって俺はいつもスマートで紳士的で……ゴハッ」


「血ー!?」


 いきなり血を吐いたよこの人!

 大丈夫なの!?


「大七矢、雑巾はあっちだ」


「う、うるせえよ……」


 周りはまるでいつもの事と言うかのように動じない。

 背の高いマフラーを付けた男の子に促されて、大七矢さんはヨロヨロと雑巾を取りに行く。


「あっははは! 初っ端からめーっちゃナメられちゃってんじゃーん、ウケる」


「ウケねえよ!」


 去り際に大七矢さんが最後の力を振り絞るかのように怒鳴る。

 こんな険悪な雰囲気の中、それをものともしないような声で笑ったのは、狐のお面を頭に付けたメガネの男の子だった。

 猫みたいなアーモンド型の目の端に涙を滲ませて大笑いしている。

 サラサラの金髪が笑い声に合わせて揺れる。


「いやー、面白いもん見せてもらったなー。やるじゃん」


 と、私に向かって親指を立てる。


「どうも、ですか?」


「マジおもしれーわー、うん、最強。確か心菜だったよな?」


「は、はい、心菜です」


「めっちゃ礼儀正しいじゃんね! もっと肩の力抜いてけよー」


「お前は抜きすぎなんだよ良緑」


 ぐでー、と床に寝転がる彼に、大七矢さんがさっきの仕返しと言わんばかりに、嫌味たっぷりに言い返す。

 だが、良緑と呼ばれた彼の耳には届いていないようだ。


「良緑、自己紹介」


 別の男子に言われて「ああ、そうだった」と、良緑さんが起き上がる。

 ぐーっと伸びをしてから姿勢を直すその様子は、まるで猫のようだった。


「はーい、良緑でーす。佐十さと良緑りょうみ。よろしくな、心菜」


「よろしくお願いします、良緑さん」


「堅苦しいのは俺無理だぜー、はい次、もう次行こうぜ」


 あとの2人が、どっちから言おうかと目を見合わせる。

 さっきの耳と尻尾の人ともう1人、身長が高いマフラーを付けた男の子だ。


「じゃあ僕から!」


 と、元気に手を挙げたのは耳と尻尾の子。

 わざわざ私の前まで来てお辞儀をするもんだから、私もつられて頭を下げる。


「僕は狐南こみなみ文月ふみつき! えっとねー、さっきから気になってると思うけど、この耳と尻尾ね。ちょっと珍しいんだけど、僕、妖狐族だからこうなんだよね。よろしくね、心菜ちゃん!」


「ようこ?」


「妖に狐で、妖狐! まあ、化け狐の一族みたいなものだよお」


 にこにこと笑顔を浮かべるその子は、どうやら男の子らしい。

 ぴょこぴょこした動きに合わせて動く耳と尻尾が可愛い。

 もう追いかけられたりドラゴンにしがみついたりしたおかげか、妖狐族という聞き慣れない言葉も「そういうものか」と受け入れてしまう私がいる。


「んじゃ、最後はしーたんだね」


 くるり、と文月さんは最後の1人であるマフラーの男の子に向き直る。


「わかった。でも何を話せばいいんだ」


「何か面白いこと言えよ」


「無茶振りやめろ」


 囃し立てる良緑さんを軽くあしらって、その人はその場で私の方を向いた。


「えっと、星海ほしみ神夜しんや、です。……以上」


「短いぞー」


「言う事無いから」


 ぶーぶーとブーイングする良緑さん。

 神夜と名乗った彼は少し困ったように首を傾げた。


「んじゃ、俺に任せろ」


 と、ぴょんと起き上がった良緑さんが神夜さんの隣に行き、肩に手をかける。


「心菜、いきなりこんなとこに来て信じられないとかびっくりするとかあるだろうけど、嬉しいニュース〜。俺と神夜はお前と同じ人間界出身だぜ」


「えっ、お2人も?」


 サラリと人間界というワードが出て、やっぱりここは私が元々いた所とは違うんだなと心の中でため息をついた。


「おうよ! まあ完全に人間って訳じゃなくて、俺らの場合は2代上の先祖に魔族がたまたまいたみたいなんだけどな」


「元々人間界で過ごしていたんだけど、なぜか急にこっちに飛ばされて。それからこっちにいる」


「同郷ってやつだな!」


 そんな人もいるんだ。

 完全に話がファンタジーで現実だと思えないけど。

 分からない事が多すぎる。

 もう理解が追いつかない。

 途中から頭は考える事を放棄していた。


「ああそうそう。ドラゴンに襲われてた2人を助けたのは文月と神夜だよ。もちろん、嫌な予感がして派遣したのはオレ、七宝だけどな!」


 ドヤ顔で決めポーズをとる七宝さんは誰に見向きもされていなかった。

 こういうのって反応するべきかスルーするべきか困るんだけど。


「あ、ありがとうございます。文月さん、神夜さん」


「気にしないでね」


「うん、大丈夫」


 文月さんはひらひらと手を振り、神夜さんは静かに頷いた。


 確かに、ドラゴンが動きを止めた時に聞こえた声は文月さんの声だった。

 落ちた私たちを受け止めたのは、あの布が靡いているシルエットからして神夜さんなのだろう。

 て事は、ここまで私を運んだのも?


「あの、つかぬ事をお聞きしますが、もしかしてここまで私を運んだのって、」


「俺だ」


 控え目に神夜さんが手を挙げた。

 初対面の人に運ばせてしまった。

 おずおずと気になっていた事を問いかける。


「重く、無かったですか」


「大丈夫だ。倉庫にある荷物より軽い」


 それはフォローになってないような気がする。

 倉庫にある荷物がどんなものかは分からないけど、多分ダンボールに入ってるような重いやつじゃん。

 中二女子と比べたら、重さ的には微妙なところだな。


「ゆーたんを運んだのは僕だよ! ゆーたんも軽かった! ちゃんとご飯食べなさいよねー」


「ありがとうな、文月。ところで、若干靴先がすり減っているんだけど……?」


「ちょっと擦れちゃった、てへ」


 あざとい。

 身長差すごいのによく運べたな、文月さん。


「ユウヤ、初対面なのによくそんなに普通にしてられるね」


 これが人気者と人見知りの違いか、と恨み言のように言う。

 けど、ユウヤは照れたように困ったな、と笑ってる。

 いや、褒めてないから。


「いやー、実は初対面じゃないんだよね。ほら、さっき前も1回こっちに来た事あるって言ってたじゃん?」


「そういえば」


 あの変な機械を紹介している時に言ってたような、言ってなかったような。

 あんまり覚えてないけど。


「その時にも色々と助けて貰ってね。こっちがどんな所か教えてもらったりして。だから俺たち、もう友達!」


 そうだよな、と仲良しアピールとしてユウヤが文月さんと肩を組む。


「え、そんなつもりないけど」


 今までの笑顔はどこへ行ったのか、急に真顔になって声のトーンも落ちた。

 触らないで欲しいとでも言うように、文月さんはするりとユウヤから距離を置いた。


「ええ!?」


 冗談だよー、とさっきまでのように笑う文月さん。

 温度差で風邪ひきそう。


「ま、まあそういう訳で知り合い、だよな」


「友達でいいのにー」


「お前のせいで怖いんだよ文月!」


 確かに、仲良くないとこんなやり取りは出来ないもんね。

 仲がいいのは本当のようだ。


「でねー、心菜ちゃん。前に来た時に色々と教えて貰ってここの事知ったんだけど。あ、魔界の人が人間をツチノコみたいな物だと思ってて追いかけるとかさー」


 背中が総毛立つのがわかった。

 さっき追いかけられたのは私の中でかなりのトラウマになっていたみたいだ。

 その後のドタバタで忘れかけていたけど、そうだ。


 魔界の人は人間を襲う。


 そう考えると、急に目の前の男の子達が怖いものに見えてきた。

 こんなに呑気に話している場合じゃないのでは。

 もしかして、油断させて捕まえる気なのでは。

 もしかして、もう掴まっているのでは。


「それでさ、後は魔法ってのはね、」


「ユウヤ、逃げなきゃ」


 振り絞った声は思ったよりも小さく、緊張で体が動かなくなっているのがわかる。


「え? ごめん、心菜ちゃん。何か言った?」


「に、にげ」


 その時、ふと良緑さんと目が合う。

 心の内を見透かされるかのような目線に、その場に釘付けられたように動きが止まる。

 ゆっくりと、良緑さんの猫のような目は細められ、口の端は三日月のように釣り上がる。


「あーあ、気付いちゃったかー」


 わざと、その場にいる全員に注目させるかのように大袈裟な動きでわざとらしく言う良緑さんに、数人の顔色が変わる。


「別にそんなつもりは無かったんだけど……こうなっちゃ仕方ないよなー。な、七宝?」


 ニヤリと笑った良緑さんは、七宝さんと視線を交し、何かを企んでいるようだ。


「……ああ。そうだな。気付かれた以上やる事は1つ、だな」


「もうちょっとだったのにねー」


 人の良さそうに思えた七宝さんの笑顔も、ふわふわと可愛かった文月さんの笑顔も、今では気味の悪い物に見えてくる。


 どうしよう、やっぱりこの人達も……!


 その時、肩に手を置かれた。


「ヒッ」


 弾かれたように振り向くと、そこには無表情で私を見下ろす神夜さん。


 駄目だ、逃げられない。


「離して……!」


 咄嗟に手を振りほどき、ここから出ようと走り出す。

 とりあえず外に出なきゃ。

 目に入った、ステンドグラスが施されたドアに手をかける。


「おい、雑巾無かったぞー」


 突然目の前に大七矢さんが現れた。

 いや、正確には、ドアの手前にある別の部屋から大七矢さんが出てきたのだ。


「ヒッ」


「ああ?」


 顔を引きつらせる私を見上げ、不思議そうな顔をする大七矢さん。

 そりゃそうだろうけど、私は今それどころではない。


「大七矢! 捕まえてー」


 良緑さんの声が背後から聞こえる。


「え、何で」


 大七矢さんが状況を飲み込めてない間に、私は目の前のドアを思いっきり開けた。


「あっ」


 と、大七矢さんがその事に気付き表情を強ばらせる。

 気付かれた。

 この距離じゃ逃げられない。

 でも振り払ってでも逃げなきゃ。


「待て、そっちは、」


「うおー!」


 大七矢さんの手が私に伸びる。

 何が前にあっても進んでやる。

 ちょっと失礼かもだけど、大七矢さんくらいの大きさの人の力なら、頑張れば勝てるかもしれない。

 振り切れるかもしれない。

 

 後ろに引っ張られる感覚。

 大七矢さんの手が私の腕を掴んだ。

 だけどそれは想定済み。

 私は思いっきり前に向かって体重をかけた。


 だけど私は忘れていた。

 自分自身の運動センスの無さを。


「あ、」


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