第21話 春子の数珠
蔵目 麗華から連絡が入った。
俺に話しがあるらしい。
今日は彼女の義母の葬儀があった日だ。
今は夜の8時。すでに告別式は終わっているだろうが、随分と忙しいな。
何か余程の事情があるに違いない。
念の為、京子にメッセージを送ったが、このことは知らなかった。
どうやら、京子は呼ばれていないようだ。
俺だけに用事があるなんてな。想像もつかん。
俺が車のキーを取ると、妻の采ちゃんが目を細めた。
「こんな時間にどこ行くの?」
「あーー。ちょっとね」
彼女は更に目を細めた。
「最近、出かけるの多いよね」
詳細を話すのは避けたい。
左衛門が女を襲うのは池の関係者だ。
あとは幸せになる男だけ。
女の采ちゃんが池のことに触れていなければ身の安全は保証される。
だから、彼女には知ってほしくないんだ。
「出かけるのが多いのはさ……。京子の捜査を手伝ってるからなんだ。あいつから聞いてるだろ?」
「……うん。それは知ってるけどさ……。今日も、お義姉さんと一緒?」
困ったな。一緒じゃないんだ。
女の人と会うなんて言ったら心配するに決まっている。
今晩は既に実家でご飯を食べ終わったからな。彼女が京子と会うこともないだろう。
「ああ。今日も京子と一緒さ」
「……そう」
ごめん、采ちゃん。今日だけ嘘をつかせてくれ。
明日になれば朽木 御世が来る。そうしたら何もかも解決するからさ。
「行ってきます」
俺は車を走らせて蔵目 誠の家へと向かった。
ーー蔵目邸ーー
そこは女主人だった蔵目 利栄が亡くなり、跡を引き継いだ息子、誠の家となっていた。
出迎えてくれたのは誠の妻、麗華だった。
葬儀の後だというのに、随分と肌の露出が多い服を着ている。これが普段の彼女なのだろうか。
「誠さんは?」
「主人はシンガポールに戻りました」
おかしいな?
「彼は明日のお祓いには参加してもらう予定でしたが?」
「仕事が趣味ですからね。そっちを優先したんだと思います。今は海外の仕事が面白くてしかたないみたいですよ」
いや、それにしても急すぎるだろ。今日は母親の葬儀が終わったばかりだぞ?
行っても明日では??
「今日からは、私がこの家に暮らすことにしたんです」
「…………」
釈然としないが、まぁ、彼女がいうならそうなのだろう。
金持ちの思考はわからんな。
しかし、まいったな。てっきり誠さんがいると思っていた。
こんな綺麗な人と2人きりになるなんて……。
いや、待てよ。家政婦がいるか。そういえば佐藤さんは辞めたんだったな。
「新しい家政婦は雇ったんですか?」
「今、探しています。でも安心してください。今日は私がお茶を入れますよ」
すると、本当に2人きりか……。
……考えすぎかな?
案内されたリビングには立派なソファーが置かれていた。
俺の対面に椅子がないぞ?
横並びはまずいだろう……。
采ちゃんが心配するからな。早く済まして帰ろう。
「俺に話しってなんです?」
彼女はコーヒーをテーブルに置きながら笑った。
「大したことではありません。あの商業ビルについてです。……やっぱり怖くて」
怖い?
昨日、幽霊なんていないと言って笑っていたのに?
彼女は俺に少しだけ体を寄せた。
「今、警備会社を探しています。監視カメラを設置しようと思うんです」
なるほど。霊的な怖さより人間の怖さか。彼女らしいな。
「いいですね。その方が安心できると思いますよ」
「良かったぁ……。夫から聞いたんですけど。物部さんは霊能力をお持ちなんだとか?」
「大したことはありません。少し見えたり、感じたりするレベルですよ」
彼女はグッと俺の方に寄った。
「頼りになります! どうか私を助けてください!」
「何かあったのですか?」
「はい」
もしかして、あの音を聞いたのか?
「何か物音でも聞きましたか?」
「そうなんです。シクシクと啜り泣く女の声です」
女の泣き声?
左衛門じゃないのか?
「とても悲しそうに泣くんです。私も心が締め付けられそうで」
彼女は顔を近づけた。
香水のいい香りが鼻腔をつく。
えらく近い距離だな。まるで俺を誘っているようだ。
「少し落ち着いてください。その泣き声の正体を知りたいというのなら、明日、とても優秀な霊能力者が池を除霊しに来ますから、是非、その時に相談してみてください」
彼女は大きな胸を俺の腕に押し当てた。
「私、寂しいんです。だから、あなたが慰めてくれるなら、それだけで解決します」
やれやれ。
「誠さんから聞いていないのですか? 俺は結婚しています。今日も妻が俺の帰りを待っているんです」
「いいじゃないですか。この家には誰もいません。私の夫はシンガポールですしね。何が起こっても、知っているのは私たちだけですよ。うふふ」
浮気を容認しろというのか。
彼女は艶やかな唇を俺に近づけた。
「ねぇ……。いいでしょ?」
彼女の両手が俺の頬に移ったかと思うと、それは首を掴んだ。
「うぐッ! 麗華さん!? 何を!?」
彼女は笑った。
「ははははははーー!!」
その目は充血して真っ赤である。
彼女は俺の問いかけに答えずに、ただ笑って首を絞めた。
「うぐぅ……!!」
つ、強い。
とても女の力とは思えん。
高笑いは狂気を感じさせた。
「きゃははッ!!」
俺は彼女の手を離して抵抗をやめた。
それを見た彼女の声は更に歓喜を帯びる。
「死んで!」
彼女の殺意の正体。
それは彼女の背後にかかる黒い霧。
俺は彼女に向かって拳を振るった。
「これでも、喰らえ!」
俺の拳は空を切り、彼女の耳をかすめる。
せつな。
『ギャォワッ!!』
まるで、犬が鳴いたかのような悲鳴が辺り一面に鳴り響いた。
俺の手首には春子さんからもらった数珠が掛けてあった。さっき手を離した隙にポケットから取り出したのである。それが、麗華の背後にいる何かに当たったのだ。
それが薄らと淡い光りを発したかと思うと、ドォオン! という爆音とともに爆風が発生した。
まるで、小さな爆弾が爆発したような、そんな威力である。
その風は部屋の家具をめちゃくちゃにした。
俺は3メートル吹っ飛んで、部屋の壁に激突。後頭部を打った。
「痛だぁ!」
痛てて……。格好良くはいかないんもんだな。
彼女は気を失って倒れていた。
「麗華さん。大丈夫ですか?」
彼女は薄らと目を開けて気がついた。
「あれ……。物部さん? どうしてここに?」
どうやら記憶がないようだ。
「な、なんですこれ? 泥棒でも入ったんでしょうか?」
何もかもわかっていないようだな。
「説明は後です。まずは状況把握からいきましょう。どの辺から記憶が無くなりましたか?」
「記憶がなくなった? ……たしか、私は葬儀を終えて、夫とこの家に帰ってきたんです。おそらく、寝てしまったんだと思います」
やれやれ。誠さんは海外に行ったんじゃなかったのか。
おそらく、彼女は操られたんだ。左衛門が俺を殺すために彼女を使った。
そうなると……。
「誠さんが心配です。もしかしたら、この家の中にいるかもしれません」
俺たちは彼を探した。
3階の部屋から、麗華の悲鳴が上がる。
「きゃああああああッ!!」
それは生気の失った誠だった。その首筋には真っ赤な手の跡がある。
彼は操られた麗華に首を絞められたのだ。
幸い、まだ生きているようである。
「まだ、息はあります!」
俺は救急の連絡と共に警察へも通報した。
蔵目邸は物々しくなった。パトカーと救急車が停まり、野次馬も集まる。
警察は家内の防犯カメラを元に事情聴取を行う。
「私、やってません! 記憶がないんです!」
誠が病院で意識を戻し、警察の取り調べが入ると、夫婦のいざこざということで片付いた。
麗華は悪霊に取り憑かれていた。
彼女の背後に見えたあの黒い霧はそういうことだったのだ。
俺が彼女の誘惑に負けていたら殺されていたかもしれない。
春子さんの数珠があって良かった。あれが悪霊を退治してくれたのだ。
翌日。
蔵目夫妻からの連絡で、池のお祓いには夫婦揃って出席することとなった。
朽木 御世が来るのは本日の午後である。
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