第3話 他殺
谷口は苛立った。ドアの叩き方で非常識な客だと思ったのだ。
「チッ! closeの看板見えないのかよ」
女の影は、キッチン越しの灯りに照らされて、ドアの向こうにうっすらと見える。
目を凝らすと、どうやら額をドアにもたれかけて体を支えているようである。
ドアを叩く音はさっきよりも更に大きくなった。
ドンドン!!
谷口は驚く。
「ドアが壊れるって」
彼は、この非常識な訪問者に直接言うことにした。
扉の前に立つと、「はぁ……はぁ……」という女の息遣いが聞こえてくる。
明らかにそこにいる気配。谷口は怒りを表すように、勢いよく扉を開けた。
「すいません! もう閉店なんです!! クッキーは──」
しかし、外には誰もいなかった。
「あれ? おかしいな??」
辺りを見渡すも自分しかいない。
ずる……ずる……。
再び聞こえる音。
谷口は小首を傾げながらキッチンに戻った。
突然、照明が点滅した。
この建物は新築で、電気設備はしっかりしている。だから、彼は地域停電だと思った。
急に足首に激痛が走る。
見下ろすと、真っ白い手が谷口の足を掴んでいた。
「ひぃッ!!」
その手には青い血管が浮いており生々しい。その上、黒いモヤのような霧がかかっており透けていた。しかも、それはシンクの一番下の段から伸びており、そんな場所は猫ですら入るのが難しい。
でも、確実にそこから伸びているのである。
明らかにこの世のモノではなかった。そう確信した谷口は、その手を振り払おうと目一杯力を込めて足をあげようとした。
しかし、その手の力は強くて足はまったく上がらない。シンクの隙間に引き摺り込まれるように転倒した。
「ぬぁあッ!! た、助けて!!」
照明の点滅はパチパチと続く。
そんな中、足首を持っているのは女だった。朱色の派手な着物を着た、髪の長い女。腹を地に付けて這っているのだ。
その体はぐっしょりと濡れており、顔にへばりついた前髪で表情は見えなかった。
谷口は喉に何かを詰まらせた。息苦しさと恐怖で混乱する。
「あぐぐぐぐッ!!」
女は這ったまま後ろに下がる。片手だというのに、その力は桁外れに強い。
谷口の抵抗は虚しく、ぐいぐいと引っ張られた。
女の荒い息遣いが聞こえる。それは疲れというより興奮に近い。
谷口は喉に指を突っ込んで、詰まった遺物を取り除こうとした。
「げはッ!!」
口から出てきたのは大量の目玉だった。その大きさは明らからに人の物。
「ひぃいいいッ!!」
頭の中は恐怖しかなかった。
女はぐいぐいと引きずる。
女郎々池が見える窓まで来ると、女はガラスを透き通って外に出た。
「ああーーッ!!」
翌朝。
女郎々池周辺はパトカーが何台も止まって慌ただしくなっていた。
買い物から帰ってきた里絵が通報したのである。
再び女郎々池で水死体が上がったと、テレビのニュースで報道された。
死亡者はカフェ・ナチュレムの店長、谷口 優斗。
何者かに殺害された、とのことである。
●
谷口先輩の葬儀から数日が経った。
俺の姉、京子はこの殺人事件を必死に追っている。しかし、その手がかりは全くない。
最も怪しいとされた暴力団の抗争の件は早々に消えた。各川組は他の組とは争っていなかったのである。
俺を含め、あの祝賀会に参加したメンバーは全員、警察の事情聴取を受けた。勿論、第一発見者の里絵さんもである。
しかし、どの供述も裏がとれてしまった。周辺の監視カメラを調べても不審人物は見当たらない。捜査は暗礁に乗り上げたのだ。
京子と俺がキッチンで軽く晩酌をしていると、手芸サークルの飲み会で遅くなった母親が楽しげな顔をして帰ってきた。
京子は直ぐに母の前に立った。
「母さん。今、夜出歩くのは本当に危ないのよ。お願いだから、こんなに遅くなるのはやめて」
「ははは。大丈夫よ。山の方には行かないから」
「そんな問題じゃないの。とにかく、落ち着くまではお願いだから、ね?」
こんな姉は初めてである。
姉ちゃん……。
「捜査……。上手くいってないの?」
警察には守秘義務がある。ましてや、俺は事件の容疑者の一人になっているのだ。しかし、姉はビールをくいっと飲み干して話し始めた。
「手がかりゼロよ。谷口の場合、妻が一番怪しいわ。夫の財産が全て彼女の物になるんだからね」
里絵さんに限ってそれはないだろう。
「でも、犯行時刻に彼女は街へ買い物に出ていた。スーパーの監視カメラにも映っているしね。それに、体重75キロの男を彼女が引きづれるとは思えないわ」
先輩は店から20メートル離れた水辺で見つかっている。池には彼の体が這った跡が残っていた。
「共犯者がいるってこと?」
「それも無いわね。彼は一人で池の中に行ったんだから」
「どういうこと?」
「池の周辺には彼が這った跡があった。でも他に足跡が見当たらないのよ」
なんだそれ?
「じゃあ自殺ってこと?」
「それもない。彼は3日前に結婚指輪を買ってるの。しかもグアム旅行を計画してね。遺書もなしに旅行の前日に自殺するなんてありえないでしょ」
たしかにな。でもまさか、あの先輩が指輪を買っていたなんて。里絵さんが不憫だな。
でも、そうなると、やはり他殺が濃厚だな。
「じゃあ、道具を使ったのかな? ロープとかさ。薬で眠らして、先輩を引きずった」
京子は大きくため息をついた。
「それが考えられないのよ」
「考えられない?」
「外傷がないのよ。擦り傷以外ね」
「犯人と争った形跡がないってこと?」
「それは少しだけあるわ。キッチン周辺が荒れていたから。でも決定打にかける。薬の使用は見当たらなかったしね。体にロープの跡も残さずに75キロの体を引きずれるかしら?」
……謎だな。
「じゃあ事故か」
「事故にしては動機が不明すぎるわよ。体を這って池に近づく理由がなに一つないもの」
「でも、一人で池に入って溺れたんだよな?」
「一つだけ、気になる点がある。暴力団組員、金田の時もそうだったんだけどね。喉に小石が詰まってたの」
小石?
「彼に小石を飲み込ませた後、なんの道具も使わずに店の窓ガラスを蹴破り池まで引きずった。しかも足跡一つ付けずによ」
なんだそりゃ?
「超能力、みたいだな」
京子は更に大きくため息をついた。
「そうね……。超能力よ。それしか考えられない。捜査当局は頭を抱えてるわ。前代未聞だってね」
超能力か……。
俺にはこれがあるけどな。
目を細める。
俺は京子の後ろにうっすらと黒い霧のようなものを見た。それは次第に人の形を現して、男の姿になる。
もしやと思ったけど。まさか本当に見えるとはな。
それは悲しい顔をした谷口先輩だった。
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