第2話 女郎々池
翌週の日曜日。
俺は大学の谷口先輩の店を訪ねた。新装開店の祝賀会に誘われたのだ。
彼はカフェを経営するのが目標だった。その夢が叶ったのである。
そこは2階建ての商業ビルの1階。白を基調にしたお洒落な店だった。
看板には『カフェ・ナチュレム』の文字が見える。
谷口夫妻は10人集まった友人に挨拶をした。
「今日は俺達の店に来てくれてありがとう。場所を聞いて驚いた人もいると思うが、一番驚いているのは俺達なんだ」
なんと、この店がある商業ビルはあの女郎々池の横に建てられていたのである。
池はS市内にあった。その周囲は約500メートル。周辺には葦が生えた湿地帯が広がっており、自然豊かな公園と隣接している。
店は山を登る道路に面していた。山の上には小さな神社が点在していて、参拝だけならず、ハイキングなどでも有名だ。
そんな集客を見越して作られたのがこの商業ビルだった。
そして、その道路の延長線上に女郎々池が存在するのである。
各川組、若頭の金田が、この池で死亡したのは1週間前のこと。まさかこんなことになるなんて、夢にも見なかったろう。
集まったみんなは、そのことを心配した。
先輩はそんな空気を読んで自ら話し始めた。
「あの例の事件が店の経営に影響するのは間違いないだろう。しかし、俺にはこれがあるのだ!」
高く掲げたのは先輩自慢の手作りクッキーである。果菜が使われた野菜クッキー。
それはネット通販で好評で、テレビにも取り上げられるほどだ。
彼はその売上でこの店を作ったのである。
「俺にはこの野菜クッキーがあるから安心してくれ。この店に客が来なくとも、当分は食っていける! 俺の野菜クッキーは無敵だ! ヤクザの抗争なんかに屈しないのだ! ヌハハ!!」
みんなは笑った。先輩の態度に安心したのである。
俺達は酒を飲み、先輩が用意してくれた料理を食べた。
先輩の妻、里絵さんは綺麗な人である。俺達夫妻の横で酒を飲んだ。
「ウチの奴は能天気だから困るのよね」
「ははは。まぁ、そこが谷口先輩の良いところですから」
里絵さんは俺達の結婚指輪を見てため息をつく。
「はぁ……。羨ましい。私達、式も上げてないんだから」
先輩夫妻は先日入籍したばかりだ。
「……先輩。その辺、うといですからね。でも里絵さんのことは愛してますよ」
「まぁね。それがわかってなきゃ付いてかないわよ」
俺の妻、采ちゃんは彼女のお腹を羨ましげに見つめた。
「体調大丈夫ですか?」
「ちょっとつわりが酷くて嫌になるけどね。5ヶ月くらいから安定するみたい」
彼女は妊娠3ヶ月。発覚して入籍に至ったわけである。
「え……と、采ちゃんは?」
「私の方は……。がんばっているんですけどね。不妊治療もなかなか万能じゃないみたいで……」
俺達は子供ができにくいようだ。采ちゃんは2年前から不妊治療に通院している。
「大丈夫! まだ若いんだし。きっと授かるわよ! 可愛い赤ちゃん!」
「えへへ。そうですよね。希望を持って頑張ります」
「今日はさ。野菜クッキーを多めにプレゼントしちゃうわ!」
「里絵さん、それ店のクッキーですよね? 悪いです」
「いいのいいの。これは健康にいいんだから。沢山食べて強い体にならなきゃ」
それを見ていた先輩が目を見開く。
「おいおい里絵。それをあげちゃあ、また焼かないとだな……」
「働きなさい。采ちゃんを応援したくないの?」
「ま、まぁそうだな! ははは! よし! んじゃあ持っていけ物部夫妻よ!!」
流石に気が引けるな。店の邪魔しちゃまずいだろ。
「いや、先輩、気持ちだけでいいです」
「なにを言う。後輩の幸せは俺の幸せでもあるのだぞ。……まぁ、クッキー焼くのに休日は潰れるがな」
「やっぱり遠慮しますよ」
「そうはいかん。先輩の好意を踏み
ははは……。まいったな。
俺達は箱一杯の野菜クッキーを貰った。当分、おやつには困らないだろう。
先輩夫婦は本当に優しい。この店が上手く軌道に乗ることを切に願う。
●
祝賀会から数日。
物部 翔太の願いは届かず、店の経営は思わしくなかった。
隣りに見える女郎々池には黄色いロープが設置され、そこに注意喚起の看板が掛けれていた。自然豊かな優雅さは消え、なんだか物々しい。その池に近づく者といえば、車内の窓越しに噂をする程度となってしまった。
谷口は時間が必要だと考えていた。
この場所は見晴らしがよく、立地がいい。事件が落ち着けば客が来ると確信したのである。
よって、1週間ばかりグアムへ旅行をすることにした。遅めの新婚旅行である。
本日は最終日。明日からグアム。期待が膨らむ、そんな夜だった。
谷口は店を閉めた。closeの看板をドアノブにかけると店の掃除を始めた。
電話の横の引き出しには里絵に隠している物がある。それは小さな箱で、結婚指輪が入っていた。
「へへへ。奮発したからな。里絵の奴、グアムに行ったら腰抜かすぞ」
谷口は心が弾んだ。嬉しくて仕方がない。念願の店は持てたし、来年には父親になる。店は閑古鳥が鳴いているが、野菜クッキーのおかげで収入は安定している。なんの不自由もないのだ。順風満帆だと確信していた。
そんな谷口に妙な音が聞こえる。
ずる……ずる……。
何かを引きずる音。
里絵は街へ買い物に出ていた。店のテナントはガラ空きで、商業ビルには自分しかいない。
「蛇、にしては音が大きいな。狸か狐が獲物を咥えて歩いてるのかもな」
周辺は動物が多かった。谷口は特段気にする様子も見せず掃除を続けた。
すると、誰かがドンドンと店のドアを叩く。
今は夜の7時。少し早い閉店だった。
野菜クッキーを持ち帰りで販売していたので、それを買いに来た客だと思った。
店の灯りは消している。わざわざ顔を出す必要もないと思った谷口は、キッチン越しに声を出した。
「すいません! もう閉店なんです。クッキーはネットでも買えますから!」
キッチンの灯りはドアの外をわずかに照らす。ガラス越しのドアには髪の長い女の姿が映っていた。
ドンドンッ!
ドアを叩く音はさっきより大きくなった。
まるで、何かに腹を立てているように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます