ずりめろう〜遊女の霊がやって来る〜

神伊 咲児

第1話 覚醒

 俺は物部もののべ 翔太。29歳の会社員だ。

 結婚して3年目の普通のサラリーマン……。だったと言うべきだろうか。

 同僚との飲み会で、こんなことが起こるまでは。


 その場は同僚のにしきが心霊スポットに行った時の話題で持ちきりだった。

 彼が自慢げに見せているのは、山中にある廃墟で撮影した写真らしい。

 スマホの画面をスライドすると、1枚だけ明らかにおかしかった。

 同僚の女は眉を寄せる。


「これヤバイね。オレンジの光がさ、錦君に被ってるし」


 錦は楽観的な男だ。みんなが怖がっていることが楽しくて仕方ない。


「俺、死んじまうかもな。ははは」


 俺はベロンベロンに酔っていたので、その写真で笑いでも取れればいいと思っていた。


「女の子2人にお前1人かよ。ハーレムじゃん。一夫多妻制は日本で禁止なんですけどぉお」


 錦は小首を傾げる。


「は? 友達の美咲ちゃんと2人で行ったんだよ。俺は彼女しか狙ってないんだからな。ハーレムとか笑えん」


「ははは。何言ってんだよ。じゃあ、この隣りにいる髪の長い女は誰だよ?」


「…………」


 錦は少し考えたものの、何かを察したように大声を出した。


「うわっ! 本当だ! 写ってる! モロだこれ!!」


 彼の声に場は盛り上がる。


「やだ! 本当、怖いから辞めてよ。そんなの見えないし!」


「本当だって、なぁ物部!? 髪の長い女がさぁ、写ってるよなぁ!?」


 なんか反応がおかしいな。持って行きたい話はそっちじゃないんだ。

 俺の目には錦の後ろに写る、哀しげな顔をした髪の長い女が見えるのだから。


 もしかして、みんなには見えてないのか?


 ふと、錦を見ると息を飲んだ。

 酔いが冷めたと言っていい。彼から2、3歩退く。


「おい、どうしたんだ物部、そんな怖い顔してさ。もう演技はいいって。しつこいとウケないぞ?」


 彼の後ろに写真の女が立っているのだ。

 それは黒い霧のように透けていた。


「う、後ろ……」


 俺は震えながら指を差した。


「はぁ? 後ろって……。お前、マジでやめろよな」


 青ざめた俺の顔を見て、錦は眉を寄せた。ゆっくりと振り返る。


「……なんにもないじゃねーーか!」


 錦は俺に羽交い締めをかけた。


「てめぇこの野郎! いつの間にそんな演技力を身につけた! ちょっと騙されたっての!!」


 その場は大いに盛り上がった。俺以外は……。


 本当に見えてないのか? 


「に、錦……。体とか大丈夫か?」


「体? そういえば肩こりが酷いな。仕事疲れだわ。ははは」


 彼の後ろには長い女が正気のない顔をして立っていた。


 確実に写真の女である。

 錦は取り憑かれたんだ。幽霊に。


 酒に酔ったのが原因なのだろうか? 理由はさっぱりわからないが、どうやら俺は……。


 


 霊の姿が見えるらしい。







ーーある池のほとりにてーー



 闇夜に男の顔が浮かんだ。

 それは玉汗をかき、凄まじい形相である。


 男は藪を漕ぎ、息を切らして走っていた。理解しているのは女に追われていることだけ。


 男は考えた。薬中にして、風俗に沈めた女は数知れず。その誰かなのだろうか、と。

 暴力などは日常茶飯事。恨みを買うのは当たり前。心当たりが多過ぎて、追って来るのが誰なのか皆目検討がつかないのだ。


 男は女の名前を列挙して聞かせた。しかし、追ってくる者は返事をしない。ただ「はぁ、はぁ」と息を切らす。


 男の心臓は破裂しそうなほど伸縮を繰り返した。


 地面が湿地帯に変わって、男の足が泥に取られると、硬い葦をバキバキと折りながら転倒した。


 たまらず、叫ぶ。


「悪かった! 助けてくれ! このとおりだ!」


 男は気配で察した。女は自分を許さないと。ふくらはぎに激痛が走ったかと思うと、真っ白い女の手が肉を掴んでズルズルと引きった。


「ひぃい! 助けてくれぇ!!」


 男は喉に何かを詰まらせると、その息苦しさでもがき始めた。

 男の体が動く度に葦を掻き分ける。ガサガサとけたたましい音が闇夜に響く。

 葦の群生を抜けると泥状の水辺が広がった。


ずる……ずる……。


 男は息も絶え絶えで、ただ泥を掴んで抵抗した。


 空に浮かぶのは鎌のように鋭い三日月だった。




 翌日。

 ニュースで報道されたのは、女郎々池で発見された水死体の事件。

 それは暴力団の組員。各川組の若頭、金田だった。

 舎弟の通報により発覚したのである。






 ●






 飲み会が終わった翌日。


 俺達夫婦はいつものように実家の朝ごはんを食べていた。

 母親の飯は美味い。たまたま互いの家が近いだけなのだが重宝させてもらっている。

 妻の采ちゃんには特に都合がいい。彼女は専業主婦なのだけど、食事を作らない分、他の家事に専念してもらえる。また、父は20年前に事故で他界しており、実家は母と姉の2人暮らし。なので、息子の俺が顔を出すのは母親にとっても嬉しいことなのだ。


 テレビでは女郎々池で水死体が見つかったニュースが報道されていた。

 母は顔を曇らせる。


「組の抗争に巻き込まれたのかしら? 怖いわねぇ」


 それに答えたのは姉の京子だった。


「あの辺、夜は人気ないし。みんなは近づかないでね。これ以上、仕事増やされたら、私が困るんだから」


「京子。そんな冗談やめなさい!」


「別にいいじゃない。日曜日に出勤する哀しさってやつよ。いいわよね翔太はさ。采ちゃんと一緒に休みで」


 姉の京子は警察官だ。32歳で警部補。刑事科に所属している。

 本人曰く、若手の美人警部補らしい。とにかく署内ではモテモテなんだとか。その割には婚期を逃している。


「姉ちゃんは今回の事件の担当?」


「当たり前でしょ。女郎々池は、我が家から車で20分の場所よ。そんな近くで事件が起こったんだから、担当するに決まってるわよ」


 京子は朝ごはんを早々に済まして立ち上がった。


 俺は声を出してしまう。


「あッ!!」


「なによ? あんたもトイレに行きたいの? 私に譲りなさいよね。今日も仕事なんだから」


 そんなことではない。


 彼女の後ろに男が立っているのだ。


 それはさっきのニュースでやっていた、各川組の若頭、金田の顔にそっくりだった。

 いや、多分、間違いなく金田だろう。スーツの襟についた厳つい金バッジは暴力団のものだ。

 でもなぜ、金田の霊が姉ちゃんに?


「……ヤクザって怖いからさ。気をつけてな」


「あら、気を使ってくれてるの? 可愛い弟ね。采ちゃんごめんね。うちのはシスコンで困っちゃう♡」


「早くトイレ行けよ」


「はいはい♡」


 京子がトイレに向かうと、金田の霊もついて行った。


 姉ちゃんは取り憑かれてるのか? 除霊とかどうしたらいいんだろう?


「母さん、塩ある?」


「は? あんたトーストに塩かけるの?」


「いいからくれよ」


 俺は塩をラップに包んで用意した。


 除霊といえば塩。

 映画とかテレビでよくやってるもんな。こんなのが効くのかわからないけど、無いよりマシだろ。


 突然。妙な音が聞こえる。



ずる……ずる……。



 何かを引きずる音。

 

 廊下には何も見えないが、それは姉を追うように聞こえた。


 なんの音だろう?


 トイレから京子が出てくると、俺は塩を渡そうとした。


「あれ?」


「どうしたの? トイレ空いたわよ?」


 消えてる。

 金田の霊がいなくなった。


 塩の効果? いや、まさかな。

 でも、確実に、いない……。


 俺は何度も目を凝らしたが、姉の後ろには何も見えなくなっていた。

 ヒールを履いた彼女は振り返った。


「じゃあね。愛しの翔太ちゃん。お姉さんは愛しているぞ。んーーちゅ♡」


 俺は京子の投げキッスに目を細めた。対応するのはウザいから無視である。


 俺の嫁、采ちゃんが見送りに顔を出す。


「お姉さん。行ってらっしゃい。今度買い物行きましょう!」


「おーーいいね! 行こ行こ♡ んじゃね! 行ってきまーーす!」


 不思議だな。どうして金田は消えたのだろう? 成仏したのだろうか?


「翔くん。お姉さんが心配なの?」


「……あ、うん。ちょっとね。ヤクザ絡みだしね」


 采ちゃんに向かって意識を集中すると、白い霧のようなモノが見えた。

 それは彼女の父親だった。心配げに采ちゃんを見つめる。

 

 彼女の父親は生きてるのだが?

 これは、つまり……生き霊だろうか。


「そういえばさ。最近、采ちゃんの実家に帰ってないね。今日、ちょっと行ってみる?」


「本当? 嬉しい! 父さんから心配するラインが入っててさ。顔見せなきゃって思ってたんだ」




 そこは車で1時間。俺達は彼女の実家に行った。

  

 采ちゃんの両親は優しくて、急な訪問だというのに豪勢なお昼ご飯をごちそうしてくれた。

 彼女の父親は満足そうに笑う。


 なんだか複雑な気分だよ。俺はこの人の生き霊を見てここに来たんだからな。


 采ちゃんをもう一度見たが生き霊は見えなくなっていた。

 おそらく、父親の不安が解消されたから、生き霊も消滅したのだろう。


 何か、特別に強い想いがある時にだけ、霊は現れるようである。

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