佐原春乃の最悪な朝 ②

 ちょっとだけ時間をさかのぼる。

 思えば今日は、目覚めた瞬間からツイていなかった。


 朝7時に鳴るはずのスマホのアラームが鳴らず、気が付いたのは8時。

(寝る前に充電コードに差し忘れて、寝ている間にバッテリーが切れていた)


 急いで朝食を食べようとしたらテーブルの醤油をこぼし、シャツにぶちまけて着替えるはめになるし。それでも思いっきり自転車を漕げばギリギリ始業に間に合う見積だったのに、悉く信号赤だし、途中で前輪パンクするし。数年に一度の厄日が炸裂し、私は生まれて初めて学校を遅刻した。


 始業時間から15分遅れ、学校へ到着。

 あれ?と最初に違和感を抱いたのは、昇降口から1階の教室へと向かう廊下だった。


 やけに、シン、としている。いつもなら朝のホームルームが終わり、友達同士で喋ったり、移動教室やらでたくさんの生徒が行き交って騒がしいはずなのに。生徒も先生も、誰一人学校にいないような、そんな静けさだった。


 おかしいなぁ、と思いつつ自分の教室に入ると、私は目を疑った。

クラスメイトも先生も、いた。いるにはいた。しかし、その状態は誰ひとりとして“通常”ではなかった。机に突っ伏しうなだれる者。窓の景色を眺め無気力にボーっとしている者。教室の角で体育座りをしている者。


「え……何コレ……?」


 端的に言えば、みんな、極端に“生気”を失っていたのだ。男女問わず、3年7組35名全員、目が死んでいる。何が起きてるの?何がどうしてこうなったの?なんかもうこの光景……ホラーなんだけど?


「あ~~~~~~~……貝になりてぇ………」


 掠れるほど弱々しい声でそうつぶやいたのは、クラス担任の大澤先生だ。

 普段は、

「シャキッとせんかぃぃぃ!!!!」

が口癖の“40代独身パンチパーマ時代遅れ体育教師”ですら、ナイキの赤ジャージ姿で教壇の上に寝転んでいる。もう見る陰もない。

いやホントに……これは一体……?


「まだ生き残りがいたか」


 後ろから声がしてハッと振り向くと、教室後ろのドアの横に一人の男が立っていた。

 実験用白衣を身に纏い、顔にはサングラス。額には、なぜか黄色のハチマキ。


「……誰?あんたが……これを?」

「まあな。なに、心配すんな。こいつらは少し、生きる希望を見失ってるだけだ」

「いや心配するでしょ!何生きる希望を見失うって…推しが芸能界引退でもした!?何でこんなことになってんの!?ていうかどうやっ……」

「あー、うるせぇーなあ」

 男はたるそうに、動揺する私を諌める。

「大丈夫だ……お前もすぐにこうしてやるよ」

 そう言ってニヤリと、薄気味悪く笑った。


 やばいやばいやばい……。全く状況は理解できないままだが、十中八九このグラサン男から離れないといけないことは直観的に分かった。


 私は本能のまま、教室を飛び出した。誰かに助けを求めようとあてもなく校舎を走ったが、私のクラス以外の教室にも、廊下にも、どこを探しても、いるのは言葉もなくうなだれる、“生気”を失った人ばかりだった。私は一人で、執拗に追いかけてくるあの男から逃げ回るしかなかった……。


 というのが、さっき無様に転ぶまでの今日のわたしである。

 いやしかし、まったく持ってツイてない。


 床にお尻をついたまま、ひねった左手首のジンジンとした痛みに耐えている私を、男は立ったまま見下ろし、再びニヤリと笑う。

「これで終わりだ。……まあ粘ってよく逃げ回った方だとは思うぜ?」

 男はそう言って、ズボンの後ろポケットから何かを取り出し、私に向けた。

「えっ……」

 体が、自然に強張り、血の気が引くのを感じた。向けられたものが、一瞬、“銃”に見えたからだ。ただ、よく見ると違った。命を奪う道具にしては、あまりにも重厚感がないし、色がクリアブルーなのもおかしい。


「水鉄砲……?」


 それは、どこからどう見ても、“プールや海で、水を中に入れて遊ぶアレ”であった。銃口は銃口でも、私に向けられたそれからは、明らかに鉛が出る気配はない。追い詰められた緊張感と相まって、私は急に拍子抜けした。

「えっと……ギャグのつもり?」

 はいコレ全部ドッキリでしたぁー!とにこやかに種明かしをされる期待を込めてそう聞いたが、男はにこりともせずに、だったら良かったな、と話し始めた。


「この水鉄砲から放たれる水には、ある“薬品”を融解してある」

「薬品?」

「そう、我々のボスが調合した特殊な薬品さ……。安心しろ、そんなに危険なモンじゃねぇ、ただ、少しでも触れたり、吸ったりすると、ああなる」


 男はクイ、と顎で、自分の左側を指した。

 2年生の教室だった。開きっぱなしの引き戸から見える室内の様子は、私が自分のクラスで見たものと同じだった。一人残らず、生気を失っている。

「あー……小石になりてぇ……」

 やっぱり、この状況はこいつの仕業、いや、こいつら、なのか。さっき「ボス」とか何とか言ってたし。薬品を融解した水鉄砲?あれに撃たれて、学校中のみんなは“生気”を失っちゃったってこと?頭の中で状況を整理しようとすればするほど、そんなバカバカしい話、とどうしても思ってしまうのだが、困ったことに、これは実際に目の前で起こっている現実だ。

「笑えないわね」

と余裕しゃくしゃくの男に向かって精一杯強がってみたが、多分表情には隠し切れていない。変な汗が、変な所から湧き出てくる。イヤだ。あんな無様な姿にはなりたくない。小石だの貝になりたいなんて思いたくもない。

男は、再び私に銃口を向けた。


「まあ、いきなり信じろっても無理な話か……だったら、身を持って実感させてやんよ」


 男の荒唐無稽な話を信じるならば、見た目は普通の水鉄砲でも、あれに撃たれるのはマズい。こうなったら、いちかばちか、だ。私は心の中で腹をくくった。


 グラサン男が水鉄砲の引き鉄を引く瞬間、とっさに私は、さっきつまづいた大きな模造紙と床の間に右足を入れ込み、えい、と力を込めて上へ蹴りあげた。

模造紙はふわりと、男の方へと持ち上がった。

 バシャッ!!

 間一髪、蹴り上げた模造紙が「盾」のような役割を果たし、水鉄砲から放たれた水から私を守った。

「なっ……!」

 模造紙の奥に、不意をつかれて驚く男の顔があった。

 うまくいった!

 と同時に、教室側の壁、フックに体操着袋やバッグがかけられている並びに、クラスの剣道部員のであろう竹刀が立て掛けてあることに気付いた。一度も触ったことなどないが、とっさに私は柄の部分を握り、入れ物から抜き出す。立ち上がると同時に、竹刀を両手で横に持ち、思いきり男の両すねをバシン!と叩いた。


「いってぇぇぇ!!!!」


 男は思わぬ不意打ちに表情をゆがませ、悶えた。右手の水鉄砲は手放さなかったけれど、数秒前までの冷静さも、私に狙いを定める余裕もそこにはなかった。その隙に、私は再び全速力で走り出した。


「くっそ、待て!」


 と男は叫ぶも、スネの痛みに耐えられず、追うにも追えずにその場に倒れこんでいる。いやまぁ、絶対めちゃくちゃ痛いと思うけど、同情してる余裕なんてないんで……。

「ごめーん!」

 と走りながら、お詫びを一言入れる。気持ち、我ながらまったくこもってないけど。



第1話 佐原春乃の最悪な朝 おわり

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