第9話

 気付くと、時計は夜中の0時を回っていた。部屋には彼方此方にスケッチ画やらイメージ画がインクで書き散らかしてあって、うたた寝でもしていたのか私の前にある画用紙は幾つも幾つもインクの漆黒のシミが垂れては広がりして、なんとも酷い有様になっていた。見ていると憂鬱になって吸い込まれてしまうんじゃないかと思われるくらいの黒さに、ぞっとして慌てて破り捨てた。

 私の絵はインクで書く。それも黒だけで。

 昔、銭湯で子ども達に描いていたのも黒インクだった。それしかなかったと言うのもあるのかもしれない。おかみさんのいらなくなった古いインクをもらって、割り箸の先を削って鉛筆みたいにして、それにインクを浸けて描いたのが最初だった。

 白い画用紙の上の黒だけの世界。きっと私の心はまだこんななのだとも思う。色彩に挑戦しようとした事もあったが、まだ上手くはいかない。結局、黒で描く方が安定してしまうのだ。

 よく、眺めていると寂しくなるとか、怖いなんてコメントをもらっていたのも事実だった。どうやら、私の絵本の読者は子どもよりも大人が多いらしかった。つまり子ども向けではない。だからこそ、もっと安心して読める子ども向けの続き物シリーズをと薦められたのだ。

 私にとっても良い経験だと思ったので引き受けはしたが、何しろこんな状況と若干不安定な心情で本当に描けるのだろうかと、部屋に散らかったラフ画を拾い集めながら今更ながら不安になってしまった。

 お腹減った。なにか食べよう。

 ヒンヤリした台所に行って、冷蔵庫を開けた。手前に2日前の鮭マリネの残りを見つけた。他は私が作ったレモンのマーマレードと、2人の永遠のお気に入りブルーベリーコンフィに近いジャム。バターとナチュラルチーズの塊、智お手製のラー油、梅干しに粒マスタードとコーヒー豆、それに細々とした調味料なんかが収まっている。それに卵。

 野菜庫にはトマトと白菜とシメジ、それからレタスがあった。あまりの空腹で、冷凍庫まで覗く前に卵を半熟の目玉焼きにして、焼き上がったチーズトーストに乗せて、残り物のマリネにレタスを少し足して一気に食べた。どかどかと胃袋に食べ物が流れ落ちていく音が聞こえた。ある程度落ち着くと、インスタントのコーヒーを飲もうと、やかんにたっぷり水を入れて火にかけた。

 外は冷たい木枯らしが吹いているらしく、窓ガラスが寒そうに震えている。カーテンを閉めなければ。ストーブにあたってウトウトしながら、そう思った。

 視界の隅でやかんが湯気を立て始めていた。それでも動けずに私の意識は遠のいていきそうだった。何だか、疲れたな。

 

 勢いよく鳴り響く火が消される音と大量の蒸気で私は目が覚めた。やかんのお湯が吹きこぼれていた。やっと我に帰り、立ち上がった。

 体がだるい。コーヒーを入れるのも億劫だったので、そのまま火を消し戸締まりをして布団に潜り込んで寝てしまった。




 途方もなく寝ていたのだと思う。

 どのくらい時間が、下手したら日にちが経ったのかすらわからないくらいに、ひたすら眠っていた。

 目を開けると、明け方とも夕暮れともとれる弱々しい光が磨りガラス越しに滲んでいた。

 千鳥足で起き上がって窓を開けると、空はプリズムを通って屈折した光をたくさんの水で薄く伸ばしたような色合いをしていた。色を秘めているくせに、凍てつくようにやけに白い。耳が痛くなるくらい静かで、今までの時間となにかの始まりとの間に位置するような空白。例えば太陽の光が溢れ輝く朝。例えば穏やかな闇が広がる孤高で優しい夜。そんな色々な時間の始まりを予感させるような序章を秘めた空。寂しいけれど新しい希望が広がる空。

 冷え過ぎて山葵が利いた時のように痛くなってきた鼻を押さえた。とりあえず、お風呂に入る事にした。

 風呂桶を洗ってお湯を張っている間、居間のテレビをつけた時だった。懐かしい声が聞こえてきたのは。なにかのCMだったと思う。よく覚えていないのは、声そのものに集中していたせいだろうと思う。

 落ち着いた低い声の後ろに重なって、やんちゃっぽさが見え隠れする智の真っ直ぐな声は、テレビのスピーカーから出てきて、瞳孔が開いていると思うくらいに意識の飛んだ私の体に滲みていった。そして、強い力で一気にこっち側の現実に、宛てがある訳が無く何となく漂っていた私を引き戻した。

 この声が愛おしいと全身で感じた。私はこの声をずっと聞きたかったのだと悟った。

 気持ちの奥底に眠ったままにしていた大切な事が膨らんで弾けた気がした。恋しさで視界がぼやけそうだった。

  智・・・!智・・・! 帰ってきて! この家に帰ってきて!

「涙の正しい使い方は、人の為に泣く事なの」

 死んでしまったおかみさんがよく言っていた。私がよく夢をみたり、白昼夢に苦しめられてして堪らずこっそり泣いたりしていた頃。

 赤い目の私を見ておかみさんは叱るでもなく優しく言ってくれた。

「涙って言うのは結構ちょっとした時に頻繁に出てくるよねえ。でも、いくら雨ちゃんがそういう名前だからって、緩みっぱなしはよくないの。良い涙じゃないと幸せが逃げていっちゃう。感動の涙、貰い涙、欠伸の涙、同情の涙、他人の苦しみが解った時の涙なんかは良い涙。悲しい涙、悲観の涙、苦しい涙、怒りの涙は自分の為に流すから良くない涙だよ。どんなに大変でも、自分で自分を哀れんじゃいけない。そんな事をしても何もならないどころか、増々抜け出せなくなるの。雨ちゃん、いいかい。泣くなら自分以外の人の為に泣きなさい。雨ちゃんが自分で泣かなくても、必ず誰かが雨ちゃんの為に泣いてくれてるんだから」

 私の為に泣いてくれる人はいるのかわからないと言うと、おかみさんは泣きながら抱き締めてくれた。

「あたしは泣いてるよ。雨ちゃんのお母さんとお父さんもあの世で泣いているよ。ごめんね、ごめんねって。それに、これから必ず雨ちゃんの傍にいて泣いてくれる人達がたくさん現れるから。雨ちゃんはその人達の為に泣くのよ。だから今、涙を無駄使いしちゃいけないの」

 ああ、私が泣くその人達の中に、おかみさんやご主人や子どもらや銭湯のお客さん達が入っていればいい。この銭湯や、初めて降りた駅や、座り込んだ山の入り口なんかが入っていればいいと思った。そして、誰かの為にだけ泣こうと決めた。もうどんな時も決して自分を嘆き悲しむのはよそうと。

 おかみさんが死んだ時、私は残された人達の苦しみと悲しみの為に泣いた。私がおかみさんがいなくなった事に対して自分の悲しみで泣いてしまったら、きっとおかみさんは喜ばないと思ったから。本当はとっても辛かったけど、ここでおかみさんの伝え残した事をやめるわけにはいかなかった。

 そうだ。落ち着け。私は混乱に陥りそうな涙を必死に堪えた。なにか気を逸らさないと。

 テレビを消して、部屋の中を何週か歩き回り、再びソファーに戻った時。脇にあるチェストの上に置いてある籐籠の中に、いつかの穴空き靴下を見つけた。繕うからと言って、あのまま放置してすっかり忘れていた。

 私は倒れるように我を忘れ、その靴下の穴を確かめ、丁寧に穴の周りの糸同士をくっつけて縫い固め、更に上から似た様な薄い色の毛糸で編んで重ねて補強した。

 原型より温かくて明るい感じの色合いに出来上がった。片方だけだと何なのでもう片方も同じように補強した。そんな事をしているうちにすっかり気が紛れていた。編みながら思った。

 私と智もこうやって穴が空いただけなのだと。元通りにはならないけど、また上から違った色で編み足して補強していけばいいんだと。それはある意味では先に進んでいると言う事になる。

 だから、穴を恐れたり悲しんだりしていないで、その穴をどうやって埋めるか、何色で埋めるかを2人で考えて編み進めていけばきっと大丈夫なんだ。きっと、もっと幸せにだってなれる。

 お風呂が溢れた音がして、私は急いで止めに行き、そのまま入った。

 たっぷりのお湯に遠慮なく思いっきり飛び込み、温まってきた血液を冷えて縮こまっていた心と体の端っこまで循環させた。

 目を瞑り、大きく安堵の溜息を漏らすと、さっきまでの不安が嘘みたいだった。

 ・・・すき焼き食べたいな。

 そうだ。お風呂からあがったら、とびっきり暖かい格好をして、すき焼きの材料を買いに行こう。途中で蒸したての肉まんを買って頬張りながらのんびり歩いて行くのも素敵。

 母と暮らしていた時も、銭湯でお世話になっていた時も、なにかあると頻繁にすき焼きが食卓に乗った。お祝いや元気を出す時、なにかの行事なんかの時のちょっとしたご馳走だった。あの独特のお肉とネギと焼き豆腐と白滝が、間違いなく美味しい味ですと匂いで主張している焦げ茶色のお汁にぐつぐつぐつぐつ煮えて絶え間ない活気で動いている様。それを鮮やかな黄色い卵に絡めて食べる瞬間。家族や好きな人達と一緒に食べる為の幸せの食べ物だとしみじみと実感する。

 私はお風呂から出て、ありったけ着込んで、智が見つけてくれた青いピアスをつけた。


 外はすっかり暗くなっていて、ようやく今が夜なんだとわかった。

 冷たい風が吹いてはいたが、厚着に毛糸の帽子とマフラーと毛のブーツの下の体は足の先まで温まって心地よく、本当にいい気分だった。

 人が少ない小道を抜けて、電車が頻繁に行き交う線路沿いを通って、まずお菓子屋に。タイミング良く最後の肉まんが蒸し上がったところだった。子どもみたいな気持ちで大きな肉まんを貰い、かぶりついた。柔らかい白い皮とそんなに多くはない肉汁が湯気と一緒に口に広がった。おいしい・・・

 歩きながら空を見上げると、群青色と藍色の水性絵の具をたっぷりの水でのばして、幾重にも乱雑に重ねて塗ったみたいだった。それを見ていて思い出した。

 まだ母が生きていて私が小学生だった頃、こんな空の絵を描いたんだ。そしてその絵が先生にえらく誉められて、しばらく廊下に張り出されてあった。

 母はすごく喜んでくれて、その日の晩ご飯は豚肉だったけど、たっぷりの具が隙間なく揺れているすき焼きだった。目の前の湯気の向こうにニコニコ笑う母の顔があって。いくらおかわりしても、まだまだたくさん残っているすき焼きが楽しそうに音をたてていて。私はただもう嬉しくて。お腹一杯になっても欲張って口にたくさん詰めて夢中で食べていた事。

 生き生きと思い出されてきて、それは今までの色々な思い出と一緒くたになって私の頭を埋め尽くしてしまった。

 全ての色々な事や思い出は、なにか見えない糸かなにかで細かく繋がっているような気がして仕方なかった。なんだか全てが別々の関係ない事とは思えなかった。

 関係なくはないか。私と言う直接結んでいく中心がいるんだから。これは私の記憶と出来事だから、私が知らずに同じキーワードを手繰り寄せているのかもしれない。そうやって手繰り寄せた中から本当の幸せを見出して気付いていくんだ。そしてそれは智とも。


 賑やかな音楽がまだ流れている夜20時のスーパーで、牛肉のパックを選び、もう片方の手ですき焼きの材料をたくさん入れたカートを押して私は買い残した物はないかと考えた。

 そうだ。ビール。もうなかった。せっかくだし。私も飲みたいし買って行こう。肉をカートに入れて、アルコール売り場に向かった。

 ビールコーナーには、びっしりと様々な種類のビールが押し合いへし合い並んでいた。どれがいいのか目がくらむ。

 智が好んで買ってくるのはいつもカラメル色の瓶の・・確か金色のラベルをした・・恵比寿様が描いてある・・そう。これこれ。

 同時に隣から白っぽく荒れた大きな手が伸びて、私が掴んだ同じ銘柄の瓶を取った。

「あ・・・」

 低くて懐かしい声に振り向くと、そこに買い物籠を持った髭が伸び放題になって、煤けたみたいに全体的に黒っぽくなった智が立っていた。

 驚いた事には、智の籠の中身は私のとほとんど変わらないすき焼きの材料らしきものが入っていた。おかしくておかしくて、思わず指して笑ってしまった。本当に繋がっている。

「すき焼き?」

 智も私のカートを覗き見て、本当にいたずらっ子みたいな調子で言った。

「すき焼き」

 私達は笑いながら言い合った。私はおかしくて笑い過ぎて涙がたくさん出た。

「やっぱり、特別な日はすき焼きだよな」

「うん」

 空いた穴はどんなに大きくてもどんなに大変でも、これから2人で編み上げていける。もっと丈夫でもっと明るい色にしていく事だって出来るのだ。

 それは、継ぎ足し継ぎ接ぎのあまり見栄えは良くないものなのかもしれないけれど、愛情と言う毛糸や糸がたくさん編み込まれて詰まっていて、2人にとっては何より暖かくて心地良いものなのだ。お互いの為に涙を流し、お互いを本当に裸で愛し合いながら。こうして私達は生きていくんだな。手を繋いで、それぞれに買い物袋を提げ、私達は家までの帰り道を踏みしめるようにして歩いた。

 2人の周りを所々で灯る電燈に合わせて前後左右ぐるぐる好き勝手に動いているたくさん着膨れた影は、まるで二匹の大きなみの虫みたいに見えた。

 空にはいつのまにか白蝶貝みたいに艶やかな月が出ている。それを見上げながら私は笑った。

 今度の絵本は小さなみの虫を主人公にしよう。智みたいな。クレヨンで太い毛糸みたいな色をたくさん使って。

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靴下に空いた穴 御伽話ぬゑ @nogi-uyou

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