第8話

「ただいま」

「・・・・・・おかえり」

「? 何? またなにかあった? やけにテンション低いけど」

 昼別れた時の言葉の様子とは違う私に気付いて、智は聞いてきた。けれど、早くお風呂に入りたいらしく、服を脱いだりしながらだったので、そこまで心配しているという風でもなさそうだった。

「まさか、またこの前の客が来たんじゃないだろうな」

「ううん。違うよ」

「じゃ、何?」

 私が何と言って良いのか迷っていると、短気な智は待ち切れなくなって風呂に入りに行ってしまった。

はぁ・・・自分が頼まれた責任の重大性に気が重くなった。何だって私がこんな事を話さないといけないのか。苛々とフライパンを火にかけて豚の生姜焼きを作った。生姜たれの食欲をそそる様な匂いが充満した。

 風呂場からは、聞いただけで湯気まで想像出来そうなくらいのポチャンとかザザァーといった類いの水音と、智がいい気分の鼻歌が聞こえてきた。ある筈ないのに桶のカポーンという音まで聞こえてきそうだった。あの山の銭湯も、毎日暖かいこんな音の類いが開店から閉店まで絶え間なくしていて、波々としたお風呂に入った時に思わず出てしまう安堵の溜息と一緒に、色んなお客さんのつやつやとした笑い声や、明るい話声やなんかが響いていて、それだけでただ安心出来たのを覚えている。

 私はちゃんと世間の人の中にいるんだと。ここではみんな私自身を見て、本当に普通に話しかけてくれる。そんな当たり前の事が、裸同然で付き合ってくれる事がとても嬉しかった。私はセックスだけではなくて、人との色んな意味での接触が怖かったのかもしれない。自分の境遇を卑下するあまり、あの男が手伝って作った狭い世界の殻に閉じこもってしまっていたのかもしれない。だから、男とのそれしか見えなかったんだ。部屋に座って男を待っている時、いつも自分にとっての何もかもが終わってしまったような気分だった。

 けれど、銭湯で働いている間はいつでも誰かと接していたし、いつでも誰かたくさんの人の大きな存在を感じていた。人生と言う荒波を乗り越えて生きてきた人達だけに感じる凄みとでも言うべき温かさが、あそこには隅から隅まで溢れ出ていた。いつでも白っぽい新鮮なお湯が波々と満たされていた大風呂みたいに。そこから時々外に流れ出してしまうお湯なんか気にもならないくらいの限りない寛大さがいつもあの場所を包んでいたんだ。あそこの人々は自分の過去を話題にするなんて野暮な事決してしなかった。

 いつも水色のタイルをブラシで擦りながら、大きな富士山の壁絵を見てよく思った。

 知ってる人も知らない人も裸同士で一緒に湯船に入って、笑って、温まって、気持ちが解されて、ゆったりして人間のとっても良い部分が見えやすくなるんだ。だからそれぞれに良い時間が流れていって良い雰囲気が出るのかもしれない。

 結局私は、セックスと言う裸の触れ合いで傷ついたけど、別の意味での裸の空間に癒されたんだな。避けるのではなくて違う面を見ていく事で治していける事もたくさんあるんだと。そしてこれからもっと色んな事を学びながら生きていくんだなと。

 私にとって特別なお風呂の音は、それがどんな音であろうといつでもなにかしらの影響を与えてくれる。

 話さなければいけない。智がどんな気持ちで逃げているのかはわからないけれど、私が偶然奥さんに会った事にはきっと意味があるんだろうから。私達2人にとってのなにか大切な意味が・・・

 私はご飯の支度を済ますと、テーブルに座って例の紙切れを見つめながら智が出てくるのを待った。

 その紙切れには流暢な字で数字と名前が丁寧にさらっと書いてあった。紙を横に傾けると、今にもスルスルッと流れていきそうな感じだった。彼女は一体どんな気持ちでこれを書いたんだろう・・・

 お風呂場の脱衣所から騒がしい音がしだしたので、私は急いで紙切れをポケットに隠し、冷蔵庫からカラメル色の瓶ビールを取り出してグラスに注いだ。夕ご飯の美味しそうな匂いと、グラスの中でキラキラ光りながらあがってくるビールの泡。それに、お風呂上がりの濡れた髪の智。

「はい。何だか、すごく所帯染みて感じるね」

「ありがとう。 そんなもんでしょ」

 グラスを受け取って、智は一気に飲み干した。それから二杯目を継いで居間のテレビをつけた。

「いただきます」

 生姜焼きは美味しかった。空っぽのお腹に心地よい刺激を与えながらズンチャカズンチャカ入っていく。智は脇目も振らずに夢中で食べている。良かった。

 これから話す事を考えるとふっと暗い気が差したけれど、今、目の前で私が作ったご飯をがっついている智のいる当たり前の景色が、私を励まして大丈夫だと言ってくれているみたいな気がした。

「・・・今日、人が来たの」

 結局、話を聞いた時の智がどんな顔をするのかをまざまざと見るのが嫌な私は、食べ終わって洗い物をしている智の後ろから、切り出した。

「どんな人? いじめられなかった?」

「女の人。その人は智を訊ねてきたんだって」

 そこまで言っただけなのに、何も反応が返ってこなくなった。私の次に言う言葉に耳を澄ましているような沈黙だった。

 私はなかなか次の言葉が出て来なかった。なにかを口にするとこの景色に音をたてて罅が入ってしまいそうだったから。かつて私と智が白黄緑色の小さい電燈の下に立ち竦んでいた時の空気とは似ているようで全く違う種類のものだと言う事が、変わらずに続いている洗い物の音でハッキリわかった。

「そう言えば、雨が、いつか片方だけなくしたピアスあったじゃん?青い雫みたいな」

 急に話を逸らした。話したくない事や嫌な事、面倒臭い事に対して智が取る行動の1つだった。最近は滅多になくなったが、最初の一年程はよくやっていた。つまりごまかしたい。話したくないのだ。

「あれさ、俺あの後・・」

「紙を渡されたよ。やり直したいって。2人の問題から逃げないで戻ってきて欲しいって」

 私は智の話をいきなり無理矢理遮り、要約して智の背中に向かって一気に言った。そして、紙切れを智の煙草の横に置いた。私があの人に頼まれてしまった事は、何はともあれやり仰せたのだ。

 重荷が降りた疲労感と、これから起こるだろう不安感が混じって、奇妙な空白が生まれていくのを感じながら私は何となく天井を見上げた。ホーロー製の白い電球傘に小さな黒い蜘蛛が張り付いているように静かにとまっていた。寒くて半分眠っているからそんなに動きがない。

 蜘蛛と同じように智も微動だにせず、何も言わなかった。私も何も聞こうとは思わなかった。

 とりあえず、私達はそれから何も話さずいつも通りに過ごし、眠りについた。


 次の日も、その次の日もほとんど言葉を交わす事が出来ず、更にちょうど入った智のナレーション関係で行き違いの生活を送った。けれど、朝、目を覚ますと智が隣にいる事はやっぱり変わらなかった。どんなに苦しい空気が2人の間に流れても、それだけで私は安心出来たのだ。

 けれど3日目の朝、目を覚ますと、とうとう智は消えていた。正確にはいなくなっていた。服や荷物はそっくりそのまま残されていたので、持ち主だけがいなくなったのだ。

 私は特別驚かなかった。何となく、智は色んな事を彼なりに考えたのだろうし、私に話す話さないと言うレベルの問題以前に彼自身で何とかしなければいけない事だと思ったからだった。

 どうして智がその問題から逃げているような形を取っていたのかは、私にはわからない。けれど、いつかどうにかしなければいけないという気持ちは彼の中にずっとあった筈だと思うし、その為のきっかけを私なりあの彼女なりが与えたのだと思う。遅かれ早かれ避けられない事だったのだと思う。

 台所のテーブルの上には、私がなくした筈の青い雫型のピアスが置かれて、凍てついた窓ガラスから差し込んでくる鋭い冬の朝の光を反射して、青く美しく本物の宝石のようにキラキラと輝いていた。

 これからどうなるのかなんて何も考えられなかったし、予想もつかなかった。このまま智が帰ってこない事だって充分有り得た。それとも、後で荷物だけ取りに来るかもしれない。

ああ、いいや。考えたくない。何も。私はただ、ここでいつも通りに生活していくしかないのだ。そう思い、私はトーストと牛乳を温めて飲むと、仕事部屋兼書斎に籠った。

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