第7話

 ある晴れた昼過ぎ、私は智の急に入ったナレーションの仕事の為に、昼から代わりに店番をしていた。

 あの事件以来、智は警戒して私に頼もうとはしなくなったが、今日はどうしても午後から取り置きしていた品を取りに来るお客さんがいたので私が急遽いる事になったのだ。

 別にもうなんともなかったし、私もそんな気にもしていなかった。私の中で宙ぶらりんになっていた部分は、智の力を借りてちゃんと過去と言う部屋の与えられた場所に収まっていたし、すこぶる安定していた。

 ちょうど絵本の続き物シリーズを持ちかけられていたので、それについての案と想像を膨らませていた最中だった。前作の黒猫を題材にした絵本がかなり好評だったので、その勢いでお願いしますと依頼が来たのだ。主人公はどんなものにしよう?なにか虫がいいな。

「すごいじゃん。売れっ子絵本作家! じゃ、悪いけど頼むね」

 例によって細かく指示をして、智はさっさと出掛けてしまった。恐らくもう警戒の波が去ったのだろう。用心深いくせに、案外そのブームは思ったよりすぐ終了する。

 アクシデントが来た時に、その場で対処すればいい。来ないうちは心配しても仕方ない。それが智の考えだった。なんとお気楽な楽観的な。けれど、きっとそのくらいの方が逆に楽に生きて行けるのかもしれない。

 確かに今しか見てなさ過ぎるのは若干危険があるけれど、まだ起こっていない先の事を考えてあれこれと思案しているよりは、今だけを見て全力投球真剣に生きた方が素敵だ。とっても素敵。後悔しなさそうだし。

 智と一緒にいるのが長くなれば長くなる程、その天の邪鬼で不思議だと感じる生態に意を突かれる事も少なくなってきた。それは私が智に慣れてきたからかもしれない。智ワールド。いつか私も智みたいになれるのかな。そういえば、私は彼の過去は未だ全くわからないな・・・

 そんな事を考えていたら、女の人に声をかけられた。さすがに例の一件で学習した私は、出来るだけの精一杯の笑顔を取り繕って返事した。

「いらっしゃいませ!」

「智、いますか?」

「いえ。智は今いませんが」

 普通に言ってしまってから、何となくおかしい事に気付いた。智を呼び捨てにしている。今まで会った智の友達や知り合いは、誰もそんな風に呼んでいるのを聞いた事がなかったのだ。

 この人は?

 私は改めて目の前に佇んでいる小綺麗なさっぱりした感じの女性を見つめた。私よりも少し年上くらいだろうか。少し栗色っぽい長い髪を黒いロングコートに柔らかに垂らし、開きの大きな胸の形がハッキリわかる白いニットのセーターを着て、丈の短いスカートに高いピンヒールの黒いブーツを履いている。黒めがちな子犬のような愛らしいパッチリした目に、気の強そうな赤い口元がよく似合う。

「あの・・」

「あなたは智の恋人かなにかなの?」

「え・・・はい」

 彼女は首を横に振って、まったくうんざりと言った感じに大きく溜息をついた。

「困るのよね。一体何年消息たてば気が済むのかと思ったら、こんな人まで作っちゃって。まったく、どういうつもりなのかしら・・・」

 半分独り言とも取れるくらいの内容と声の大きさで、彼女は私に向かって呟いた。

「私は智の妻です。別居してはいるけど、私達、まだ正式に離婚してないのよ」

「はぁ・・・」

 何もかもが初耳だった。そうだったのか。智は結婚していたのか。しかもまだ離婚していない。

「私はやり直す気があるの。それなのに智はいくら電話しても音信不通になってて、親族からはドヤされるし本当に大変だったのよ。この店の事だって、最近知ったの。智は何も教えてくれなかったから」

「そう なんですか」

「あなた、何も聞いてないの?」

「え・・・あ、はい」

 一瞬、彼女は私を射る様ような厳しい目付きで見つめた。が、思い直したらしく丁寧に言ってきた。

「あなたには悪いけど、智に伝えて頂戴。私はやり直したいから連絡して欲しいと。2人で解決していかなければいけないたくさんの問題を放置したまま勝手に一人だけ逃げないで欲しいと。お願い」

 私は何も答えられないまま呆然と突っ立ていた。急過ぎて頭がついていけないのだ。頷いたか頷いてないかはわからない。だけど、彼女は名前と電話番号が書かれた紙切れを私の手に握らせて、何度も何度もお願いと頭を下げて店を出て行った。

 残された私は、状況が今イチ把握出来ずに、何も描いてない真っ白なスケッチブックを眺めて続けていた。まるでさっきの彼女のセーターみたいな色だった。そこに、彼女の身に纏っていたような黒色で、彼女が言った事が書き出されそうだった。

 智はたくさんの現実問題から逃げている。そう彼女は言った。私は手の中に握った電話番号の書かれた彼女の紙切れを無意識に握った。

 そして、智とやり直したいと。つまり、<再び夫婦として一緒に家庭を築いていきたい>と・・・

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