第6話

 あの一件以来、私は店番禁止となり、ナレーションの仕事が一段落ついた智が店に出ていた。

 私自身も抜け殻のようになってしまい仕事もほとんど手につかず、家で塞ぎ込んでばかりいた。

「ただいま」

 夕方、智が帰ってきた。中途半端な濃さの墨で適当に塗られたみたいな真っ暗になった居間のソファーに膝を抱えて、まるで打ち捨てられたお地蔵さんのように私は座っていた。

 智が暗過ぎるんだよと言い、家の電気を至る所点けてまわった。彼は暗いのが陰気臭くて嫌いだった。

「夕ご飯、どうする? 俺、ちょっと疲れたから 少し休む」

 そのか細い声のトーンに私は智を振り返った。智は目の周りをクマのように薄黒く膨らませ、一気に老け込んだ顔をしていた。顔の毛穴とかしわとか色んな部分から、疲労感が滴り落ちていた。私は本当に後悔した。私はあれから一体、どのくらいこの人を放置していたのだろう。もう確実に一週間は経っている。

「ごめん・・・私、作るよ」

「そうしてもらえると助かる。俺、ちょっと寝るから。出来たら起こして」

 立ち上がった私と入れ違いに智はソファーに倒れ込んで、いびきをかき始めた。よっぽど疲れていたのだ。私は毛布を取ってくると上からかけた。智は固い表情で戦場の兵士のように沈み込んで眠っている。

 台所に行って、ある材料を適当に出すとポトフを作り始めた。半年前くらいに智と作ったソーセージが幾つか残っていたらいいなと冷凍庫を探した。智は料理が好きだったので、いきなり薫製を作ったり、漬け物を始めたり、干物を作ったりとその時のブームで色々と手を出していた。私もそういった所謂家庭的な事が好きだったので2人でよく作っていた。

 智は一人で晩酌もよくするのでもしかしたらつまみに食べてしまったかもしれないと思ったが、ソーセージは奥の方にまるで今日のポトフを待っていたようにひっそりと6本、行儀よく並べられていた。セージ、ナツメグ、コリアンダー、カルダモンなんかの私の好きなハーブがたっぷり入って、更にニンニクや粗挽きペッパーなんかもたっぷり入った特製だった。

 ジャガ芋と人参とキャベツとセロリと大根と長ネギと玉葱をざく切りにして、ついでにシメジも軽く分けてソーセージと一緒に鍋に入れながら私は思い悩んだ。

 智に正直に私の底に存在する事を話した方がいいのだろうか。果たして、それを智に言う事は私達に必要な事なのだろうか?

 智は何も聞いてこない。それは彼の優しさや思い遣りなんだと思う。私が話すのを待っているのかもしれない。それともやはり私と同じで智も話す必要も聞く必要もないと考えているのか。どれも定かではなかった。私は野菜の入った鍋にコンソメとローリエとブラックペッパーを入れて水を注ぎストーブの上にかけた。それから雑穀米を固めに炊いた。

 智と私の事なのに、そんな憶測でしかものを考えられない自分が、いかにこの付き合いを真面目に考えていないのかを気付いたようになって何だか嫌気がさしてしまう。まったく私はいい加減な女なのだ。ストーブの青い美しい炎は、そんな私と対比して気高く静かに燃えている。まるで私の心を映し出すように。大切ななにかに気付いてご覧と囁いている様に。

 そうだ。あれから何年も経っているのに、どうしてこのタイミングで過去を思い出すのだろう? 嫌でも思い出すような事になったのだろう?

 偶然とは思えない。必然だとしたら、これからの私の為にもなくてはならない事だったのかもしれない。思えばこの3年、ほんの時たま夢をみて断片を思い出すくらいでそんなに深く考えた事はなかった。ようやく傷が癒えたのだと、忘れられたのだと勝手に思い込んでいたのかもしれない。だけど、本当はいつもちゃんとそこにあって私を待っていた。

 智といた方がいいと思った時から、いや、それよりもっと前から、私があの男から逃げて来た時から、ずっとその部分だけが変われなくて、忘れられも出来なくて、宙ぶらりんになって無意識に避けていた私が再び向き合うのを待っていた。そうかもしれない。

 これは私自身の問題なんだ。だけど、私だけではどうにも出来なくて、ちゃんと踏まえて進む事も出来なくて、ただ何となく置き去りにしてしまった問題なんだ。こうして智を含んだ現実に、それがハッキリと姿を現した事にはきっと意味があって、私はこの問題の収容先を決めないといけないんだ。そして、それを今私に一生懸命寄り添っている智に話さないといけない。

 話す事によって、智が嫌な思いをするかもしれない。もしかしたら、それが原因で嫌われてしまうかもしれない。この生活も終わってしまうかもしれない。だけど、それはやっぱり仕方ない事なのだとも思う。

 私達の関係は、きっともう第一章を通り過ぎようとしていて、新しい章に入っていこうとしているのかもしれない。だからこそ、お互いの事を話したり知ったりする事は必要な事なのかもしれない。

 ストーブの上の鍋から、ほわんほわんと美味しそうな色をした湯気が立ってきた。

 食いしん坊の智はきっと匂いにつられて目を覚ます。ホイッスルのようにかん高い音がして雑穀米も炊きあがった。目の前に広がる現実は温かく限りなく無限に広がっていて、私達はいつでも手を握れるくらい近い所にいるのだ。その全てが弱くて情けない私に優しく滲んで、先に進んで行く勇気をくれる。

「うまそうな匂いだ」

 智が頭をかきながら、冬眠から目覚めた熊みたいにぬっくり起きてきた。その声も顔も憑物が落ちたようにさっぱりとして見えた。私は安心した。

「あのさ・・ごめん」

「回復 した?」

「ん・・・うん。何となくわかった」

「何が?」

「先にご飯食べよう。それから話すから」

「そうだね。腹減ったー」

 私達は向かい合って粒マスタードをたっぷり添えた熱々のポトフを食べた。智はうまいうまいと、ご飯共に2杯もおかわりした。

 人間にとって食べ物は本当に大切なんだと、私はなにかある度に思う。智が作った火傷しそうなおでんも、動揺していた私を穏やかに落ち着かせてくれた。いつもは特に考えなしに何気なく口にしている食べ物は、その実私達人間に様々なプラスの力を与えてくれる奇跡なのだと思う。

 もちろんその時の状況、場所、一緒にいる相手、どんな物かという事も充分関係あるんだろうけど。それを抜きにしても、普通に感じる。感じる事が出来るようになったのかもしれない。

 予告なく、あの男に飼われていた部屋の景色が過った。オレンジ色の夕焼けが眩しく差し込んで来る窓にもたれて、スリップだけの格好をした私は、シミだらけで彼方此方白く剥げた畳の上に蹲り、あの男が買ってきたコンビニのパンを不味そうに小さくちぎっては口に運んでいる。時々、窓の外や周りに投げ散らしながら。夕日に透ける髪が覆い被さった私の顔には生気がなかった。まるで、石膏像みたいだ。

「ごちそうさまでした」

 智は空いたお皿を集めて手早く洗い始めた。そして珍しくラベンダー入りの甘いミルクティーを作ってくれた。私が好きでよく飲んでいるのを知っていたので気を使ってくれたらしい。

 ラベンダーが緩やかに香りたつミルクティーを前にして、私達は向き合った。なにから話せばいいのか少し迷ったが、とりあえず私がこんな状態になってしまった事から話した。


「私には親がいないの。母は父が死んでしまってから、ずっと1人で働きずめで過労が重なって、私が高校を卒業したくらいにぽっくり死んじゃったの。元々体が丈夫な人でもなかったし、特別綺麗な人でもなかった。ただすごく優しかっただけ。両親は反対されても駆け落ちまでして無理矢理結婚したみたいで、私は全く身内がわからなかったの。でも、もう高校生じゃなかったし、バイトしながら何とか一人で生活していた。だけど、なにかあった時には寂しくて不安で仕方なかったわ。料理もあまり出来なかったから、毎日塩ご飯や蕎麦とかうどんとかを茹でて食べたりしていた。そんな暮らしが一年くらい経った頃、私は夜なかなか寝付けなくて、夜の町をフラフラ徘徊したりしていたの。そして、公園に座って夜の町を眺めていた時に、ふらりと隣に座ってきたあの男に捕まった。」

 私は一度言葉を切った。智は興味深そうに煙草を点ける事もしないで聞いている。

「あの男って?」

「私をずっと養っていた人。親族とかじゃない。他人。最初はとってもいい人だったわ。新宿でクラブを経営していた。話を聞いてくれて、大変だったねって言ったの。これからは俺と暮らそうって言ってくれたわ。私は拾われた様な形になって、男の家に置かれる様になった」

「置かれるって? よくわかんないな。付き合う事になったって事でしょ」

「違うの。置かれていた。愛は・・あったのかはわからない。私はただ寂しくて、人恋しさだけだった。男には他にも女はいたみたいだった。私は飼われていたの。でもちゃんと仕事はしていた。私は男に言われたホステスの仕事をして、男の部屋で帰ってくるのを待った。詳しくはわからなかったけど、大きな親族があったらしくて、男はその中のみそっかすみたいな存在だったみたい。男はいつも酔っぱらって帰ってきて私を抱いた。と言うより私に色々させた。誰かと付き合った事がなくてそういう知識すらなかった私はそういうものだとずっと思っていたの。男は、私の事を俺の物だとずっと言っていたから」

「俺の物・・・」

 智が眉間に僅かに皺を寄せ、何処か苦々しく低く呟いた。

「うん。でも、男のする事が徐々に荒々しくなっていった。私はよくセックスしながら叩かれたし、蹴られたし、殴られたわ。多分、男は麻薬かなにかでもやってたんだと思う。でもその頃になると私も、神経も麻痺してしまったらしくて逃げようと思う事すら出来なくなってた。私はマインドコントロール紛いのやつに完全に嵌っていたのだと思う。痛くて痛くて、毎日がひたすら怖かった。終いには血だらけになって、それでも男はやめなかった。血だらけになって、首を掴まれながらセックスさせられた。目の前が真っ赤で何が何だかわからなかった」

 私はミルクティーを飲んだ。智も私につられて飲んだ。すると、不思議とそれまでの切迫していた表情が一気に和らいだ。ラベンダーの力だと思った。

「2年くらい経った頃になって逃げなきゃって、やっと思い始めたわ。逃げないと殺されるって。でも、男に暴力ふるわれるのも怖かったけど、世間でやっていけるかどうかも怖かった。何しろ男に入り浸った生活に慣れ切っていたから。内緒で準備しようともした。その度に見つかって。とうとう何も持たずに飛び出したの。電車に飛び乗って何処まで行ったかわからないけど、適当な駅で降りて住む所を探したわ。だけど、当たり前だけど、身寄りも何もない私に貸してくれる部屋はなかった。早くも行き詰まって、でも帰れなくて私は宛てど無く彷徨った。気がついたら山の登り口みたいな所まで来ていた。どうしようかと思ってそこに座ってたの。辺りは暗くなって、徐々に寒くなってきた。山の中からは、狸かなにかの動物らしき得体の知れない様な鳴き声や叫び声もしていて怖くて仕方なかった。こんな何も無い汚れたシミみたいな私はこのまま山に入って、なにか神聖な山の動物にでも食べられた方がよっぽどマシなのかもしれないとも思った。急に例えようもない不安が襲ってきて、近くに設置してあった公衆電話に何度も目が行った。あの男に迎えにきてもらった方がいいのかもしれないとか考えて挫折しそうになった・・」


「もうどうしようもないで泣き出しそうになって、ふと見ると温かそうな灯りが点いた宿みたいな古い建物が、少し先に湯気を立てる様に建っていた。真っ暗な山のシルエットに囲まれて、周りに幾つか灯っている家々の頼りない蛍みたいな光よりもっと大きくて優しい、例えるなら、お祭りの縁日を照らすたくさんのぶら下がった提灯みたいな活気のある明るさだった。私は吸い込まれる様にそこに近付いて行った。そこは銭湯だった。地元に住んでいる様な馴染みのお年寄りとか夫婦とかが中に吸い込まれては、又違う人達がニコニコした温泉卵みたいな顔をして出てきた。私はポケットの中を探った。まだ少し小銭があったから、迷わず中に入ったわ」

「気持ち良かった?」

「とっても。少しお腹が減ってたけど、天国みたいだった。人間って、暖かくするのと食べるのってとっても大事ね。その時つくづく思ったわ。大丈夫。私はこれから何とかやっていけそうって希望が湧いてきたの」

「そう。良かったね。そこに銭湯があってさ」

 智はようやく煙草を巻いて火を点けた。どうやら安心して聞ける段になったらしい。

「それで、どうなった?」

「あがって脱衣所で服を着ている時に、鏡に貼ってあった働き手募集って書いてある紙を見つけたのよ。大急ぎで番台に掛け合ったわ。何でもやりますからどうか住み込みで働かせて下さい!もう帰る所もないんです!お願いします!って・・・」

「銭湯のご主人はよくよく私の話を聞いてから、黙って泣いてくれた。ここにいなさいって言ってくれたの。本当に嬉しかった。救われた気がした。私はそこで働く事ができたの。その時に、一緒に住んでいた子どもさんの相手をして絵を描いたり話を作って聞かせたりしているうちに、何だか評判になって、おかみさんの知り合いに出版社の人がいるから試しに会ってみたらどうだって事になって、今の私があるの」

「そうだったんだね。その銭湯は今でもあるの?みんな元気なの?」

「もう銭湯はなくなっちゃった。ご主人は元気なんだけど、おかみさんは癌で2年前に・・」

「会いに行ったりしてるの?」

「うん。時々。電話もしてる。私の事を実の娘みたいに可愛がってくれて、絵本が売れた時もすごく喜んで大泣きしてくれて。年内におかみさんの御墓参りも兼ねて訊ねようと思ってる」

「そうだね。それがいい。俺も一緒に行っていい?」

「え・・ う、うん! もちろんいいよ」

「良かった」

 智は目を瞬かせながら、ゆっくりと鼻から煙を吐き出した。白髪混じりの鼻毛が出ている。満足そうに無精髭だらけのピンクの口をアヒルみたいにして。涙袋が笑ったときみたいにぷっくりしている。

 私は吹き出してしまった。そしてとても嬉しかった。

「ありがとう」

「? 何が?」

「色々」

「そうだよ。雨のお守りは大変なんだから」

 この時程、智の事を尊敬した事はなかったのかもしれない。そのくらい私は智をすごいと思った。

 普通に育ってきた人間はみんなこうなんだろうか?それとも智は特別なのだろうか?

 私が思い悩んでいた事をひょいっと飛び越えて、何も無かった顔をして先の方で待っている。それはもしかしたら才能なのかもしれない。だから智の周りにはいつも素敵な友達が多くて、楽しい雰囲気が満ちているのだ。

 その夜、私達は寝室で、テレビをつけっぱなしにしてセックスをした。本当はミュージックDVDを見ていたのだけど、どちらからともなく自然にセックスしていた。

 智とのセックスは優しく暖かで緻密に満たされた行為だった。気持ちが良い。私はあの男以来、セックス恐怖症になってしまっていた。けれど、智とは全く自然に出来たのだ。不思議だった。それだけ私にとって智は特別だという事なのかもしれない。私は安心しきって、幸せに身を委ねた。

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