第5話

「おい。あんた何やってんの?」

 店番も今日で2週間目になろうという夕方だった。例の如くお客が来ないのを良い事に、私は自分の仕事に集中していた。今日中に終わらせなければいけない改稿作業があったのだ。パソコン画面ばかりに気が向いていたせいで、恐らくそのお客が入ってきて更に話しかけたのに気付かなかったらしかった。何やってんのと言われて、反射的に意識が反応して気付いたのだった。

 その中年くらいの柄の悪そうな男は、私を舐め回すようにじろじろ見て、大袈裟な調子で言ってきた。

「あんた、ここの店員だろ? ここの店は客がいらねーのか?」

「いえ・・ すみません。気付きませんでした」

「気付かないなんて事ぁねーだろお? 俺ぁ何回も話しかけたんだ。大体にして、あんたさっきからパチパチパチパチ偉そうに何してんだ?」

 何だか面倒臭い事になってしまったなと思って、見えないように智にメールを打った。

「俺ぁな、よくこの店で買ってやってんだ。その客に向かって、何だその態度は?」

「はぁ・・すみません」

「あんたバイトか? 店長はどうした。店長を出せ!」

「生憎、今出てるんです」

「早く呼べ!お客が呼べって言ってんだ!あんたじゃ埒があかねぇ」

「はぁ・・・」

 その客は増々ヒートアップしていく。手が付けられないし、もし本当にお得意さんだったら困るので仕方なく智に電話した。智は3コールで出た。帰り道らしかった。

「どうしたの?」

「なんか、怒ってるお客がいて・・・」

「何で怒ってんの?」

「わかんない。私が気付かなかったから?」

「はあ? よくわかんないな。それで何て?」

「店長出せって。よく買っている客なんだぞって」

「そんな横柄な常連なんて、俺知らないけどなぁ」

「そう思うけど、私じゃ手がつけられないの」

「わかったよ。今ちょうど向かってたから、あと10分かからずに行けると思う」

「うん。ありがとう」

 智の頼もしい落ち着いた声に幾分安心して、電話を切った。男は店内を品定めでもするように見て回っている。そして、1つの汚い壷を何処からか持って私に近付いてきた。

「おい、俺に失礼な事したお詫びにこの壷1つくれりゃ、店長に上手く言っといてやってもいいんだぜ」

 呆れた。何を言ってるのか。男はさっきと打って変わって、厭らしく笑いながら私の前に壷を置いた。

「いいえ。無理です。出来ません」

 私はハッキリと断った。それが良くなかった。男はたちまち逆上して思いっきり私の胸ぐらを掴んだ。殴られる!とっさにそう思って反射的に目を瞑った。

「僕になにか御用ですか?」

 真っ直ぐで大きな智の声が入ってきた。その声はさっきの電話の声とは違って冷たく突き放すような凛とした声だった。持ち上げられて苦しかった首から急に力が抜けたので、私はその場に崩れ落ちるようにしてしゃがんだ。目の前が白くぼやけた。その視界の中で、鮮血みたいに赤いものが大きくなったり小さくなったりしてチラ付く。 まさか・・こんなとこで蘇るなんて・・・

「この女、俺につっかかってきやがった。一体どういう教育してんだ? この店では客を客として扱わねーのか?」

 全くの濡れ衣を着せられても、私は首を横に振るしか何も言えなかった。息を激しくついて、体が動かなかった。視界が滲む。増々赤が広がっていく。もう誰が誰だか見分けがつかない。

「お客さんはなにか買おうとしたんですか?」

「俺か? まだだ。何があるか見てたらな、勝手にこの壷を売りつけてきやがって、断ったら暴言吐いてきやがったからーさすがの俺も切れたのさ!」

 出鱈目ばかりを並べ立てている。頭蓋骨に生温いお湯を入れられたような感覚だった。お湯の中で脳みそがゆっくりと波打って揺れている。私はしゃがみ込んでいるのもやっとだった。智の声がする方向を見上げた。途端、赤色が切れて智が見えた。智は相手を見据えたまま微動だにしない。まるで、目を逸らしたら負けといった獣同士の戦い。感情を秘めた黒曜石ででも出来ているかのような目は冷静だった。

「成る程。それでお客さんは何処からこの壷を持ち出してきたんです?」

「これか? これは、それそこの隅の方に転がってたのさ」

「で、これをうちの店番が売りつけようとしたと」

「そうだ。こんな小汚い壷をよ!」

「そりゃそうでしょうね。だって、これは売り物じゃないですから」

「は?!」

「いや、売り物じゃないんですよ。ほら、ここに非売品って貼ってあるじゃないですか」

「どれ・・あ、本当だ。って事はこのやろう商品にもならないものを売りつけようとしやがったのか!」

「いやいや。お客さん、もういいでしょ。商品じゃないものを、わざわざ売りつけたりしませんよ。特にこの壷はタダ同然で、儲けになりませんから。うちの店番は愛想がないのが売りみたいな人間ですから、わざわざ商売っけを出して売り込むなんて芸当出来ませんよ。うちの店はあくまでお客さんが自ら選んで納得したものを買っていくだけのそっけない店です。店員にそれ以上のなにかしらのサービスを求めるのでしたら、大型店やチェーン店なんかに行って騒いだ方がちっとは良い対応をしてもらえるんじゃないですか?こんなちっぽけな店で、揉め事を起こした所で警察ざたになって終わりですよ」

「何を・・・!」

「ちなみに、今、あなたしっかりとその子の襟首掴んでましたからね。僕が目撃者です。知ってますか?先に手を出した方が悪いって」

「お客を舐めてんのか!」

「僕は、あなたみたいなマナーも守れない横柄で我が儘な人間をお客だなんて思ってない」

 今や智の声は氷点下を思わせる冷酷な声だった。店を責任を持って守っていく店主の声なんだ。

「あんた、そんな事言っていいと思ってんのか!」

「こっちにもお客を選ぶ権利があるんでね。出てって。二度と来るな!」

 そう言って、智は悪態をついて喚いているその男を外に放り出した。それから警察に電話しているようだった。私はただ蹲って、埃だらけの水中みたいに見える床を焦点も合わなく見つめていた。また赤色がチラチラチラチラ飛び始めた。ここは一体何処だろう?まるで記憶の前後関係がわからない。

「雨、大丈夫か? 危なかったな」

 智が私を立たせてくれた。私は上手く足に力が入らずに智に凭れ掛かるような格好になってしまった。足も手も震えていて使い物にならない。智は抱き締めて背中を優しく撫でてくれた。

「怖かったろう。もう大丈夫だ。警察にも連絡しておいたし。 帰ろう。 帰って、なにか暖かい物でも食おう。な。 俺が作るから。何がいい? 何食いたい? おでんでいい?」

「 う・・ う ん」

 口までが上手く回らない。智がコートまで着せたりしてひどく心配していた。智に半分程体を預けて寄り添って帰り道、私は自分の奥深くにまだ変わらずに巣食っているあの男の存在をひしひしと感じた。そして、それに反応してしまう、よく仕付けられた犬のような私自身も。あのお客に締め上げられた時に、生々しく蘇った感覚に赤さに、私はどうしていいのかわからず、ひたすら内に閉めてずっと黙っていた。

 そんな私の様子を時々横目で伺いながら、智は繰り返した。

「おでん、うまいの作るからな」

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