第4話
私はアルバイトとして智の店で働くようになって数日程経った頃あたりから、彼の真っ直ぐな視線に気付くようになった。
最初は気付かない振りをしていたのだが、見て見ぬ振りを通すには彼の気持ちは強過ぎた。しかし私はあまりに疲れ切っていて、色々と整理する意味も含めてしばらく一人でいたいと思っていたので、余計な事は考えたくなかったのが正直なところだった。
こちらから何も反応しなければ、そのうちにきっと諦めてくれる。そう思って、いくら目が合い過ぎてしまっても、私は敢えて何もリアクションしなかった。けれど、そんな事は彼にとってみれば気にならなかったらしい。相手の気持ちなんぞ二の次。そのくせ、自分も気付かない。
智は自分に本当に正直な人間だった。時として本能のまま、心のままに行動し過ぎて自分でもやっている事に気付かないのも多々あった。自分の心を押さえ込んで不本意な事をすると、ストレスや精神的お決まりの原因不明な異常が体に出る。背中が痛くなったり。体調を崩したり。元々健康体なので余計に目立って現れるらしかった。けれど、本人は認めないし気付かない。人の意見はあまり聞かない質なのだ。
さすがに私も智の事を意識し始めはしたが、やはり怖くて躊躇してしまい目を逸らしてしまう。しまいには、そんな自分が嫌になってしまいどうしていいのか困ってしまっていた。
そのくせ、彼の行動の彼方此方に大きな感情の波を起こす。
例えば、彼がガラスに張り付いた手強い粘着シートを剥がす為に両手で必死になって顔を真っ赤にして下に引っ張っている時。私はそのガラスを押さえながら、そんな彼を抱き締めて何度もキスしたいという欲情にも似た感情を必死で押さえる。
そして例えば、さっきまで力強く説明して威厳を見せていたと思ったら、次の瞬間、自分で置いた物に躓いて壊してしまった時とか。そんなそそっかしさすら可愛いと思って見てしまう私がいた。
智はなんと言うか、独特の明るさを持っていた。例えるなら、暗い建物の隙間から差し込む日向ぼっこ出来るくらいの大きさをした日溜まりのような。外の溢れている光や輝きとはまた違った種類の暖かさが智にはあった。誰でもその日溜まりの中にいると、周りとの色々な対比もあって自然と心地よくなってしまう。そんな暖かさだった。もちろん、その日溜まりはずっとそこにあるものではなく、太陽の動きと共に移動していって遂にはなくなってしまうけれど。毎日どんな形でも必ずそこに表れる。
たくさんの人が一緒に入れる位大きくもないし、一定でもずっと強いわけでもないけれど、決して無理をしないで変わらない。それが何だかとても人間らしくさえ感じてしまって、そんな自然体の彼が私には眩しかった。私のような汚れた人間には智はあまりにもったいなさ過ぎた。
何度考えてもやっぱりそこに辿り着いてしまう。私は自分に自信がないし、その自信を回復させるだけの元気がまだなかったのだ。
そんな事をやっているうちに、私の絵本の仕事が調子良く忙しくなってきたので、のんびりアルバイトをしている場合ではなくなってしまった。
辞めますと告げたあの時の智の顔は、今でもハッキリ覚えている。
さっきまであった光が絶望に似たなにかに打ち消されてしまったあんな目の色を、一気に血の気が引いてしまった薄白い顔を、悲し気な微かに開いた口元を、私は生涯忘れる事はないだろう。誰かが本当に心から深くショックを受けてしまった事に。それも、私がそんな思いをさせてしまったという事に。
私はその一瞬で、その一言で彼の純粋で真っ直ぐな気持ちを不安にさせてしまったのだ。
罪悪感と後悔が茨のように伸びてきて、チクチクと私の胸辺りを静かに刺した。
知らないもの同士が接触していくのだから、当然価値観も意識も受け止め方も異なってくる。多かれ少なかれ、知らず知らずのうちに相手を傷付けてしまう事だってもちろんある。私も今までに知らないで傷付けてきた事も、知っていて敢えて傷付けてきた事も何度もある。だから、何ともない筈だった。
「そう・・・残念、だ」
彼が努めて平静を装うとして頑張っているのが痛々しい程わかってしまい、私の決心は大きく揺らいだ。もう私の彼に対しての思い、止まっている事も困っていた事も、ついでに忙しくて辞めるという事までが、彼の失望感に比べれば、取るに足らないどうでもいい事のような気さえしてきた。どうしてか。
<彼を悲しませたくない>
自分でも気付かずに育っていた彼への気持ちが、初めて言葉としての形を持って表れた瞬間だった。いつのまに私はこんなに彼の気持ちとシンクロしていたのかと、我ながら驚いてしまった。しかもこんなに短い期間で。それとも私は初めから、彼に対する気持ちを知らないうちに育てていたのかもしれない。
「あの・・・飯でも、食べに行かない・・・? その・・送別会代わりで、いいんだけど」
いつもの分かりやすく簡潔に短い文章ではなくて、支離滅裂な言葉を早くも出てきた喪失感の空白に混ぜて並べ彼は私を誘ってきた。居たたまれない位に動揺している。私は頷いた。
彼の動揺は続いた。店を閉めるまでの間に何度も物を落とし、居酒屋ではトイレに立った時にグラスを引っ掛けて粉々に割ってしまい、更にその破片が偶然いた他のお客のブーツに入ってしまい大騒ぎになった。けれど、挨拶や態度に常識的な筈の彼は心ここにあらずで、ひたすら呆けていた。
「ごめん・・・」
近くまで送ると智が言い張って、私のアパートまでの帰り道にぽつりと彼がこぼした。
私はなんと言っていいのかわからなくて何も言えなかった。私がなにか口にしようものなら、彼はまるで泣き出しそうなくらい落ち込んでいた。私はいつからこんなに彼の細かいいちいちに現れる気持ちがわかってしまう様になったんだろう。それもやっぱり私が彼を意識していたと言う証拠に違いないのかもしれない。そんな事を考えて、地面に目を落として進む彼の少し後ろを歩いた。
まだ早い時間の夜の町を若者が大きな声で騒ぎながら行き過ぎ、会社帰りの人だろうか真剣な表情で家路へと急いでいた。子どもがはしゃぎながら走って行って、後ろから両親がのんびりついていく。
まるで2人だけしかいない雲の上でも歩いている様な、いやにふわふわしたカップルが、目を離したらお互いが消えてしまうのを恐れているんじゃないかと思われるくらいに熱く見つめ合い密着して、1つの幽霊の様に私達の横を通り過ぎた。
そんな活気の中に包まれていても、私達は全く違う所を歩いているようだった。彼は救急車がけたたましく通り過ぎても、よそ見した自転車が突っ込んできても、顔を上げなかった。
「あの・・・もうすぐだから、この辺でいいですよ」
坂道と小さな脇道と道路が交差する所に立っている白黄緑色の光を真っ直ぐ下に投げかける頼りないおもちゃみたいな電燈の下まで来た時に、私は思わず言ってしまった。
それは彼の気持ちを考えれば、今一番口にしてはいけない言葉の1つだったんだと思う。だけど、私にはどうしようもなかった。
私は彼をうちに迎え入れて、慰めれば良かったのだろうか。その行きずりでセックスでもすれば良かったのだろうか。それとも、このまま何も告げずに彼が気付くまで歩き続ければ良かったのだろうか。いずれにしても私の中途半端な自信のない気持ちのままでは、情熱的で純粋な彼の気持ちに対してあまりに失礼だと思ったのだ。
「ああ、うん。 そう」
「あの・・ ありがとうございました」
「・・え? 何が?」
「いえ、あの・・ お世話になったから」
「ああ。 いいよ」
「あの・・・」
私は口を閉ざした。電燈の灯りに半分だけ照らされながら斜め下を向いて、せわしなく足を踏み替えている彼は、もう目の前の私すら遮断しているようにも見えたのだ。
私達は今ここから、それぞれに違った日常を過ごして積み重ねていく事になる。例えお互いがいなくても、それなりに時は過ぎていく筈。後ろの坂を、大量のドラム缶を景気よく転がしたような派手な大きな音をたてながらバイクが上っていった。
ふと見ると彼の大きな手が白く乾涸びて、いかにも寒そうに見えた。
私は何の気なしにその手を取って、自分の両手で温めようとした。そのくらいなら、私でも彼の為に出来ると思ったのだ。その途端、彼は私を抱き締めた。
それはなにかを伝えようとする強い力だった。けれど、服の厚みなのか彼独特の抱き締め方なのか不思議と息苦しくはなかった。彼のあの日溜まりのような大きな体温を全身で感じ、私の中でなにかが弾け飛んだ気がした。新鮮なお湯みたいな暖かい液体が急激に胸に沸き上がって滲みていくのを感じた。耳元に彼の唇があるのがわかった。朝の湖みたいに落ち着いた静かな呼吸だった。
不思議と、私の中でさっきまで私を押し止めていた事柄は、消えはしなくてもあまり気にならないくらいに小さくなってしまったし、前向きな気持ちになっていた。彼の持つ力、もしくは彼の思いの力だったのかもしれない。そして、私達は本能的に悟った。一緒にいた方がいいと。
それから、3年。今に至っている。思えば、直感みたいな本能みたいな人間の心の奥底にある思いだけでずっと接して行動してきたので、今までの行動のつじつまとか過程の説明を誰かにしようとしても出来なかった。お互いだけが相通じるようなもの。それはある意味で一番信用出来る事なのかもしれないし、一番不安定で不確かなのかもしれない。
そしてそのせいかどうかわからなかったが、私達はお互いに関して細かい事はあまりよくわかっていなかった。何処で生まれて何処で育って、どんな家族がいてどんな風に育ってきただの。話す必要性を感じなかったのもあると思うし、過ぎた事は終わった事でいいんじゃないかと思っていたところもあるのかもしれない。又は話しづらかったのかもしれない。
とにかく、私はそう思って智に自分の過去を特には話さなかった。智もまた聞いてはこなかった。そして私も智の多くを知らなかった。
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