第3話

 夢をみた。

 願望とか想像とかではなくて、過去に実際に起こった記憶に多少勝手に余計な脚色をしただろうものを生々しく再現しただけの映像。

 生きている限り、頭が動作している限り、予告なし否応無しに勝手に上映される過去のフェイクドキュメンタリー映像だった。

 その内容は様々で、いつ何処で何を見るのかは決められない。ショッフルされた中の1つが偶然上映されて、更に勝手に自分も出演させられる事が大半。続けて同じ内容の場合もある。意味があるのかないのかは不明だし、それによってもたらされる効果もあったりなかったりする。ただあまり寝起きの悪い内容は出来る事なら誰でも避けたい。

 その時に私がみた内容も、あまり気分の良い内容ではなかった。

 工場の倉庫みたいな狭い所だった。天井から裸電球が垂れ下がっていて光々と私の手元を照らしている。私は廊下の気配に気を配り、必死にさっき届いたばかりの郵便物を探っている。その中にあいつからの手紙がある。それがわかるので、私は懸命に手紙の束を探った。

 公共料金の請求書と一緒に輪ゴムで固く括られて、その手紙を見つけた。

 ふざけた文字がのたくった宛先はあいつの家族だった。私はそれを素早く鞄に隠した。どうしてそんな事をしたのかわからない。けれど、どうしてもその手紙に何が書いてあるのか見たかった。

 いきなり扉が開いて人がたくさん流れ込んできた。なにかの仕事が終わったらしい。場面は変わり、帰り道、私は封筒を破いて中の手紙を取り出した。3枚の手紙には今の生活と仕事、それから女の事が書かれていた。

「雨程可愛かねーけど、今、俺彼女と住んでるんだー。結婚すんのかなんてまだわかんねーけどな。そのうちに連れてくよ」

 読んでいるうちに、文字がくねくねと動き出して映像まで再現されそうだった。バスから見ると空は眩しく太陽が輝いていて、ビルの上や間から光を投げかけてくる。

 私はそれを見ながら、クッキーの型ででも抜かれたように綺麗にボコッと空いた胸の穴をどうしたらいいのか思い、そして、それを思う自分を惨めに感じた。その穴からは、ハッキリとした感情は何も出てきそうもなかった。ただ、なにか嫌な臭いのする水銀みたいな無機質な液体が少し垂れてくる。結構しんどいレベルの自己負積パターン。

 最初から見なければいいのに。どうしても見ない訳にはいかなかった。自分にとって何も良い事なんてないのが解っていながら、自分にまた無機質な液体が貯まる事がわかっていながら、私は神経を擦り減らしてそうせずにはいられない。

 なにかの目的の為なのだろうか。<自分でもわからないなにか最終的な目的の為>

 それとも、諦める為の正式な理由を得て、自分を納得させる為か。私は悪くないと言ったり思ったりしたい為か。自分の中に負担や負積を溜めていって、私はこんなに我慢しましたと証明する為か。でも誰に? あいつに。聞いてくれた人に。友達に。周りに。世間に。。

 それが一体何になるのか。それは自分の心と神経を対価にする程、そんなに大切なことなのか。自分以外は誰も本当に自分の為には何もしてくれないのがわからないのか。それとも誉められたいのか。慰められたいのか。

 あんなろくでなしの男に一生懸命にくっ付いて我慢していたなんて偉いね。バカバカしい。そんなんじゃない。そんなんじゃない。家族、夫婦じゃあるまいし、他人同士の男と女なんてそんな事したところで同情もされない。

 私はこの手紙に一体何を求めていたんだろう・・・ それすら考えられない程に麻痺しているのか。

<いつのまに全てはこんなに遠くなったんだろう?>

 ぐんぐん走って行くバスの窓から、手紙をちぎっては飛ばした。全部光に溶ければ良い。

「お前は俺から離れられない」

 そう言われて顔を上げると、あいつの顔が目の前にあった。場面が変わっている。赤い部屋で性交をしていた。快感に歪む顔。うすら笑う口から暗示をかけるように次々漏れる呪いの言葉。やけに赤い。「お前は俺の物だ」「お前は俺から離れられない」「お前には俺しかいない」「お前は俺の・・・」

 ああ、いやだ・・・  助けて・・・  助けて!



 目を開けると、薄暗い部屋だった。窓の磨りガラスから僅かに夜明けの気配が滲み出ている。私は急いで横を見た。隣で、控え目ないびきをかいて丸まって寝ているのは智だった。

 私は安堵して智にすり寄った。智は迷惑そうに後ろを向いたので、その大きな背筋のついた温かい背中に抱きついた。よかった・・・

 そのまま30分程抱きついていたが再び眠れそうもなかったので、私はショールを巻いて起き上がり、靴下を履いてストーブを点けに台所に行った。息が白い。今朝はクラムチャウダーを作ろう。

 アラジンストーブの火が点いて、黄色い炎が回って青い炎に変わるのを見ていると気持ちが落ち着く。私はそのまましばらく火を見つめていた。気が済むと、やかんに水を入れて上にかけた。居間ではタイマーをかけておいたオイルヒーターがもう動いている。それでもストーブを点けないと寒いかもしれない。外はまだ雨が降っている。今日は絵を仕上げないと。あと少しなんだ。

 私はトースターを温めて、余っていた白ワインと水でアサリを茹でながら、ジャガ芋と人参と玉葱とセロリを出して洗って切り刻んだ。ベーコンと、窓際に育てているパセリもたっぷり刻んだ。刻んだ具をバターで炒めて、アサリの具を取り出したスープとローリエを加えて煮込む。いい匂いが漂ってきた。智はきっと目を覚ます。

 温まったトースターに厚切りのレーズンパンを二枚放り込んで、鍋に牛乳を加えて塩こしょう。卵を出して割ってオムレツを作ろうとした時、後ろから静かに戸棚を開ける音がした。

「おはよう。コーヒー入れるよ。 いい匂いだ。 クラムチャウダーは仕上げにパルメザンチーズ入れて」

 やんちゃな男の子みたいな可愛い寝起きの声でそう言って、智はストーブの上に乗っかって怒り狂った様に湯気を振り蒔いているやかんを取り上げた。

 その横で、古いトースターが悲痛な叫びをあげてパンが焼けたのを知らせた。ラジオの音と一緒に、ドリップコーヒーのいい香りが漂ってきた。

 智はコーヒーを煎れるのが本当に上手い。私は半分失敗と思われる、形のいびつなオムレツを引っくり返しながら、鼻歌を歌った。いい匂いと、いい時間が静かに波打つ台所。

「雨のクラムチャウダーは喜劇だけど、オムレツは悲劇だよな」

「・・・苦手なの」

「でも味は悪くない」

 智は素直に言って、半分スクランブルになったオムレツを口に運んだ。

「今日はもしかしたら遅くなるかも、ナレーションが伸びるかもしれないんだ」

 私は少し寂しさを感じながら答えた。あんな夢を見たからだ。

「そっか」

 勝手に映像化されたとはいえ、自分の頭の中で起こった事で受けたダメージを智に癒してもらいたいと思うのは、きっと甘え過ぎだろうな。自分でどうにかしなくちゃいけない事だってたくさんあるんだし。そう解っていても今日は智に少しでも一緒にいて欲しかった。

「最近、店開けてないね」

「ん。あぁ、ナレーションが忙しいからな。あの店は趣味って訳じゃないから、本当はちゃんと定期的に開けなきゃいけないんだけどね」

「あそこ、家賃とかどうしてるの?」

「あそこの土地は死んだ爺ちゃんから譲り受けたもんだから、固定資産税とかしかかからない」

「ふーん・・・」

「とは言っても、生産性もなく放置しておく訳にもいかないんだよな。常連さんなんかもそこそこ付いてるし」

「私が店番しといてあげよっか」

「仕事があるじゃん」

「私の仕事に必要なのは想像だから、スケッチブックとパソコンがあれば何処でも出来る」

「ふーん・・・」

 智はしばらく、例の斜視にしてコーヒーとオムレツのお皿辺りをぼんやり見つめて集中して考え込んでいた。私はコーヒーを飲んでラジオを聞きながら返答を待った。

「ま、いいか。じゃ、頼むよ。もし、お客さんにわからない事聞かれたら、電話して。録り最中以外なら出れると思うから」

 智の本業はナレーターだった。古道具屋は副業だった。それ以外にも、バンドやら色んな活動を幅広く行っていた。

 私が初めて智と出会ったのも、彼の店だった。なにか題材になるような物がないかと思って、路地を歩いていたら、偶然可愛らしい古道具屋があるのを見つけたのだった。あれ? こんな所にこんな店あったっけ?それもその筈。彼の多忙なスケジュールによって開店している日がまちまちなのである。偶然見つけられれば縁がありますね、とそんな雰囲気の店。

 何はともあれ、智は昼からのナレーションまで時間があったので、私の全然対した事ない仕事道具をトラックに乗せて店に行く支度をした。家の中を彼方此方と掻き回して、あれもこれもと何やら色々見繕っている。私の物なんて膝の上で充分収まるくらいの量しかないのに。

「火鉢あるけど、それだけじゃ寒いよ。防寒対策で行った方がいい。あと、これとこれも」

「そんなにいっぱい持って行ったら、家のがなくなるじゃない」

「また持って帰ってくればいいだろ。女は体が冷えるといけないんだ」

「私は寒がりじゃないから大丈夫だよ」

「お前、いつも足と手が冷たいじゃん。そう言うのは体によくない。とりあえずこれ着て」

 自分の分厚いセーターを放り投げてきた。埃と智の臭いがする濃いグレーの大きなセーターだ。

「それ、良いやつだよ。すごく暖かいから。あとこれも着て」

 続けて、煉瓦色の登山用みたいなジャケットも投げてきた。

「富士山に登るんじゃないんだから。こんな重装備で行かなきゃいけないくらい寒いの?」

「念のため」

 今にトレッキングブーツとか雨合羽まで飛んできそうな勢いだった。私はとりあえずグレーのセーターだけを着て、上から自分のダウンベストを着込んだ。智は餌を探す熊みたいに、まだ奥でゴソゴソしている。

 とっくに準備の出来た私は玄関でブーツを履いて、外に出た。雨は上がっていて、かじかむようなじっとりした寒い空気と、火事の時に上がる煙みたいな陰気な曇った空の下、対抗するように玄関脇の南天が本当に眩しいくらいの鮮やかな朱色の実をたくさんつけている。吐く息がいちいち白い。あの雲の中には雷猫が潜んでいそうだな。私はしばらく立って上を見ていた。

 ふと智が呼んでいるのが聞こえた。

「ねえ、俺の靴下は? ほら、雨からもらったやつ」

「霜降りの?」

「そう」

 見ると、寝室も居間も斬新なアート作品みたいに服やら下着やらズボンやらが思いっきり散乱している。はぁ・・

 私は押し入れの収納ケースから、智の求める靴下を出して渡した。

「これこれ。ありがとう」

 智がそれを履いている間、私は少しでも部屋を片付けようと散乱している服を拾い始めた。が、すぐに智に呼ばれた。

「見てこれ。穴空いてる。去年履き過ぎたのかも。これじゃダメだな」

「繕っておくよ。置いといて」

「他のある? 寒い」

 見ると、智は裸足にスリッパを突っ掛けている。私は急いで私の焦げ茶色の靴下を出した。私にはサイズが大きかったから入るかと思ったが、少し窮屈そうだった。智は悲しい目をして、ソファーに置いてある穴の空いた靴下を恨めしそうにじっと見つめた。

「いいのあったら、また買っとくから」

「そうだね。雨の選ぶ靴下はいつも上等だから」

 智は無理にでも優しく笑って、それから火の始末をして回った。小さい頃に家が火事になった事があり、更に一人暮らしをしてからも不注意で小火を出した事があるので、智はいつも神経質に火には気をつけていた。

「俺がいない時にも、火とガスには気をつけろよ。特に寝る時。雨はよくストーブ点けっぱなしで寝てるから心配なんだよ」

「ん・・・うん。・・・気をつける」

 寒い中で赤々と燃えるストーブは本当に気持ち良くて、その前で猫みたいにゴロゴロしたり、うたた寝するのが私は大好きだったのだ。そのままつい眠り込んでしまい、帰ってきた智に叱られる。

「行こ」

 腕時計を見ながら智が言った。私は散乱している衣服を諦め気味にざっと見やり、玄関に向かった。


 住宅が立ち並ぶくねくねした裏路地をずっと奥に行った所に、蔦に埋もれながらハナミズキの真っ白い花がたくさん咲いた木みたいに智の店はあった。出迎えは昔の喫茶店みたいに赤、青、黄色、オレンジ、緑の色ガラスが嵌め込まれた扉の横で鎮座する梟の置物だった。元はおじいちゃんが経営する喫茶店だったらしい。店の形はそのままで智が古道具屋にした。

「せっかく良い雰囲気なのに、壊すのはもったいないからな」

 智は鍵束から、これまたレトロなクローバーみたいな大きな飴色の鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。

 お化け屋敷のような不気味な音を散々たてて扉は開いた。中から湿気と黴臭さと埃の臭いが一緒くたになった空気がドライアイスの煙みたいに外に溢れ出た感じがした。智がチラッと私を横目で見た。

「少しは懐かしい?」

 そんな事聞かれてもわからなかった。だって懐かしいと感じるまで長い事ここで働いたわけじゃないし。ここのバイトが決まってからすぐに絵本の仕事が忙しくなってしまい、実際働いたのは2ヶ月に満たない。懐かしいどころか、初めて見る新鮮さの方を感じてしまう。私は2つある比較的大きな窓を開けて換気した。案外明るい空気が入ってくる。

「んー・・・初心に帰った感じ。レジとか教えといて。忘れてる」

「こっち来て。レジは別に難しくない。簡単」

 突き放すような冷たさにも取れる知的なトーンで説明しながら、智は手際良くさっさと教えてくれる。

ああ、そうだ。初めて会った時、この人こんな感じだったんだ。私はふと思い出した。最初は、何考えてるか全くわからないような印象だった。それに何だか威圧感があって怖かったな・・・忘れていた記憶が水中から上がって来る泡みたいに次々と懐かしく浮かんで来た。あの時は、まさかこうやってずっと一緒にいるようになるなんて想像も出来なかった。

「で、鍵はここ。聞いてる? 聞かれてわかんない事あったらすぐに電話して。雨よりお客さんの方が詳しいから、多分大丈夫だと思うけど」

「・・わかった」

「心配だな・・・もしもなにかあったら、ここに撃退用のスプレーがあるから。とにかく逃げるんだよ」

「うん」

「一応、隣の人には言っておくから。万が一おかしな雰囲気な奴が来たら、すぐに逃げる用意をしろよ」

「わかった」

「金は釣り銭くらいしかないから、金で済むなら渡しちゃっていいから。雨の命の方が大事だから」

「うん」

「それから、うちは値引きしたりしてないから。そんな事言う奴がいたらハッキリ断っていい」

「わかったから。大丈夫。なにかあったら電話するよ。ホラ、もう時間でしょ」

「そうなんだけど。心配なんだ」

「大丈夫だから。行ってきて。間に合わなくなるよ」

 私は智の太い首にマフラーを巻いた。伸びかけた髭に手をジャッリと擦る小気味良い音がした。智は一瞬とても心配そうに私を見たが、すぐに気分を変えたらしく元気に言った。

「じゃ、行ってきます。くれぐれも気を付けて」

「行ってらっしゃーい」

 戸口に立って、智が見えなくなるまで見送った。日の当る時間が短い立て込んだ裏路地は、早くも身震いするくらいの冷えた色の影がそこいらに落ちてきて少しずつ広がっている。

 外のオレンジ色の電球を幾つか点けて店に入ると、火鉢の中で墨がルビーのように美しく静かに燃えていた。私はしばらく火鉢に手を翳してから、持参したスケッチブックを開いて本業に取りかかった。

 その日は特に何もなかった。と言うか、なかなかお客の来ない暇な一日だった。結局、智には夕ご飯いるかどうかの電話しかしなかった。19時に店を閉めて、荷物を抱えてバスに乗り、家に帰った。

 鼻歌を歌いながらメンチカツを作っている時に、タイミング良く智も帰ってきた。

「お疲れ様。どうだった? 大丈夫だったでしょう?」

 一番心配してたくせに、まるで私が心配していたみたいに聞いてきた。自分が心配していた事は忘れちゃったのだろうか。それとも気恥ずかしいのだろうか。定かではない。変な人。

「うん。大丈夫だった」

「もう少ししたらナレーションの方が落ち着くと思う。そうしたら徐々に色々教えるから」

「うん。ねぇ、キャベツ刻んで」

「はいよ」

 智は豪快に手を洗い、鮮やかな手つきでキャベツと規則正しい軽快なリズムを刻み始めた。まるで彼の人生そのものを主張する様な明るく軽い音。聞いていると、私まで穏やかな普通の幸せの中にいるような気になる。違う。もういるんだ。私はちゃんと正常な気持ち良い空気の中にいるんだ。二度と歪んだ息苦しいものに縋らなくてもいいんだ。

 揚げ物をしながら、横目で確認するように智を盗み見た。大丈夫。智はちゃんとそこに存在している。脇見もふらず、一心不乱に包丁を動かして大量のキャベツの千切りを拵えている。そんな何気ない智を見る度に、私は何度でも愛おしいと思う感情を咲かせる。それは、なくしてはいけないくらいとても大切な感情なのだと思う。少なくとも私が智に接していく上では。もっとたくさん咲かせて、私の心を智に対しての感情で埋めなければ。もっと埋めなければ。少しでも多く。<私の心を智で埋めないと>

「出来上がり!」

 智は自信満々に大皿にたっぷりとキャベツを盛って、満面の笑みで私に見せた。

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