第5話

「Lascia Ch’io pingaはどうして、この名前なのか知ってる?」

 好物のレンコンの肉炒めを夢中で作る、スネアドラムのようなかん高い音が放出されるガスレンジの前で踊っているような彼女の後ろ姿を見つめながら、ふと既に食卓にスタンバイされたマスタードの瓶を徐に手に取り、俺は聞いた。

「え〜? 知らな〜い。どうして?」

 彼女は相変らず慌ただしそうにステップを踏みながら、振り向かずに返した。

「これを作った社長の奥さんが、趣味で教えているダンス教室で好んでよくかける楽曲から銘々したんらしいんだけど、どうやらオペラかなにかのワルツの曲名なんだって」

「そうなの? へぇ。聞いてみたいな。どんな曲なんだろうね」

「さぁ。今、君の踊ってるみたいな後ろ姿見てたら、急に思い出したんだ」

「ワルツって3拍子のダンスよね」

「そう。こんど一緒に踊ってみる?」

 すると、隣の部屋で一心不乱に紙を切ってお絵描きをしていた桃が終わったらしくドタバタ駆けてきて俺の手を引っ張った。桃は集中してなにかしている時は、彼女だろうと俺だろうと何人も傍にいるのを許さないのだ。

「できた!できたー!見て、見て!ダーリンには特別に見せてあげるよ!」

 桃の父親は、桃が生まれてからすぐに他の女と高飛びして、その女に騙されて挙げ句殺されたらしい。なので桃は父親の顔すら知らなかった。そのせいか俺によく懐いてくれたのだ。俺は父親と言うよりは、軽い友達みたいなノリで一緒に遊んでいた。

「ダーリンの工場ごっこしようよ!」

 そう言って、紙を細かく切って、そこにクレヨンでミミズがのたくったような字で記号のようなものを書き付けていく。彼女の太めのベルトやタオルを出して来て、長い蛇のように繋げて、ベルトコンベアーの真似をする。冬用の手袋を嵌めて、小さい布マスクをして、俺には何処からか軍手と紙マスクを出してきて渡した。俺が前に一度だけ話した事をよく覚えている。積み木にその紙をちょこんと乗せて、ベルトコンベアーの上を手動で動かしてくる。俺がチェックをすると、おもちゃの買い物かごに落としていく。その作業を飽きもせずに続ける。俺がつまらなくなって欠伸をすると怒られる。仕方ないので、休憩のベルの音を真似して言う。すると、桃はマスクと手袋を毟り取り、一目散に駆けて行って食卓に座って夕ご飯を待つ。面白い子だった。

「宿題やった?」

 彼女が出来上がったおかずを並べながら、箸を並べている桃に聞いた。

「もっちろん!ダーリンに教えてもらったの!いただきまーす!」

「いつも、ありがとう」

 簡単におもちゃを片付けて、食卓についた俺に彼女がまた申し訳無さそうに言った。

「いいよ。俺もクイズみたいで面白いし」

 帰りは必ず、アパートの窓から桃が恥ずかしいくらいに大きな声で送ってくれる。その声を後ろ手に木枯らしの中を俺は自分のオンボロアパートに寂しく帰っていく。

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