第4話

「いつも、ありがとう」

 楽しい食事の後、珈琲を飲みながらもしくは酒を飲みながら、彼女は必ずそう言った。申し訳ないと思っているのだろうか。

「寛ぎにきているだけだから」

「そっか。ごめんね」

 彼女は何故か寂しそうに笑う。俺はその顔があまり好きじゃない。彼女にはいつも太陽のように笑っていて欲しいんだ。それに、彼女のこんな曖昧な意味合いのごめんねも好きじゃない。なんだかプロポーズをして断られた時みたいじゃないか。

 彼女と付き合い始めて1年経った頃、俺は思い切ってプロポーズをした。工場にも慣れて、Lascia Ch’io pingaのラベルも完璧に貼れるようになった頃だった。彼女との付き合いもなんだか上手くいっていて、毎日が良い流れだった。

 俺は白いビニール手袋に強力な接着力を誇るラベルがくっ付いてしまったので、急いで予備の手袋を出して、素早くつけ直した。その時、何故か見慣れている風景に見とれた。工場内にいつも静かに響いている旋律に合わせ、黒いベルトコンベアーに乗って、ゆっくりと夢のような速度で、後から後から流れてくる乳白色の瓶が、俺の眼球に映っては通り過ぎて行く。バイオリンの不協和音に似た音が鳴った気がして、それに連動して水底から泡が浮かび上がってくるようにふと思ったんだ。そうだ彼女にプロポーズをしようと。

 無論、一時的に流れ作業が止まって怒鳴られた。けれど、急に俺には彼女しかいないと直感的に確信したからだ。それはわかるが時と場所を考えろと言われればそこまでだが、人間はいつ何処で、どんな事の何が浮上してくるかなんてわからないじゃないか。人間の2つに別れている脳みそは、いつでもどちらかが勝手な事を考えているんだと俺は思う。そして、いつだろうと思いついた事を水の泡や断片的なシグナルみたいにして思考に合図し、遠慮なく差し込んでくる。それが結構大切な事の場合もあるし、どうでもいい事の場合もある。けれど、見逃せない。少なくともその時の俺にとっては大切だと思う事だった。ところが、彼女にはあっさり断られた。

「今はまだ考えられないの。もう少し経ったら。ごめんね」

 正直ショックは大きかった。彼女の気持ちはわからなくはないけど、せっかちな俺はどうして今じゃいけないのかと思った。先に出来る事は今でも出来るだろう?

 けれど、そこで無理強いして彼女との関係を壊したくはなかったので我慢した。が、やはり何処かで、もしかしたら彼女は俺の事をそんなに好きではないのではと疑っていたのだ。だから今だ合鍵もくれないのか? そして、本当に色々な想像を膨らました。

 しばらくすると、桃が俺の事をダーリンと呼ぶようになった。それを彼女も咎める風でもなく、むしろ一緒になって言っていたので、俺は安心した。良かった。

 彼女は自己表現を得意とする人間の部類には到底入れそうもない程、そんなに感情の起伏が頻繁に現れる方ではなかった。しかも、独自の世界観や見解を持っていたので、よくわからない事で笑ったり、納得したりしている所謂不思議ちゃんだった。娘の桃は至って素直でわかりやすい子だったが、母親がこうだとむしろ逆の特性になる場合もあるのかもしれない。少なくとも母親と一緒の性質になってしまったら、桃自身にかかる負担が大きくなるのを桃は無意識に感知していたのかもしれない。

 稀に、彼女が料理を作る事がある。その時に食べたくなったものを作るので、かなり手間がかかって丁寧に作られていて、華やかな飯だった。枝豆とか鮭とかジャコがたくさん混ぜ込んだ五目稲荷とか、レンコンと玉葱を乗せたスズキのオーブン焼きとか、とろけるチーズがこれでもかと大量にかかったグラタンとか、シーフードがたっぷり入ったジャワ風のあっさりしたカレーとか、クラムチャウダーとか、野菜がたっぷり入った煮込みうどんとか、ソーセージとキャベツのスープなんかだ。どれも美味しい。どうやら、彼女は煮込みものや混ぜ物やオーブン物が得意らしかった。

「ダーリンのご飯は、ちょっと味が濃いけど、勢いがあって美味しいね!」

 桃はいつもニコニコしながら夢中になって食べてくれる。お世辞だけではなく素直に余計に言うところはちゃんと言うのが桃だった。その的中率ほぼ100%の核心を突いた発言に、時々大人げなくムッとする事もあるけれど・・・

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