第3話
俺のよく行く飲み屋のミレットは、銘々勝手に持ってきた楽器で、飲みながら好きにセッションできるような店だった。ミレットのママは恐らく50代くらいの、大らかで優しくて評判の大柄美人だった。俺はコンピューター会社に勤めていた頃からここによく来ていて、ギターを習ったのもここだった。残念ながら、もう他界してしまったが有名なクラシックギターの老先生が常連として来ていて、隣合わせて飲み合ううちに親しくなり、酔っぱらいのふざけ半分で無料で教えてもらったのだ。お陰で、ちゃんと習いに行っていないくせに、そこそこの曲なら即興で弾けるようになった。
もちろん今でもよくギター片手によく通う。その店には様々な人も楽器を持った人も来ていて、眺めているだけでも楽しいのだ。常時、店のお抱えアルバイトの演奏なんかもあって、ちょっとしたコンサート気分を味わえる。バーテンダーの男の子もハーモニカーを吹くし、ママはチェロを弾く。ピアニストもいるし、歌い手もいる。常連にはバイオリンを弾くのもいるし、マンドリンを習い始めたのもいる。中にはウッドベースを抱えてくるのまでいる。そして適当に知ってる曲でセッションしたり、踊ったり。とにかく稀に見る楽しい所だった。
面接の帰り道、ミレットに寄って、ママに喜び勇んでマスタード会社に就職が決まったと報告した。これで、大腕振ってミレットに飲みに来れるよと言うと、ママは子どものようにおかしそうに笑って、ナイチンゲールのような冴え渡る美しい声で言った。
「そのマスタードならうちの店でも使っているわ。あれは香りが抜群に良いから、マスタードと言えば、私はLascia Ch’io pingaよ。名前も素敵よね。でも、あれが日本産だと知った時には驚いたわ。日本の技術もまだまだ捨てたもんじゃないのね」
「俺は、その技術を維持していく為に頑張るよ!」
「ええ、ええ。無理せず、楽しくね。私ね、蓋を開ける度に、あの香りを嗅ぐ度に思うの。Lascia Ch’io pingaには何だか音楽に似たような楽しい要素がたくさん詰まっているって。きっと働いている人達の気持ちなんだわと、いつも思うの」
「へぇ」
マスタードに音楽? 楽しい要素? そんな事、思った事もなかったな。その前に、そんなに余裕のある食べ方でマスタードを食べた事がない。前にも挙げたように、俺にとってマスタードの思い出は遊園地の売店で売られているホットドッグだけだった。
「今はわからなくても、理解したいと思う気持ちがあればいつかわかるわ。人は相手は誰であれ、言われた事に対して自分の興味や関心がなければ、有難いお説教も入っていかないし飲み込めない。意味がないの。肝心なのはそれが自分にとって必要か必要じゃないかと、それをわかる時かどうかなの。それはほんの些細な事で簡単に変化していくから、自分ですら判断出来ない事もあるわ。でも、あとで思い出して使えるように、頭にストックしておくと便利よ」
不思議な顔をしている俺に、ママは穏やかにそう言ってキッチンに入っていった。
ママが言っていたように、確かに人は誰かになにかを言われても、簡単には素直に聞かないし実行しない。仕事や命に関わるような事は別だが、友達や家族や上司、恋人だって色んなケースでそれはあり得る。特にそれが批判を含んだ類いのものなら自分を攻撃するものと見なし、無意識に耳を塞いで自分を守ろうとする。相手の話すボリュームを小さくする。俺にもそういう傾向はあった。人の話を聞かないなんて言われるのはよくあるし、人に注意されても聞けないのだ。気を付けてはいるのだが、なかなか治らない。ま、いいや。要は、誰でも自分から助けを求めたりしない限りはおせっかいに口を出さない方が良いって事。いくら言っても言われても無駄。いや。しまっておくなら言われた事、聞いた事は無駄にはならないか。ママの言葉は頭の何処かにしまっておこう。なんだか良い傾向だ。好転の連鎖。俺はその晩、心底いい気分で酔っていた。
カウンターに半分前屈みに寄り掛かって、ウイスキーを片手に演奏を聞いていた。ハーモニカとギターだった。弾いているのはクラシックだろうか? ちょっとギターを弾けると言っても、あまり音楽に詳しくない俺には幅広い分野の事は正直よくわからなかった。しかし、心地良いメロディーに引きずり込まれてうたた寝をしそうになった。
まったく。音楽と酒なんて、切っても切れない恋人同士だ。空間までが違って見える。別世界に連れていかれたようにいい気持ちになってそれが終わるのが惜しくなってくる。リベルタンゴ。これは知っている。昔、同僚に誘われてタンゴ教室に見学に行ったな。そいつは奥さんと習うんだとか何とか言って。俺には関係ないのに連れていかれた。その時にかかっていた。印象的な力強い曲だったので覚えている。
ママの知り合いらしく、珍しくママもチェロを持って参加した。ママのチェロを聞ける機会は滅多にない。まるで、深い森の中にいるような力強い風の音にも、草のざわめきにも木々の囁きにも似た、その厳かな音は聞く者の内側に染み渡るように優しく響いていく。圧巻だった。それに比べると、さっきまで主役を主張していたハーモニカは、ピクニックに来た森の中で大きな欠伸を連発している子どもの声みたいに聞こえた。落ち着いたギターの音すらも、可愛らしく聞こえてしまうのだ。本当に音楽は音を出す人柄や人生が正直に出るのだと思う。
俺はうっとりと目を瞑り聞き惚れていた。多分大多数の人がそうしていたと思うけど。すると、すぐ隣に衣擦れの気配を感じて、不審に思い目を開けると、目の前にいたのが白い袖無しのタートルセーターとブルージーンズのタイトな格好をした彼女だったのだ。彼女はまだ俺の前に置かれていたLascia Ch’io pingaを手に取り、眺めながら、誰に向かって言うでもなく呟くように鈴のような涼やかな声でそっと口にした。
「私、これ大好き」
俺は、彼女が動く度に色素の薄い髪が顔にかかる様、それを耳にかける彼女の手の動きをしばらく魂を抜かれたように見つめていた。彼女もだいぶ酔っているらしく、崩れるようにカウンターに座り込んで、死んだ魚のような目をしていたであろう俺を見た。
「この名前の意味、知ってる?」
急に聞かれたので、俺はアルコールとアドレナリンと音の麻薬が混ざった液体の中で心地よく浮かんでいる脳みそを働かせて考えようとしたが、当然うまくいかなかった。
聞こえてくるリズミカルなハーモニカの音に合わせて、戸惑って赤くなったり青くなったりカメレオンみたいに顔の色が変わっていただろう俺には一向構わず、彼女は長い睫毛を楽しそうに何度も瞬かせて、色のない艶めいた唇から、チェロの音に似た種類のまるでいい匂いの風を吹き出すように言った。
「私を泣かして下さい」
浮かんでいた脳みそが大きな音をたてて勢いよく沈んだ。或いはその音はその時に流れていた曲の決めの音だったのかもしれない。俺はその時から、彼女に夢中なんだ。
好転の連鎖。
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