第2話

 そもそも俺と彼女の親しくなったきっかけも、このLascia Ch’io pingaだった。このマスタード、名前こそ大層な横文字を使っちゃいたが、実は日本で、しかも俺の働く小さな下町のしがない工場で鯖缶みたいに黙々と作られていた。その工場は工場長と奥さんで作ったもので、2人共マスタードが大好物だった。

 世界中のマスタードを食べ歩き、何とか日本で自作出来ないかと研究に研究を重ね、ようやく出来上がったのがこのLascia Ch’io pingaだった。

 1つ1つ手仕事なので生産数自体があまり多くないが、無添加、無着色、無香料にこだわって食材を選ぶような飲食業なんかの顧客も割と多くついていて、その味に知る人ぞ知るような存在のマスタードだった。確かにLascia Ch’io pingaは美味いのだ。それは、声を上げてしまう程、或いは唸ってしまう程の美味さだった。

 俺は33の時に、それまで勤めていたコンピューター会社のリストラに合って、路頭に迷っていた時に、ちょうど求人誌に掲載されていた見落としそうなくらいに小さい募集広告を見つけて応募したのだ。社員として採用されて以来つつがなく日々を送っている。その面接で工場長から聞かれた妙な質問を、今でもよく覚えている。

「君はマスタードについてどう思うのかね?」

 生まれてこのかた、マスタードについてどう思うのかなんて一度も考えた事がなかった。何しろ、俺にとってのマスタードは遊園地で食べるホットドッグにケチャップと一緒にかかっているあの辛みのある黄色い奴でしかなかった。しかも一緒にデカイ口を開ける相手はいつも違った。初デートの時限定だったのだ。俺は必ず、初めてデートする娘とはまず遊園地に行ってホットドッグを食べる。その食べ方によってセックスをするか、しないでそれっきりかを決めるのだ。所謂判断基準の脇役だった。もちろん脇役だって重要だ。しかし、どうしてそんな事をするようになったのか。

 俺が一番初めに遊園地に行って、ホットドッグを食べたのは小学生の時。相手は母親だった。それから数日後に母親は変態に襲われ無惨に殺されてしまったが、とても女らしい仕草と雰囲気をした人だった。彼女は、小さかった俺のホットドッグにまで間違って大量にかけられた、その偽物みたいな真っ黄色の小辛いやつを綺麗に拭き取ってくれたのだ。それから、ふんわりと笑って自分のホットドッグを上品に口に入れた。そのソーセージとパンのくわえ方、食べ方があまりに綺麗で、子ども心に思わず母親の口元に見とれてしまったのだ。恐らくそれがきっかけだったと思うが、ハッキリとはわからない。思い出は思いの出る素。思いが発生する原因もしくは基盤となる過去の記憶。それはあながち間違っていない。それが物事を考える時の物差しの要素の1つになっている事は確かだと思うから。それはギターの弦を調整するように、時々必要にかられて現れては俺の考えを細やかに調整していく。気付かないくらいにこっそりと。連鎖とでも言うのか。マスタードの思い出もなにかの要素に使われている。本当か?

 とりあえず、俺はそんな事を踏まえて連想できる言葉を思いついた順に適当に並べて、適当に言ってみた。

「俺にとって、マスタードは純情な欲望の3分の1と曖昧な潜在意識との間を彩る繊細な名脇役だと思います」

「ほほう。実に興味深い見解をお持ちですね。そうですか。成る程ね」

 その言い方の一体何が気に入ったのか不明だが、次の日から俺はその工場に通う事になった。そして、初めて粒マスタードなるものの存在を知ったのだった。

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